第22話:元パーティの惨状
ガリッ、ガリッ、ガリッ。
薄暗い部屋に、皮膚を爪で削る湿った音が響いている。
拠点都市「第3セクター」の最下層にある安宿。
窓の外からは、蒸気機関の排気音と、都市の不快な蠕動音が絶え間なく聞こえてくる。
「クソッ……痒い……! なんでこんなに痒いんだッ!」
冒険者パーティ「紅蓮の牙」のリーダー、剛田は、ベッドの上でのたうち回っていた。
ベッドと言っても、巨大な獣の皮をなめしただけの、生温かくて湿っぽい寝床だ。
そこに染み込んだダニや細菌が、弱った彼の体を容赦なく攻め立てている。
剛田は狂ったように自分の右腕を掻きむしった。
爪の間に、垢と血、そして黄色い膿が溜まる。
それでも痒みは止まらない。
骨の髄から湧き上がってくるような、焼けつくような痒み。
「畜生……なんだこれは。俺の体はどうなっちまったんだ……」
彼は脂汗にまみれた目で、自分の腕を見た。
かつては鋼のように鍛え上げられた筋肉。
だが今は、赤い斑点が無数に広がり、一部は魚の鱗のように硬質化してひび割れている。
――肉化病。
この世界特有の風土病だ。
都市から発せられる高濃度の瘴気(微細な変異細胞)を吸い込み続けることで、人体が徐々に「都市の一部」へと作り変えられていく病。
進行すれば、理性を失い、最終的には壁や地面と同化して肉塊となる。
「水……水をくれ……」
部屋の隅から、呻くような声がした。
パーティメンバーの魔導師だ。
彼は壁に寄りかかり、虚ろな目で天井を見上げている。彼の顔の半分は既にドス黒く変色し、唇はただれて塞がっていた。
「おい、ポーションはどうした! まだ残ってるだろ!」
剛田が怒鳴ると、盗賊の男が力なく首を振った。
「ないよ……。昨日、全部飲んじまった。……そもそも、最近のポーションは効きが悪いんだ。店に行っても『混ぜ物』しか売ってくれねぇ」
「クソッ! 足元を見やがって!」
剛田は苛立ちに任せて、枕元に置いてあった愛用の大剣を掴もうとした。
ジュクッ。
嫌な音がした。
剣の柄を握った瞬間、掌にぬるりとした感触が走ったのだ。
「あ? ……なんだこれ」
剛田は剣を持ち上げ、絶句した。
剣身は赤錆に覆われ、刃こぼれし、見る影もない。
そして何より、持ち手である柄の部分に、正体不明の「白いカビ」のような粘菌がびっしりと繁殖していたのだ。
革巻きのグリップが腐り落ち、菌糸が剛田の手の皮と癒着しようとしていた。
「うわぁぁッ!」
剛田は反射的に剣を投げ捨てた。
カラン、と鈍い音が床に響く。
「なんでだ! なんで俺の剣がこんなにボロボロなんだ! 先週買ったばかりだぞ!?」
「……手入れをしてないからさ」
盗賊が、諦めきった声で呟いた。
「この街の空気は酸性だ。一晩放置するだけで、鉄は錆びる。……わかってるだろ?」
「だからって、こんなに早く腐るかよ! 今までは平気だったじゃねぇか!」
「今までは……あいつがいたからな」
あいつ。
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
柏木カイト。
数日前、剛田が自らの手で追放した、荷物持ちの雑用係。
戦闘力皆無のFランク。
いつもマスクをして、手袋をして、何かに怯えるように震えていた潔癖症の男。
剛田の脳裏に、記憶が蘇る。
野営のたびに、カイトは必死になって装備を磨いていた。
『酸を拭き取らないと』『カビの胞子がついています』
そうブツブツ言いながら、貴重な綺麗な布とオイルを使って、パーティ全員の武器や防具をメンテナンスしていた。
剛田たちはそれを笑っていた。
「戦えない無能の点数稼ぎだ」と。
「潔癖症の道楽に付き合ってやるのも楽じゃねえな」と。
だが、現実はどうだ。
カイトがいなくなってたった数日。
誰も拭かなくなった装備は、瞬く間に都市の消化液に侵され、スクラップ寸前になっていた。
鎧の継ぎ目は錆びつき、動くたびにギチギチと悲鳴を上げる。
ブーツの中は湿気で腐り、水虫が悪化して歩くのも辛い。
カイトは「雑用」をしていたのではない。
この過酷な環境から、パーティの命(装備と衛生)を守る「防壁」だったのだ。
「……ッ」
剛田は唇を噛みしめた。血の味がした。
認めたくない。
あの無能が、実は自分たちを支えていたなんて。
そんなことを認めてしまえば、自分こそが「真の無能」だったことになってしまう。
だから、剛田のプライドは、事実を歪曲した。
捻じ曲がった怒りが、脳内で新たなロジックを構築する。
「……あいつ、知ってやがったな?」
剛田は低い声で唸った。
「こうなることを知ってて……黙って出て行きやがったのか!?」
「え?」
