第31話:楽園を追放される時
白い防護服に身を包んだカイトは、手元のタブレット端末を事務的に操作していた。
画面には、敷地内のマップが表示されている。
そこには、無数の「赤い点」が点滅していた。
剛田を始めとする、侵入者たちを示すマーカーだ。
「……さて」
カイトは指先を滑らせた。
メニュー画面から【敷地内管理】を選択し、サブメニューの【ゴミ出し(転送)】を開く。
「対象選択。……『未登録の有機物すべて』」
ピッ。
タップした瞬間、剛田や、気絶して転がっているゴロツキたちが、青い枠でロックオンされた。
システム上、彼らはもう人間ではない。
庭の美観を損ねる「大型の生ゴミ」として認識されている。
「廃棄場所は……」
カイトは少しだけ考え、地図の等高線を確認した。
「この山の麓、『汚泥沼』あたりでいいか」
そこは、都市からの排水と、森の腐敗物が流れ着く淀みだ。
地面が柔らかい泥状になっているため、高所から落としても即死はしないだろう。
「死なれると怨霊になられても迷惑だしな。それに……」
ガスマスクの奥で、カイトの目が冷たく細められた。
「元気でいてくれた方が、『二度とここに来られない絶望』を長く味わえる」
それは慈悲ではない。
死よりも重い罰を与えるための、計算された悪意だった。
カイトの指が、画面上の赤いボタンにかかる。
確認のポップアップが出る。
『警告:対象エリアへの強制排出を実行しますか?』
「さようなら。達者で暮らせよ」
カイトは躊躇なくボタンを押した。
『システム:大型生ゴミの排出を開始します』
◇
「……あ?」
剛田は、カイトの足元にすがりつこうとしていた。
だが、その手が空を切った。
フッ。
音が消えた。
目の前にあった白いゴム長靴が、カイトの姿が、歪んで消えていく。
いや、違う。
自分たちが消えようとしているのだ。
足元の感触がなくなる。
硬く、頼もしかったインターロッキングの地面が消失する。
体がふわりと浮き上がった。
魔法陣のような光はない。
ただ、空間の座標が書き換わり、世界の裏側へと突き落とされるような、強烈な浮遊感。
「ま、待っ――」
剛田が叫ぼうとした瞬間、視界が暗転した。
白い家。銀色のフェンス。青い空。
それらが走馬灯のように遠ざかり、一瞬で黒い闇に塗りつぶされる。
そして、強烈な重力加速度が襲いかかった。
ヒュオオオオオオッ!
風を切る音。
落下している。
どこへ?
決まっている。天国から、地獄へだ。
ドボォォォンッ!!
重く、湿った水音が響き渡った。
剛田の体は、粘り気のある液体の中へと深々と沈んでいった。
◇
「ブハッ! ガボッ、ゲホッ、ゲホッ!」
剛田は水面から顔を出した。
口に入ってきた液体を、激しく咳き込んで吐き出す。
「……まっず」
舌に残る味。
それは、さっきまで味わっていた「清潔な空気」とは対極にあるものだった。
腐った藻。モンスターの排泄物。溶け出した金属。
それらが混ざり合い、発酵した、この世で最も不快なスープの味。
「ここは……どこだ……?」
剛田は泥水を払い、周囲を見渡した。
薄暗い森の中。
足元は底なしの泥沼。
周囲には、気絶したまま落ちてきた仲間たちが、泥人形のように転がっている。
山の麓。
自分たちが登山を開始した、あの場所に近い沼地だ。
「も、戻ったのか……?」
剛田は自分の手を見た。
ついさっきまで、清潔な敷石の上にいた手。
それが今は、ドス黒い泥と、緑色の藻にまみれている。
その瞬間、地獄が牙を剥いた。
ムワッ。
熱気が、全身を包み込んだ。
「あつ……い……?」
気温三十八度。湿度九十九%。
カイトの家(二十四度・五十%)に慣れてしまった皮膚にとって、この環境変化は「熱湯」に浸かるのと同義だった。
汗が噴き出す。
