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第29話:デトックス・ショック(拒絶反応)

 死の雨だった。

 上空から降り注ぐ無数の黒いつぶて――硬質ゴム弾が、ゴロツキたちの骨を砕き、意識を刈り取っていく。

 逃げ場はない。タレットの照準は正確無比で、背を向けた者の足を確実に撃ち抜いていた。


「畜生……畜生ォ……!」


 剛田は地面をっていた。

 肩と太ももをやられた。骨がヒビ割れているのがわかる。激痛で意識が飛びそうだ。

 だが、彼の執念は消えていなかった。


(入れてくれ……。俺はただ、楽になりたいだけなんだ……)


 薬が欲しい。水が欲しい。

 この全身を食い荒らすかゆみと、腐敗の苦しみから解放されたい。

 目の前にある白い城。あの中に入れば、すべてが救われるという妄信だけが、彼を突き動かしていた。


 ズダダダダッ!


 すぐ横の地面が弾け、土煙が上がる。

 剛田は悲鳴を上げながら転がった。

 その時だ。


「……あ?」


 タレットの射線が届かない死角。

 フェンスと地面の接合部に、わずかな「隙間」を見つけた。

 おそらく、雨水を外へ流すための排水溝だ。

 人間が通れるサイズではない。せいぜい、猫が通れるかどうか。


 だが、剛田は迷わなかった。


「入る……入るぞ……!」


 彼は泥だらけの体をねじ込んだ。

 肩が引っかかる。構わない。無理やり押し込む。

 装備が剥がれ、皮膚がコンクリートの角で削ぎ落とされる。

 血と膿が潤滑油代わりになり、ズルリと体が滑り込む。


 痛みなど関係ない。

 彼はゴキブリのような執念で、その狭い穴をくぐり抜けた。


 ◇


 ポンッ。


 栓が抜けたように、剛田の体がフェンスの内側へ転がり出た。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 剛田は仰向けになり、荒い息をついた。

 静かだ。

 あの耳をつんざく発砲音が止んだ。タレットのセンサーは、内側に入った対象を検知していないのか、あるいは攻撃を中止したのか。


 剛田はゆっくりと上半身を起こした。


「……へ、へへっ」


 笑いがこみ上げてきた。

 入った。

 ついに、結界の内側に到達したのだ。


 彼は立ち上がった。

 足元を見る。

 そこには、幾何学模様に敷き詰められた「インターロッキングブロック(敷石)」があった。

 泥ではない。水平で、硬く、清潔な石畳。

 靴底に伝わる安定感が、彼に勝利を確信させた。


「やった……やったぞ!」


 剛田は両手を広げ、白い家を見上げた。

 美しい。近くで見ると、その白さは神々しいほどだ。

 窓の向こうには、涼しげな顔をしたカイトが見える。


「ざまあみろカイト! セキュリティを突破したぞ! ここは俺の場所だ! この綺麗な空気は、全部俺のもんだ!」


 剛田は勝利の雄叫びを上げ――そして、深呼吸をした。


 スゥーッ。


 肺いっぱいに吸い込む。

 この「楽園」の空気を。

 ちりひとつなく、適度な湿度が保たれた、純粋無垢な酸素を。


 それは、彼が夢にまで見た瞬間のはずだった。


 だが。


「……あ?」


 一歩、歩き出した瞬間。

 視界がグラリと揺れた。


 足に力が入らない。

 膝が笑う。いや、違う。神経が遮断されたように感覚がない。


 ドクンッ!


 心臓が、早鐘を打った。

 脈拍が跳ね上がる。血管が破裂しそうなほどの高血圧。

 指先が震え、激しい「寒気」が全身を襲う。


(寒い? なんでだ? ここは涼しくて快適なはずじゃ……)


