第20話:ビニール袋オークション
冒険者ギルド「鉄の蹄」の喧騒は、最高潮に達していた。
カウンターに叩きつけられた一枚の「薄膜」。
それが放った「カシャッ」という乾いた音が、荒くれ者たちの視線を釘付けにしている。
「み、水はやらんと言った!」
レナは気圧されそうになるのを堪え、声を張り上げた。
懐には、主様から預かったペットボトルをしっかりと抱き込んでいる。あれは絶対に渡せない。
ならば、代わりの生贄が必要だ。
「だが、この『皮膜』ならば譲ってやる! これと引き換えに、私をここから出せ!」
彼女が差し出したのは、四つ折りにされた半透明のシート。
カイトが『失敗作だ』と言って渡してきた、荷物入れ用の袋だ。
「なんだそれは……? 布か?」
「いや、紙に見えるが……向こうが透けているぞ?」
ギルドマスターが、震える手でそれを手に取った。
彼はこの都市一番の鑑定士でもある。
指先が触れる。
カサカサ、カシャカシャ。
その音を聞いた瞬間、ギルドマスターの顔色が変わった。
この湿りきった世界において、「完全に乾燥した音」が鳴る素材など存在しない。
乾いた紙でさえ、空気中の水分を吸ってすぐに「シナッ」という湿った音に変わるのだ。
だが、この素材は違う。湿気を一切寄せ付けていない。
「……広げても、よいか?」
「構わん。ただし、破くなよ。……いや、主様は『破れたら捨てろ』と仰っていたが」
「す、捨てろだと!? こんな未知の物質を!?」
ギルドマスターは白手袋をはめ、慎重にシートを広げた。
ハラリ、と広がる薄膜。
それは、大人の上半身がすっぽりと入るほどの大きさの「袋」だった。
乳白色の半透明。
照明の光を柔らかく通し、向こう側にいる冒険者の顔がぼんやりと見える。
「……信じられん」
ギルドマスターが呻いた。
「織り目がない。縫い目もない。継ぎ目すらない……!」
布であれば、繊維の織り目があるはずだ。
革であれば、毛穴や血管の跡があるはずだ。
だが、これには何もない。
分子レベルで結合した、完全なる「一枚の膜」。
「しかも、この薄さはどうだ……! 髪の毛よりも薄いぞ(0.015ミリ)! なのに……」
彼は袋の端を軽く引っ張ってみた。
ビニール特有の粘り強い弾力が、指の力を受け止める。
「千切れない! 蜘蛛の糸よりも強靭な粘りがある!」
「それに、重さを感じない……。空気でできているのか?」
周囲の商人たちがざわめき始めた。
ただの珍しい素材ではない。彼らの商魂が、この物質の「実用性」に気づき始めたのだ。
一人の大商人が、身を乗り出して叫んだ。
「鑑定士殿! その袋の気密性は!?」
「……完璧じゃ。空気すら通さん」
「防水性は!?」
「言うまでもない。水はおろか、消化液すら弾くだろう」
その鑑定結果が出た瞬間、ギルド内が爆発した。
「1000万ゴールド!!」
最初に声を上げたのは、都市一番の貿易商だった。
彼は血走った目で叫んだ。
「それを俺に売ってくれ! それがあれば、南方の希少な香草を、香りごと密閉して王都へ運べる!」
「革袋じゃ香りが飛ぶ! 壺じゃ重すぎて運べない! だがその『空気のような袋』なら、輸送コストがゼロになる! 利益はその百倍だ!」
「どけ商人風情が! 金貨1500枚だ!」
次に割って入ったのは、白衣を着た男――軍医だった。
彼は悲痛な表情で訴えた。
「それは医療に使うべきだ! 戦場で切断された兵士の手足を、その袋に入れれば……!」
「壊死させずに搬送できる! 腐敗菌を遮断し、乾燥を防げる! どれだけの命が救えると思っている!」
この世界において、傷口が空気に触れることは死を意味する。
切断された腕を綺麗なまま保存できる容器など、国家レベルの戦略物資だ。
「待て! 我ら魔導師ギルドが金貨2000枚出す!」
杖を持った老人が叫ぶ。
「魔導書だ! 古代の紙は湿気ですぐにカビる! だがその袋があれば、知識を永遠に保存できる! 歴史が変わるぞ!」
食料保存。
医療搬送。
知識の保護。
次々と上がる入札の声。
