表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/65

第25話:警告音

 聖域のリビングには、ジャズが流れていた。

 スマホのプレイリストからBluetoothスピーカーに飛ばした、ゆったりとしたピアノの旋律。


 俺、柏木カイトは、革張りのソファに深く腰掛け、淹れたてのドリップコーヒー(モカ・ブレンド)の香りを堪能していた。


「……いい香りだ」


 カップから立ち上る湯気が、照明の光を受けて揺らめく。

 室温は二十四度。湿度は完璧に管理されている。

 肌はサラサラで、服が張り付く不快感など微塵もない。


 外の世界では、剛田たちが泥沼の中を進軍している頃だろうか。

 想像するだけで肌が痒くなる。

 俺は、この平和な空間にいられることの幸せを噛み締め、コーヒーを一口啜った。

 酸味と苦味のバランスが絶妙だ。


 視界の端では、同居人のレナが忙しなく動いていた。

 彼女の今日の装備は、フリル付きのエプロンに、三角巾。

 手には剣ではなく、「フローリングワイパー(ドライシート装着)」が握られている。


 サッ、サッ。


 軽快なリズムで床を滑らせる。


「ふふっ♪ ここもピカピカ、あそこもピカピカ……」


 彼女は埃ひとつない床を見て、うっとりと微笑んでいる。

 かつて「鮮血の戦乙女」と呼ばれたSランク冒険者の姿はどこにもない。

 あるのは、掃除という名の聖なる儀式に没頭する、一人の潔癖な信徒の姿だけだ。


「平和だねぇ」

「はい、主様。今日もホコリ検知数はゼロを維持しています。この完璧な『無菌空間』こそ、私たちが守り抜くべき聖域です」


 レナはワイパーを聖剣のように掲げて答えた。

 俺は苦笑しながら、カップをソーサーに戻そうとした。


 その時だった。


 ピンポンパンポーン。


 部屋の天井スピーカーから、場違いなほど軽快なチャイム音が鳴り響いた。

 デパートの呼び出し音のような、間の抜けた電子音。

 だが、それは俺が設定した「侵入者警報アラート」だ。


「……おっと」


 俺は眉をひそめた。

 レナの動きがピタリと止まる。彼女の目が、掃除婦のそれから、一瞬にして戦士の目(獲物を見つけた猛獣の目)に変わった。


「お客様かしら。それとも、ゴミかしら」

「確認しよう」


 俺はテーブルの上のリモコンを手に取り、壁掛けの65インチ4Kテレビに向けてボタンを押した。

 入力切替。

 外部監視カメラ映像へ。


 パッ。


 画面が切り替わる。

 映し出されたのは、東側のゲート――剛田たちが到着した、正門前の映像だった。


「……うわ」


 俺は思わず、顔をしかめてコーヒーカップを置いた。

 4K画質が無駄に機能していた。


 そこに映っていたのは、泥とうみにまみれ、ボロボロの包帯を巻いた男たちの集団だった。

 先頭にいるのは、見覚えのある顔。

 剛田だ。

 だが、以前会った時よりも数段汚くなっている。

 皮膚はただれ、目ヤニがこびりつき、半開きの口からはよだれが垂れている。

 その周囲を、黒いハエがブンブンと飛び回っている様子まで、鮮明に映し出されていた。


きたなっ……」


 俺の口から、率直な感想が漏れた。

 恐怖? 緊張感?