「そうだろ! 『俺がいなけりゃお前らの装備は腐るぞ』って、なんで警告しなかった! わざとだ! あいつは俺たちをハメやがったんだ!」
完全に言いがかりだった。
カイトは何度も警告していた。剛田たちがそれを「うるさい小言」として聞き流していただけだ。
だが、今の剛田に正論は通じない。
この全身を苛む痒みと痛みの原因を、誰かのせいにしなければ発狂してしまうからだ。
「恩知らずのクズが……! 拾ってやった恩を仇で返しやがって……!」
剛田がベッドを殴りつけた時、ドアがノックされた。
返事をする間もなく、ガチャリとドアが開く。
入ってきたのは、脂ぎった顔の肥満体の男。
悪徳商会「黒鉄屋」の主人、クロガネだ。
「やあやあ、剛田さん。ご機嫌はいかがかな?」
「……最悪だ。見てわからねぇのか」
剛田は憎々しげに睨んだ。
この商人には借金がある。装備のローンと、ポーション代だ。
「借金の返済は待てと言っただろ。……痒い、クソッ、もっと効く薬を持ってこい!」
「ふむ。お困りのようですな」
クロガネはハンカチで鼻を押さえながら(この部屋の異臭に耐えられないのだ)、ニヤリと笑った。
「実は……借金をチャラにするどころか、特効薬を買ってお釣りが来るほどの『儲け話』がありましてね」
「あぁ?」
「最近、街で話題になっている『聖域』の噂をご存知で?」
クロガネは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、地図が描かれている。
印がつけられているのは、都市から西に位置する山岳地帯。
「この山の奥に、信じられないほどの『清潔な物資』を独占している者がいるらしいのです」
「清潔な、物資……?」
「ええ。腐らない水、濁りのないガラス、そしてカビ一つ生えない純白の城……。そこには、肉化病を一瞬で治す秘薬もあるとか」
肉化病が治る。
その言葉に、死にかけていた魔導師と盗賊がガバッと顔を上げた。
剛田も目を見開く。
「そ、そこに行けば……この痒みが、止まるのか?」
「ええ、間違いなく。ですが、場所が問題でしてね」
クロガネは地図の印を指先で叩いた。
「ここは『旧・東京の西』。Sランク指定の死の森です」
「……ッ!」
剛田の息が止まった。
見間違えるはずがない。
そこは数日前、剛田たちがカイトを置き去りにした場所の近く。
カイトがもらった小屋があると言っていた場所だ。
「……おい。まさか」
剛田の中で、パズルのピースが最悪の形で組み合わさった。
カイトを捨てた場所。
そこに突如現れた、清潔な物資を持つ何者か。
「あいつ……生きてやがったのか?」
剛田の声が震えた。
恐怖ではない。激しい嫉妬と、怒りによる震えだ。
「そうか、わかったぞ……。読めた」
剛田は歪んだ笑みを浮かべた。
「カイトの野郎、隠し財産を持ってやがったな?」
Fランクの無能が、死の森で生き延びられるはずがない。
もし生きているとしたら、それは強力なアイテムを持っていたからに違いない。
そして、そんなアイテムを、あの貧乏なカイトが持てるはずがない。
つまり――。
「あいつ、俺たちのパーティ資金を横領してやがったんだ!」
剛田は叫んだ。
そう考えれば辻褄が合う。
あいつは最初から裏切るつもりで、俺たちの稼ぎをくすねて、あの山に秘密基地を作っていたんだ。
俺たちがこんなに苦しんでいるのに、あいつだけぬくぬくと、綺麗な水を飲んでやがるんだ!
「許せねぇ……!」
剛田の瞳が、ドス黒い欲望と憎悪で濁る。
「俺の金だ。あの城も、薬も、全部俺たちが稼いだ金で作ったものだ!」
「ほう。その『持ち主』とお知り合いでしたか」
クロガネは事情を察し、悪魔のように囁いた。
「ならば話は早い。……取り返しに行きましょう。正当な持ち主の元へ」
剛田は錆びついた剣を拾い上げた。
腐食してボロボロの剣だが、今の彼にはエクスカリバーに見えている。
これは正義の鉄槌だ。泥棒に罰を与える聖戦だ。
「野郎ども、立て!」
剛田が号令をかけると、死にかけていた仲間たちが、ゾンビのようにゆらりと立ち上がった。
彼らの目にも、異様な光が宿っている。
薬が欲しい。水が欲しい。
カイトが独り占めしている「楽園」を奪い取りたい。
「行くぞ。教育してやる」
剛田は顔の膿を拭いもせず、獰猛に笑った。
「パーティの資源を独り占めすることが、どれほどの重罪か……たっぷりと教えてやるんだ」
逆恨みと強欲。
純度100%の悪意を燃料にして、腐敗した冒険者たちが動き出した。
目指すは北の山。
彼らが夢見る「治療」と「略奪」の地へ。
だが彼らは知らない。
そこにあるのは、彼らが想像するような生ぬるい隠れ家などではないことを。
そして、そこを支配する男が、彼ら以上に冷徹で、潔癖な「管理者」であることを。




