第26話:インターホン越しの交渉
剛田は、目の前にそびえ立つ白亜の城壁――サイディングの壁を見上げていた。
近くで見ると、その異常性はさらに際立っていた。
表面には微細な凹凸の加工が施されているが、汚れ一つ付着していない。
この森の空気中には、常に粘着質の胞子が漂っているはずなのに、この壁には結界が張られているかのように塵が寄り付かないのだ。
「……なんだ、あれは」
剛田の視線が、門柱らしき場所に埋め込まれた「銀色の箱」に吸い寄せられた。
縦長の長方形。
磨き上げられたステンレスの光沢。
その上部には、黒く艶やかなガラス玉のような「瞳」があり、下部には青白く発光する「ボタン」がついている。
「魔道具……か?」
剛田は警戒した。
罠かもしれない。あのボタンを押した瞬間、雷撃が放たれるのかもしれない。
だが、ここを開けさせなければ、中にある(と彼が信じている)特効薬は手に入らない。
剛田は意を決した。
泥と膿にまみれ、皮膚がただれた指先を震わせながら、その青い光に触れる。
ポチッ。
軽いクリック感。
その直後だった。
ピンポーン。
軽快な電子音が鳴り響いた。
あまりにもクリアで、人工的な音色。
生物の鳴き声とも、魔法の詠唱とも違う。
森のジメジメとした空気を鋭利な刃物で切り裂くような、完璧に調律された和音だった。
「うおっ!?」
剛田たちはビクリと肩を跳ねさせ、一斉に武器を構えた。
ゴロツキの一人が叫ぶ。
「な、なんだ今の音は! 結界の発動音か!?」
「わからねぇ! だが、何かが起きるぞ……!」
彼らは身構えた。
だが、攻撃魔法が飛んでくることはなかった。
代わりに、銀色の箱から「声」が降ってきた。
◇
『……あーあ。押したよ。カメラのレンズに指紋がつくなぁ』
◇
リビングのソファで、俺は携帯ゲーム機を握りながら溜息をついた。
壁に設置されたインターホンの親機モニターには、アップになった剛田の汚い顔が映っている。
4K高画質カメラのせいで、彼の鼻の毛穴に詰まった脂まで見えてしまう。
「最悪だ。あとでレナにアルコールで拭いてもらわないと」
俺はゲームを一時停止した。
ちょうどボスのドロップアイテム厳選中だったのに。
俺は不機嫌さを隠そうともせず、モニターの「通話ボタン」を押した。
◇
剛田の耳元で、再び声が響いた。
『はい、どちら様ですか?』
剛田は腰を抜かしそうになった。
声だ。人の声だ。
だが、質が違う。
この世界にある「遠話の魔道具」は、ザザッというノイズ混じりで、声が遠く、聞き取りにくいのが常識だ。
だが、この箱から聞こえる声は、まるで鼓膜のすぐ隣で囁かれているかのように鮮明だった。
息遣いすら伝わってくるほどの解像度。
そのあまりの「技術格差」に、剛田は本能的な恐怖を覚えた。
「お、おいカイト! いるんだろ! 開けろ!」
剛田は恐怖を振り払うように、銀色の箱に向かって怒鳴った。
カメラのレンズが、じっと彼を見つめ返している。
まるで、魂の汚れまで見透かすような黒い瞳。
「俺だ、リーダーの剛田だ! わかってるんだぞ、そこに隠れてるってことはな!」
スピーカーから、気だるげな声が返ってくる。
『モニターで見えてますよ。剛田さん』
カイトの声は、かつて荷物持ちとしてこき使っていた時の、怯えた声ではなかった。
圧倒的な安全圏から、路傍の石を見るような、冷徹でドライな響き。
『で、何の用ですか? 今、忙しいんですけど』
「い、忙しいだと!?」
剛田は激昂した。
自分たちが泥水をすすりながらここまで来たというのに、あいつは何を言っているんだ。
モンスターの襲撃か? それとも魔法の実験か?
「何をしている! Sランクモンスターでも出たのか!?」
『いや、ゲームのボス戦前でして。セーブポイントが近いんで、手短にお願いします』
――ゲーム?
剛田の思考が一瞬停止した。
遊戯? こんな、死と隣り合わせの世界で?
俺たちが生きるか死ぬかの瀬戸際にいる時に、あいつは遊びの時間を邪魔されたと文句を言っているのか?