 そんなものはない。

 あるのは、生理的な拒絶反応だけだ。


「なんだあれ。ゾンビ映画のエキストラか? ……いや、剛田か」

「主様、あれは……」

「ああ、元パーティの連中だ。……それにしても」


 俺は画面に近づき、顔をしかめた。

 剛田の靴。

 靴底には、ヘドロのような泥が分厚くこびりついている。

 その汚い足で、俺が綺麗に敷き詰めた「インターロッキングブロック(敷石)」を踏んでいるのだ。


「やめてくれよ。あの泥、油を含んでるからデッキブラシでも落ちにくいんだぞ」

「許せません……ッ!」


 隣で、バキッという音がした。

 見ると、レナが握っていたフローリングワイパーの柄に、亀裂が入っていた。


「主様。あの男の手を見てください」


 レナが画面の一点を指差す。

 剛田の手だ。膿と泥で黒ずんだその手が、銀色のフェンスに触れようとしている。


「私が今朝、二時間かけて磨き上げたフェンスに……! 指紋一つ残さないよう、セーム革で拭き上げたあの鏡面に……!」


 レナの全身から、どす黒いオーラが立ち昇る。

 それは、俺のかつての仲間への怒りではない。

 ましてや、復讐心でもない。


 「掃除した場所を汚されたくない」という、主婦としての純粋かつ激しい殺意だ。


「あの汚い手で触れようとしています……! バイ菌が! カビの胞子が移ります!」

「落ち着けレナ、ワイパーが折れる」

「主様、行ってまいります。首をねて、焼却処分してきます」


 レナがエプロンの紐を締め直し、玄関へとダッシュしようとする。

 俺は慌てて立ち上がり、彼女の肩を掴んで制止した。


「待て。外に出るな」

「なぜですか!? 彼らは害虫です! 即刻駆除すべきです!」

「君が斬ると、どうなる?」


 俺は冷静に諭した。


「奴らは病気だ。体液には未知の菌が含まれているかもしれない。斬れば血が出る。血飛沫しぶきが飛ぶ」

「……っ」

「その返り血を浴びた君を、また玄関で消毒して、風呂場で洗うのは誰だ? 僕だぞ」


 俺の言葉に、レナがハッとする。

 彼女は自分のTシャツを見た。

 せっかく洗濯したばかりの、いい匂いのする服。

 もし外に出て戦えば、これが剛田の汚い血で汚れることになる。


「……それは、申し訳ありません。主様の手を煩わせるわけには……」

「そうだ。労力コストをかけるな。こちらの被害はゼロに抑える。それが『運営』の鉄則だ」


 俺はレナを座らせ、手元のタブレット端末を起動した。

 スマートホーム管理アプリ。

 その中にある、物騒なアイコンをタップする。


 【防衛設備管理】

  > 迎撃タレット A-1(待機中)


 俺はメニューを開き、弾薬の種類を確認した。

 「実弾」「榴弾」「徹甲弾」。

 どれも威力は十分だが、欠点がある。

 相手が死ぬことだ。

 死体が出れば、それを片付ける手間が発生する。腐れば臭いし、虫も湧く。


 俺の目的は「殲滅」ではない。「退去」だ。

 二度と来たくないと思わせる、強烈な痛みと拒絶を与えればいい。


「弾種変更:【ゴム弾(非致死性)】」


 タップ。設定完了。

 俺はニヤリと笑った。


「殺すと死体処理(生ゴミ出し)が面倒だからな。痛みだけでお引き取り願おう」


 ◇


 剛田たちがフェンスに取り付こうとした、その瞬間。


 ウィィィン……。


 静かなモーター音が響いた。

 手入れされた緑の芝生の一部が、スライドして左右に開く。


 地下格納庫からせり上がってきたのは、白く塗装された流線型の機械。

 二連装の銃身バレルを持つ、自動迎撃システム。

 CIWS(近接防御火器システム)を小型化し、家庭用にアレンジ(?)したカイト特製の番犬だ。


 その銃口が、ウィッと微調整を行い、剛田たちの鼻先にピタリと照準を合わせる。


『ターゲット・ロック。排除モード、起動』


 タブレットに表示された文字を見て、俺は冷酷に呟いた。


「不法投棄はお断りだ。……ファイア」


 俺の指が、実行ボタンを押す。

 それは、一方的な「お仕置き」の開始合図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