 違う。

 これは涼しさではない。

 生命維持機能が低下したことによる、悪寒だ。


「が、はッ……!?」


 剛田は口を押さえた。

 指の隙間から、ドロリとしたものが溢れ出す。

 血ではない。

 真っ黒な、ヘドロのような粘液。


 喀血かっけつ


「ごふっ! おぇえええっ!」


 彼はその場に膝から崩れ落ちた。

 口から、鼻から、目から。

 体中の穴という穴から、汚染された体液が噴き出す。


 そして、最も恐ろしいことが起きた。

 彼の全身を覆っていた「肉化病」の患部――魚の鱗のように硬質化していた皮膚が、パリパリと音を立ててひび割れ始めたのだ。


 乾燥。

 この空間の「適正湿度(50%)」は、常に湿度100%の環境でふやけていた彼の皮膚にとって、急速乾燥ドライ地獄だった。


 ボロボロと、皮膚が剥がれ落ちる。

 その下から覗くのは、新しい皮膚ではない。生肉のような組織だ。


「い、痛い……! 熱い……! なんだこれは!?」


 剛田はのたうち回った。

 空気が痛い。

 呼吸をするたびに、肺が焼けるようにただれる。

 まるで、肺の中に漂白剤を流し込まれているような激痛。


「毒か!? 毒ガスを撒いたのかカイトォォッ!」


 彼は錯乱し、綺麗な敷石を黒い血で汚しながら転げ回った。


 ◇


「……やっぱりか」


 リビングで、俺はその様子をモニター越しに眺めていた。

 手には、飲みかけのコーヒー。

 俺の表情にあるのは、勝利の喜びでも、敵への怒りでもない。

 ただ、予想通りの実験結果を見た研究者のような、冷めた納得だけだ。


「潜水病と同じだよ」


 俺は誰にともなく解説した。


「あるいは、深海魚をいきなり陸に引き上げたようなものか」


 剛田たちの体は、もう普通の人間ではない。

 長年、高濃度の瘴気と細菌に晒され、それを吸い込むことでバランスを保つように変異(適応)してしまっている。

 彼らの細胞は、汚染物質と「共生」することで生き延びているのだ。


 そんな体が、突然「無菌・無毒」の空間に入ったらどうなるか?


 答えは、「デトックス・ショック(急激な解毒による拒絶反応)」。


 体内の汚染物質が、清浄な空気との浸透圧の差によって、一気に体外へ排出しようと暴走する。

 細胞壁が耐えられずに崩壊し、多臓器不全とショック症状を引き起こす。


「今の彼にとって、僕の家の空気は『猛毒』なんだよ」


 皮肉な話だ。

 彼が求めてやまなかった「清潔な天国」は、彼のような汚れた存在にとっては、致死性のガス室だったのだ。


「……さて」


 俺はコーヒーカップを置いた。

 このまま放置すれば、彼はショック死して、ただの汚い肉塊(死体)になるだろう。

 死体処理は面倒だ。腐ると臭いし、コンクリートに染みができる。


「追い出すか。生きたまま」


 俺は立ち上がり、クローゼットから「あの装備」を取り出した。

 レナを回収した時よりもさらに重装備な、完全化学防護服(タイベック製)。

 そして、長いステンレス製のゴミ拾い用トング。


 俺は防護服に身を包み、ガスマスクを装着した。

 シューッ、という呼吸音がマスク内に響く。


「行くぞ。不法投棄の処理だ」


 ◇


「あがっ、あぁ……! 助け……て……」


 剛田の視界は、霞んでほとんど見えなくなっていた。

 インターロッキングの目地を爪で掻きながら、彼は這いずり回る。

 目の前には、美しい白い家がある。

 手は届く距離なのに、そこへ近づくほどに体が拒絶反応を起こし、嘔吐おうとしてしまう。


 ガチャリ。


 玄関のドアが開く音がした。

 剛田は、希望にすがるように顔を上げた。

 カイトだ。カイトが出てきてくれた。

 きっと薬を持ってきてくれたんだ。


「カ、カイト……!」


 だが、現れた姿を見て、剛田は言葉を詰まらせた。


 真っ白な防護服。

 顔を完全に隠すガスマスク。

 手にはゴム手袋と、長い金属のトング

 右手には、業務用の消臭スプレーボトル。


 その姿は、旧友を迎える姿でも、救助者の姿でもなかった。

 汚染区域を処理する「清掃員」の姿だ。


 カイトは剛田から2メートルの距離で立ち止まった。

 それ以上は近づかない。

 ガスマスクの奥にある瞳は、哀れみすらなく、ただ「汚いな」という事実を確認しているだけの目だった。


「……かわいそうに」


 マスク越しに、くぐもった声が響く。


「君はもう、人間じゃなくなっていたんだね」


 その言葉は、ゴム弾の衝撃よりも深く、剛田の心臓をえぐった。

 人間じゃない。

 汚物だ。

 カイトはそう言っているのだ。


「う、嘘だ……俺は……俺は……!」


 剛田は手を伸ばした。

 その手は黒い粘液で汚れ、爪は剥がれかけている。

 カイトは無言で一歩下がった。


 汚れるから。


 その明確な拒絶の動作が、剛田にとっては何よりも残酷な「死刑宣告」だった。

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