価格は天井知らずに跳ね上がっていく。
レナは、カウンターの後ろで呆然としていた。
(……なんなの、これ)
彼女の懐にある「ゴミ袋」が、目の前で国家予算並みの価格に釣り上がっていく。
大家さん(カイト)は言っていた。
『失敗作だ』と。
『薄すぎて破れやすいから、使い捨てでいい』と。
その「使い捨ての失敗作」一枚に、貴族たちが領地の権利書まで賭けようとしている。
(大家さんの基準がおかしいのか、この世界がおかしいのか……)
おそらく両方だ。
だが、今はその狂気を利用するしかない。
「金貨3000枚! ミスリルインゴット10本!」
「こっちは『飛竜の卵』をつけるぞ!」
収集がつかなくなってきた。
このままでは暴動が起きる。
レナは意を決して、ダン! とカウンターを叩いた。
「静まれ!」
Sランクの威圧。
ギルドが一瞬で静まり返る。
「私は急いでいる。野菜の種と、調味料を買わねばならんのだ」
彼女は一番前にいた、王家御用達の商会主を指差した。
「そこの商人。お前が一番、質の良さそうな『魔石』を持っているな?」
「は、はい! 最高純度の魔石を、木箱いっぱいに持参しております!」
「それと、手持ちのプラチナ硬貨全て。それで手を打とう」
商人は狂喜乱舞した。
木箱いっぱいの魔石とプラチナ貨。
家が一軒どころか、小さな村なら買収できる金額だ。
だが、この「神の皮膜(ゴミ袋)」が生み出す利益を考えれば、安い投資だった。
「商談成立です! ありがとうございます!」
商人は従者に命じて、重そうな木箱と革袋をカウンターに積み上げた。
キラキラと輝く高純度魔石。
チャリチャリと鳴るプラチナの音。
レナはそれを受け取り、代わりに「ゴミ袋」を差し出した。
「ほらよ」
商人は震える手で、白手袋をはめ直した。
そして、まるで生まれたての赤子を抱くように、恭しくその薄膜を受け取った。
カシャ……。
乾いた音が響く。
周囲の人間から、感嘆と羨望のため息が漏れた。
「おお……なんと美しい音色……」
「光にかざすと、虹色に輝いて見える……」
「これぞ、錬金術の頂点……『空間保存のアーティファクト』……!」
商人は即座に、持参していた最高級のビロードの布でゴミ袋を包み、鍵付きの宝箱へと厳重に収納した。
「では、私はこれで」
レナは逃げるように、魔石の入った木箱を背負った。
重い。
物理的にも重いが、精神的な重圧が半端ではない。
(どうしよう……)
彼女は冷や汗をかきながら、ギルドの出口へと向かう。
(お使いを頼まれたのに、こんな……こんな大量の産業廃棄物(魔石)を持ち帰ってしまった……!)
彼女にとっての懸念は、「詐欺を働いた罪悪感」よりも「カイトに叱られる恐怖」だった。
野菜の種と塩を買うだけのお使いが、どうしてこうなったのか。
レナは群衆の視線から逃げるように、都市の外へと駆け出した。
その背中には、莫大な富と、それ以上の不安が乗っかっていた。
◇
一方、ギルドに残された人々は、去っていった銀髪の少女の噂話で持ちきりだった。
「あいつ、何者だ?」
「それに、あの『水』と『袋』……。どこかの古代遺跡から発掘したのか?」
「いや、違うぞ」
宝箱を抱えた商人が、鋭い目で言った。
「あれは新品だった。経年劣化が一切ない。つまり……」
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす。
「どこかに、あれを生産できる『プラント(工場)』が稼働しているということだ」
その言葉に、ギルドの空気が変わった。
羨望が、ドス黒い欲望へと変質していく。
生産拠点。
もしそんな場所が存在するなら、そこには無限の富がある。
不老不死の水も、腐らない袋も、作り放題だ。
「少女は、北へ向かったぞ」
「北? あそこは死の山だぞ」
「だが、何かあるはずだ。……黄金郷が」
人々の目に、怪しい光が宿り始める。
レナが守ろうとした行動が、皮肉にも「聖域」の存在を世界に知らしめる狼煙となってしまったのだった。