プツン。
剛田の脳内で、何かが切れる音がした。
「ふ……ふざけるなァァァッ!!」
剛田はカメラのレンズに顔を近づけ、唾を飛ばしながら絶叫した。
レンズに汚い飛沫が付着する。
「その綺麗な家はなんだ! その白い壁は! 透明なガラスは! この豊かな空気はなんだ!」
「俺たちはなぁ! 毎日泥まみれで、痒みにのたうち回って、腐った水を飲んでるんだぞ!」
「なんで無能なお前が! こんな贅沢をしてやがるんだ!」
嫉妬。
理不尽なまでの格差への怒り。
そして、剛田の中で、ある一つの「歪んだロジック」が完成した。
そうだ。ありえない。
Fランクの貧乏人が、こんな城を建てられるはずがない。
資金源はどこだ?
決まっている。
「わかったぞ……! お前、俺たちの『パーティ資金』を盗んだな!?」
剛田は確信を込めて叫んだ。
いや、そう思い込まなければ、自分の惨めさを正当化できなかったのだ。
「俺たちが命がけで稼いだ金をネコババして、こんな贅沢な城を建てやがったんだろ!」
「それは俺たちの金だ! その壁も、その空気も、全部俺たちのものだ!」
「返せ! 中に入れろ! 俺はその天国に入る権利があるんだァァ!」
論理の飛躍も甚だしい言いがかり。
だが、後ろに控えるゴロツキたちや商人にとっては、攻め込むための格好の「大義名分」となった。
「そうだ! 泥棒め、門を開けろ!」
「その薬と財宝は、我々商会が管理すべきものだ!」
罵声と怒号が飛び交う。
彼らは武器を振り上げ、フェンスを叩き始めた。
◇
「……はぁ」
俺はモニターを見ながら、深くため息をついた。
被害妄想もここまでくると才能だな。
「あのさぁ。君たちの稼ぎじゃ、このフェンスのネジ一本も買えないよ」
俺は事実を告げた。
このアルミフェンスは、俺の魔力(MP)を変換して生成した純度100%の工業製品だ。
この世界で同じ純度の金属を作ろうとしたら、国家予算が必要になるだろう。
彼らの全財産など、ワンコイン(100円)程度の価値しかない。
だが、狂乱した彼らに言葉は通じない。
『開けろ! 開けないなら、この壁をぶっ壊してでも入るぞ! 殺してでも奪い取ってやる!』
スピーカーから、殺意に満ちた宣言が響く。
俺は冷めた目でモニターを見つめた。
画面の中の剛田が、剣を振り上げている。その剣は錆びつき、かつて俺が丁寧に磨いてやった輝きは見る影もない。
「……不法侵入、および強盗予告として受け取ります」
俺は「通話終了」ボタンに指をかけた。
これ以上、話しても無駄だ。
何より――。
「レナ。レンズ拭く準備しといて。唾が飛んで汚い」
「はい、主様。消毒用エタノールを持って待機します」
俺はマイクに向かって、最後の通告を行った。
『これ以上、僕の敷地に関わらないでくれ』
俺は言葉を選ばず、本心を告げた。
『君たちは――汚すぎる』
ピッ。
プツッ。
通話を切断する。
モニターの映像が消え、リビングに静寂が戻った。
◇
プツッ。
無機質な切断音が、森に響いた。
スピーカーからの声が消え、インターホンの青い光がフッと消灯する。
取り残された剛田たちは、呆然とした後、顔を真っ赤にして震え出した。
「き、汚い……だと……?」
泥棒呼ばわりされるなら、まだいい。言い返せる。
だが、「汚い」という言葉は、議論の余地のない生理的な拒絶だ。
人間として扱われていない。
生ゴミを見るような目で、遮断されたのだ。
「なめるな……なめるなよ、カイトォォォッ!!」
剛田の理性が弾け飛んだ。
「やってやる……! 壊してやる! こんなふざけた家、バラバラにしてやる!」
「中に入って、お前の目の前でその綺麗な床に泥を塗りたくってやる!」
剛田は錆びついた大剣を構え、銀色のフェンスに向かって突進した。
スキルを発動する。
全てを叩き壊し、あの生意気な元部下を引きずり出してやるために。
だが、彼らは気づいていなかった。
フェンスの向こう側。
手入れされた美しい芝生の一部が、静かにスライドして開き始めていることに。
ウィィィン……。
地下からせり上がってくる、白い無機質な銃身。
平和な日常を守るための、無慈悲な掃除道具が、その冷たい瞳を彼らに向けていた。




