第25話:警告音
聖域のリビングには、ジャズが流れていた。
スマホのプレイリストからBluetoothスピーカーに飛ばした、ゆったりとしたピアノの旋律。
俺、柏木カイトは、革張りのソファに深く腰掛け、淹れたてのドリップコーヒー(モカ・ブレンド)の香りを堪能していた。
「……いい香りだ」
カップから立ち上る湯気が、照明の光を受けて揺らめく。
室温は二十四度。湿度は完璧に管理されている。
肌はサラサラで、服が張り付く不快感など微塵もない。
外の世界では、剛田たちが泥沼の中を進軍している頃だろうか。
想像するだけで肌が痒くなる。
俺は、この平和な空間にいられることの幸せを噛み締め、コーヒーを一口啜った。
酸味と苦味のバランスが絶妙だ。
視界の端では、同居人のレナが忙しなく動いていた。
彼女の今日の装備は、フリル付きのエプロンに、三角巾。
手には剣ではなく、「フローリングワイパー(ドライシート装着)」が握られている。
サッ、サッ。
軽快なリズムで床を滑らせる。
「ふふっ♪ ここもピカピカ、あそこもピカピカ……」
彼女は埃ひとつない床を見て、うっとりと微笑んでいる。
かつて「鮮血の戦乙女」と呼ばれたSランク冒険者の姿はどこにもない。
あるのは、掃除という名の聖なる儀式に没頭する、一人の潔癖な信徒の姿だけだ。
「平和だねぇ」
「はい、主様。今日もホコリ検知数はゼロを維持しています。この完璧な『無菌空間』こそ、私たちが守り抜くべき聖域です」
レナはワイパーを聖剣のように掲げて答えた。
俺は苦笑しながら、カップをソーサーに戻そうとした。
その時だった。
ピンポンパンポーン。
部屋の天井スピーカーから、場違いなほど軽快なチャイム音が鳴り響いた。
デパートの呼び出し音のような、間の抜けた電子音。
だが、それは俺が設定した「侵入者警報」だ。
「……おっと」
俺は眉をひそめた。
レナの動きがピタリと止まる。彼女の目が、掃除婦のそれから、一瞬にして戦士の目(獲物を見つけた猛獣の目)に変わった。
「お客様かしら。それとも、ゴミかしら」
「確認しよう」
俺はテーブルの上のリモコンを手に取り、壁掛けの65インチ4Kテレビに向けてボタンを押した。
入力切替。
外部監視カメラ映像へ。
パッ。
画面が切り替わる。
映し出されたのは、東側のゲート――剛田たちが到着した、正門前の映像だった。
「……うわ」
俺は思わず、顔をしかめてコーヒーカップを置いた。
4K画質が無駄に機能していた。
そこに映っていたのは、泥と膿にまみれ、ボロボロの包帯を巻いた男たちの集団だった。
先頭にいるのは、見覚えのある顔。
剛田だ。
だが、以前会った時よりも数段汚くなっている。
皮膚はただれ、目ヤニがこびりつき、半開きの口からは涎が垂れている。
その周囲を、黒いハエがブンブンと飛び回っている様子まで、鮮明に映し出されていた。
「汚なっ……」
俺の口から、率直な感想が漏れた。
恐怖? 緊張感?
そんなものはない。
あるのは、生理的な拒絶反応だけだ。
「なんだあれ。ゾンビ映画のエキストラか? ……いや、剛田か」
「主様、あれは……」
「ああ、元パーティの連中だ。……それにしても」
俺は画面に近づき、顔をしかめた。
剛田の靴。
靴底には、ヘドロのような泥が分厚くこびりついている。
その汚い足で、俺が綺麗に敷き詰めた「インターロッキングブロック(敷石)」を踏んでいるのだ。
「やめてくれよ。あの泥、油を含んでるからデッキブラシでも落ちにくいんだぞ」
「許せません……ッ!」
隣で、バキッという音がした。
見ると、レナが握っていたフローリングワイパーの柄に、亀裂が入っていた。
「主様。あの男の手を見てください」
レナが画面の一点を指差す。
剛田の手だ。膿と泥で黒ずんだその手が、銀色のフェンスに触れようとしている。
「私が今朝、二時間かけて磨き上げたフェンスに……! 指紋一つ残さないよう、セーム革で拭き上げたあの鏡面に……!」
レナの全身から、どす黒いオーラが立ち昇る。
それは、俺のかつての仲間への怒りではない。
ましてや、復讐心でもない。
「掃除した場所を汚されたくない」という、主婦としての純粋かつ激しい殺意だ。
「あの汚い手で触れようとしています……! バイ菌が! カビの胞子が移ります!」
「落ち着けレナ、ワイパーが折れる」
「主様、行ってまいります。首を刎ねて、焼却処分してきます」
レナがエプロンの紐を締め直し、玄関へとダッシュしようとする。
俺は慌てて立ち上がり、彼女の肩を掴んで制止した。
「待て。外に出るな」
「なぜですか!? 彼らは害虫です! 即刻駆除すべきです!」
「君が斬ると、どうなる?」
俺は冷静に諭した。
「奴らは病気だ。体液には未知の菌が含まれているかもしれない。斬れば血が出る。血飛沫が飛ぶ」
「……っ」
「その返り血を浴びた君を、また玄関で消毒して、風呂場で洗うのは誰だ? 僕だぞ」
俺の言葉に、レナがハッとする。
彼女は自分のTシャツを見た。
せっかく洗濯したばかりの、いい匂いのする服。
もし外に出て戦えば、これが剛田の汚い血で汚れることになる。
「……それは、申し訳ありません。主様の手を煩わせるわけには……」
「そうだ。労力をかけるな。こちらの被害はゼロに抑える。それが『運営』の鉄則だ」
俺はレナを座らせ、手元のタブレット端末を起動した。
スマートホーム管理アプリ。
その中にある、物騒なアイコンをタップする。
【防衛設備管理】
> 迎撃タレット A-1(待機中)
俺はメニューを開き、弾薬の種類を確認した。
「実弾」「榴弾」「徹甲弾」。
どれも威力は十分だが、欠点がある。
相手が死ぬことだ。
死体が出れば、それを片付ける手間が発生する。腐れば臭いし、虫も湧く。
俺の目的は「殲滅」ではない。「退去」だ。
二度と来たくないと思わせる、強烈な痛みと拒絶を与えればいい。
「弾種変更:【ゴム弾(非致死性)】」
タップ。設定完了。
俺はニヤリと笑った。
「殺すと死体処理(生ゴミ出し)が面倒だからな。痛みだけでお引き取り願おう」
◇
剛田たちがフェンスに取り付こうとした、その瞬間。
ウィィィン……。
静かなモーター音が響いた。
手入れされた緑の芝生の一部が、スライドして左右に開く。
地下格納庫からせり上がってきたのは、白く塗装された流線型の機械。
二連装の銃身を持つ、自動迎撃システム。
CIWS(近接防御火器システム)を小型化し、家庭用にアレンジ(?)したカイト特製の番犬だ。
その銃口が、ウィッと微調整を行い、剛田たちの鼻先にピタリと照準を合わせる。
『ターゲット・ロック。排除モード、起動』
タブレットに表示された文字を見て、俺は冷酷に呟いた。
「不法投棄はお断りだ。……ファイア」
俺の指が、実行ボタンを押す。
それは、一方的な「お仕置き」の開始合図だった。




