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第3話:世界で唯一の「無機物」

『スキル【無機物保存イノガニック・キーパー】発動。座標固定』


 脳内に響く無機質な声は、神の啓示というよりは、パソコンの起動音のように事務的だった。


『対象エリアの物理法則を「旧西暦2025年基準」へロールバックします』


「……ロール、バック……?」


 俺がその言葉を反芻はんすうする間もなく、世界が書き換わり始めた。


 俺の足元から広がった青白い光。

 それは魔法の粒子のようなあやふやなものではない。

 縦、横、高さ。

 空間を正確に区切る、3Dモデリングの「ワイヤーフレーム(グリッド線)」のような幾何学的な光のラインだった。


 ヒュンッ、と風を切る音がする。

 グリッドが地面を走る。

 ボコボコと血管が隆起し、不規則に脈打っていた有機的な地面が、光の線が通過した瞬間に、無理やり「水平な平面」へと矯正されていく。


 そして、俺の肌にまとわりついていた湿気と熱気が、嘘のように消え失せた。

 まるで高性能なノイズキャンセリングイヤホンをつけた時のように、世界から不快な「生体ノイズ」が遮断される。


 静かだ。

 耳が痛くなるほどに、静かだ。


 光のグリッドは勢いを増し、目の前にそびえる「肉塊と化した廃別荘」を包み込んだ。


「あ……」


 俺は身構えた。

 爆発するのか? それとも、家が悲鳴を上げるのか?


 だが、起きた現象は、もっと静かで――そして残酷なほどの「拒絶」だった。


 ジュッ、という乾いた音が響く。


 家の外壁にへばりついていた赤黒い筋肉。

 窓を塞いでいた白濁した角膜。

 屋根を覆っていた毛細血管のツタ。


 それらが一斉に、灰色に変色した。

 水分を強制的に奪われ、栄養の供給を絶たれ、生命活動を維持できなくなった細胞が、瞬時に壊死えししたのだ。


 カサカサ、サラサラ……。


 乾いた音が鳴る。

 それは生物が死ぬ時の生々しい音ではない。枯れ葉が舞うような、あるいは古い塗装が剥がれ落ちるような、軽い音。


 ドサッ、ドサッ。


 炭化した肉の塊が、ボロボロと外壁から剥がれ落ちていく。

 そこに「痛み」や「苦しみ」といった感情はない。

 ただのゴミとして、重力に従って落下するだけだ。


 そして――ゴミが落ちた後には、真実の姿が現れた。


「白……」


 俺は息を飲んだ。

 現れたのは、一点の曇りもない「白」。


 窯業ようぎょう系サイディングの外壁だ。

 工場でプレスされ、高温で焼き固められた、均一な工業製品の輝き。

 泥も、カビも、苔すら生えていない。

 まるで新築引き渡し直後のような、「新品」の状態。


 俺は震える足で、生まれ変わった家へと近づいた。

 一歩、また一歩。

 靴底から伝わる感触が違う。ぬるりとした不安定さがない。

 カツン、という硬質な音が、俺の鼓動とリンクする。


 俺は壁の前に立ち、恐る恐る手を伸ばした。

 指先が、白いサイディングに触れる。


「……っ」


 冷たい。

 ザラりとした、硬質な感触。


 外の世界の壁は、いつだって生温かかった。

 触れれば脈打ち、柔らかく沈み込み、消化液を滲ませて俺を拒絶した。

 だが、この壁は違う。

 冷たく、硬く、そして――動かない。


「動かない……。呼吸してない……」


 ただの「物」だ。

 俺を食おうとする意志を持たない、沈黙した物質。

 その冷徹な無関心が、今の俺にはどんな聖人の慈悲よりも優しく感じられた。


 俺の視線が、壁の一部に釘付けになる。

 アルミサッシの窓枠だ。


 そこには、この世界が失って久しいものが存在していた。


「……直線だ」


 定規で引いたような、完全な直線。

 そして、窓の四隅。

 狂いのない、九十度の直角。


 生体都市には「直線」も「直角」も存在しない。

 生物の体は曲線でできている。全てが歪み、膨張し、不定形だ。

 だが、ここにはある。

 人間が知恵と技術で作り出し、自然界の法則をねじ伏せて定義した「秩序」が。


 俺は窓枠に額を押し付けた。

 ひんやりとしたアルミの冷たさが、熱を持った額を冷やしてくれる。


「……四角い。まっすぐだ。歪んでない……」


 涙が溢れ出し、頬を伝って窓枠に落ちた。

 それは美術品への感動ではない。

 狂った世界の中で、唯一の「正気」を見つけた安堵だった。


「ありがとう……。戻ってきてくれて、ありがとう……」


 俺はしばらくの間、窓枠にしがみついて泣いた。

 誰が見ていたら狂人だと思っただろう。

 ただの家の壁に頬ずりして号泣する男なんて。

 でも、俺にはこれが必要だった。この「冷たい硬さ」だけが、俺の崩れかけた精神を繋ぎ止めてくれた。


 ふと、足元を見る。

 剥がれ落ちた肉塊(汚染物質)は、青いグリッドの力で結界の外へと弾き出されていた。

 家の周囲半径二十メートル。

 そこには、乾燥した灰色の地面――「コンクリートの基礎(犬走り)」が現れていた。


 俺は迷わず靴を脱ぎ捨てた。

 泥と汚物にまみれた靴下も脱ぎ捨て、裸足になる。


 ペタリ。


 素足を、コンクリートの上に置く。

 ひんやりとした冷たさが、足の裏から脳天へと突き抜ける。

 ざらついた砂の感触。

 硬い。痛いくらいに硬い。

 体重をかけても、1ミリも沈まない頼もしさ。


 俺は顔を上げた。

 周囲の森からは、まだモンスターの咆哮や、木々が軋む不快な音が聞こえてくる。

 だが、それらの音は青いグリッドの結界フェンスに阻まれ、こちらの領域には届かない。


 ここは聖域だ。

 地獄の真ん中にぽっかりと空いた、たった直径四十メートルの「21世紀」。


 俺は玄関の前に立った。

 ドアノブは、銀色に輝くステンレス製だ。

 握る。

 冷たい。そして、滑らない。

 分子が密に結合した金属特有の、拒絶的なまでの硬度。


 ガチャリ。


 小気味よい金属音が響いた。

 それは「生物の死ぬ音」ではない。精密に加工された部品が噛み合う、「文明の音」だ。


 ドアが少しだけ開く。

 隙間から漏れ出たのは、カビでも腐臭でもない。

 新品の建材と、接着剤の微かな化学臭。

 俺にとっての、天国の香り。


「……ただいま」


 俺は誰にともなく呟き、その扉を開けた。

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