だが、湿度のせいで蒸発しない。
服が肌にベッタリと張り付く。
さっきまでサラサラだった肌が、一瞬にしてヌルヌルの不快感に支配される。
「痒い……! 痒いッ!」
治まっていた肉化病の患部が、湿気に反応して悲鳴を上げた。
カイトのポーションで「固定」されたはずの皮膚が、外気の毒素と反応し、焼けるような痒みを訴える。
そして、臭い。
鼻が曲がりそうな腐敗臭。
メタンガスの泡がポコポコと弾け、目に染みる。
さっきまで嗅いでいた「石鹸の香り」や「コーヒーの香り」との落差が、脳をかき乱す。
「オェッ……!」
剛田は嘔吐した。
胃の中身がないので、黄色い胃液だけが出る。
「違う……。ここは俺の居場所じゃない……!」
剛田は泥を掻きむしった。
ぬるりとした感触が気持ち悪い。
硬い床がいい。冷たい空気がいい。
身体が覚えているのだ。
あの一瞬だけ味わった「文明」の味を。
あの絶対的な安心感を。
それは麻薬のようなものだった。
一度知ってしまえば、もう元の生活(野蛮)には戻れない。
耐えられるわけがない。
こんな不潔な場所で、泥水をすすって生きるなんて。
禁断症状。
肺が綺麗な酸素を求めて痙攣し、皮膚が湿度に耐えられず悲鳴を上げる。
「嫌だ……! 嫌だぁぁぁッ!」
剛田は叫んだ。
子供のように、手足をバタつかせて泥を跳ね上げた。
「戻してくれ! あの天国に戻してくれぇぇぇ!」
彼は山を見上げた。
鬱蒼とした木々の隙間、遥か彼方の山頂に、キラリと輝く「白い点」が見える。
あそこには、あるのだ。
氷の入ったコーラが。
ふかふかの布団が。
ウォシュレット付きのトイレが。
「あぁ……あぁぁ……」
剛田は手を伸ばした。
届かない。絶対に届かない。
物理的な距離以上に、あの場所とここには「次元の壁」がある。
仲間たちも目を覚まし、状況を理解して絶望に沈んでいた。
「水……綺麗な水を……」
「あの空気がないと息ができない……!」
彼らは中毒患者のように、失われた楽園を求めてのたうち回る。
死ぬことよりも辛い。
「もっと良い世界がある」と知ってしまったまま、地獄で生き続けなければならないのだから。
それは、カイトが与えた永遠の罰だった。
剛田の慟哭が、森の湿った空気に吸い込まれて消えていく。
もう二度と、彼らが「聖域」の地を踏むことはないだろう。
◇
――一方その頃。
聖域のリビングでは、カイトが窓の外を眺めていた。
「ふぅ、片付いた」
彼が見ているのは、山麓の方角ではない。
庭の芝生だ。
剛田たちが転げ回った場所に、まだ微かに泥汚れが残っている。
「ポチ。庭に消毒液を撒いといてくれ。念入りにな」
カイトが指示を出すと、庭の隅から愛犬ロボ・ポチが現れ、「ワン!(了解)」と吠えた。
背中のタンクからノズルを伸ばし、次亜塩素酸水を散布し始める。
カイトはパンパン、と両手を払った。
まるで、汚いゴミ袋をゴミ捨て場に置いてきた後のように。
彼の心には、剛田たちへの同情も、復讐を遂げた達成感もない。
あるのは「ようやくゴミ収集車が行ってくれた」という、日常的な安堵だけだ。
「さて」
カイトはソファに座り直し、中断していたゲームのコントローラーを手に取った。
「変な邪魔が入ったけど……平和な日常の再開だ」
「主様、お茶が入りましたよ」
キッチンから、レナがアイスティーとお菓子を持ってくる。
氷のカランという音。
クッキーの焼ける甘い匂い。
エアコンの風が、カイトの前髪を優しく揺らす。
外では元仲間たちが泥沼で泣き叫んでいるかもしれないが、この二重サッシの内側には、そんな雑音は届かない。
カイトはアイスティーを一口飲み、満足げに息をついた。
「うん。やっぱり、家が一番だ」
彼は画面の中の勇者を操作し、新たな冒険へと没頭していった。




