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第2話:死に場所を求めて

 ヒュー、ヒュー、と風が鳴る。

 いや、あれは風切り音ではない。樹木の形をした巨大な「気管支」が、空気を吸い込む時の喘鳴ぜんめいだ。


 旧・東京の西部。

 かつては憩いの場だった森は、いまや肋骨のような白い幹と、赤黒い肺胞の葉が茂る地獄に変貌していた。


「……っ、く」


 俺は吐き気をこらえながら、地面の窪みに溜まった泥をすくった。

 腐敗した植物と、何かの排泄物が混ざったドブ泥だ。強烈なアンモニア臭が鼻を突く。

 潔癖症の俺にとって、それは毒薬に触れるよりも忌避すべき行為だった。


 だが、俺は躊躇わず、その泥をレインコートの上から塗りたくった。


(臭いを消さなきゃ、殺される)


 この森を徘徊するのは、都市の免疫機構である「白血球型ハウンド」。

 奴らは視力こそ弱いが、嗅覚は鋭い。俺のような「異物(人間)」の体臭を嗅ぎつければ、溶解液を垂らす牙で噛み砕きに来るだろう。


 俺は震える手で、顔に装着したガスマスクの表面にも泥を塗った。

 視界が茶色く濁る。

 惨めだった。

 清潔なシーツで眠りたいと願いながら、生きるために自ら汚物にまみれる矛盾。

 その屈辱こそが、今の俺を動かす唯一の燃料だった。


「……行くぞ」


 俺は低く唸り、重い足を引きずった。

 目指すのは、この山の頂上付近にあるはずの「廃別荘」だ。

 祖父が遺した古い木造建築。

 あそこなら、岩盤が硬くて都市の侵食(肉化)が遅れているかもしれない。

 せめて最期は、コンクリートの基礎の上か、乾いた木の床の上で死にたい。


 道中、何度も死にかけた。

 地面から飛び出す血管のような根に足を捕られそうになり、頭上から滴る消化液の雨を避けた。

 一歩進むごとに体力が削られ、精神が磨り減っていく。


 それでも、俺は歩き続けた。

 「乾いた場所」への渇望だけが、俺の足を前へ進ませた。


 ◇


 数時間後。

 限界を超えた俺は、ようやく山頂の開けた場所にたどり着いた。


「あ、あぁ……」


 俺の口から、安堵とも絶望ともつかない吐息が漏れた。

 あった。

 記憶の中にある場所。祖父の別荘があった敷地だ。


 だが――次の瞬間、俺の瞳から光が消えた。


「……嘘だろ」


 そこに建っていたのは、俺が知る「三角屋根の小綺麗なロッジ」ではなかった。


 家全体が、赤黒い腫瘍のような肉塊に飲み込まれていた。

 木造の壁はぶよぶよとした筋肉組織に置換され、窓ガラスは白濁した「角膜」のように濁っている。

 玄関のドアノブは肉に埋もれて見えず、煙突からは黄色いガスが断続的に噴き出していた。


 ドクン、ドクン。


 家が、脈打っている。

 それはもう建造物ではなかった。都市という巨大生物の一部となり、栄養を送り込むための「ポンプ臓器」へと成り果てていたのだ。


「あ……あぁ……」


 俺はその場に膝から崩れ落ちた。

 手をついた地面もまた、生温かい肉の感触だった。

 指の間から、ねっとりとした体液が滲み出してくる。


 冷静に考えるとこの時代に「三角屋根の小綺麗なロッジ」なんてあるわけがなかった。

 俺がいるのはそれらがアーティファクトと呼ばれ、もう知る人もいない失われた遺物。

 しかし、なぜか俺はそれを知っていた。

 だが、それらはこの世界にはそんなものは存在しない。


「ない……」


 涙が溢れ、ガスマスクの中を濡らす。


「どこにもない。世界中のどこにも、俺が横になれる場所なんてないんだ」


 希望は、あまりにもあっけなく潰えた。

 別荘の中に入れば、きっと壁の内側は胃袋のようになっているだろう。

 入った瞬間に消化されるか、窒息するか。


 俺は泥だらけの手で、地面を叩いた。

 ビチャッ、ビチャッ、と湿った音が響く。

 その音すらも不快だった。


 死ぬことは、覚悟していた。

 Fランクの俺が、単独で生き残れるとは思っていない。

 だが、俺が恐れていたのは「死」そのものではない。


「こんな……ぬるぬるした地面の上で、腐った臭いを嗅ぎながら終わるのか?」


 嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 走馬灯のように、かつての記憶が蘇る。


 パリッと糊の効いたワイシャツの感触。

 掃除したばかりのフローリングの、ひんやりとした冷たさ。

 冬の朝の、肺が痛くなるほど澄んだ空気。


 それらはもう、この世界のどこにも存在しない「ロストテクノロジー」なのか。


「ふざけるな……!」


 俺は叫んだ。喉が裂けるほど叫んだ。


「嫌だ……こんな、生温かい地獄で終わりたくない……! 返せよ……俺の『普通』を返せよ!」

「英雄になんかならなくていい! 世界なんて救えなくていい!」

「ただ乾いた場所で! 誰にも触られず! 静かに眠らせてくれよぉぉぉッ!」


 それは理性的な願いではなかった。

 生理的な拒絶。魂からの嘔吐。

 俺という存在のすべてが、この有機的な世界を拒絶した、その瞬間だった。


 キィィィン……。


 脳の奥で、耳鳴りのような高い電子音が響いた。


『個体名:カシワギ・カイトの精神波長を確認』


 無機質なシステム音声。

 それは、この世界に満ちる粘着質な生物音とは対極にある、冷徹で美しい機械の音だった。


世界ガイアへの拒絶反応が規定値を超過しました』

『特異点として認定。ユニークスキル【無機物保存イノガニック・キーパー】を解凍します』


「……え?」


 俺が顔を上げるのと同時だった。

 俺の足元を中心にして、波紋のような「青白い光」が広がった。


 魔法の光ではない。

 それはまるで、設計図を描くような幾何学的なグリッド線(格子)だった。


 光が触れた瞬間、周囲を満たしていた不快な音が消えた。

 ドクン、ドクンという鼓動も。

 ヒューヒューという呼吸音も。

 ピタリと止まり、世界が「静寂」に包まれる。


 そして、目の前の光景が変貌した。


 地面を覆っていた赤黒い肉が、瞬時に灰色に乾き、炭化して崩れ落ちる。

 ボロボロと剥がれ落ちた肉の下から現れたのは、土でも、岩でもない。


 ――灰色で、平らで、硬質な平面。


「コンクリート……?」


 俺は呆然と、自分の足元を見た。

 泥と粘液にまみれていた俺の手が、今は乾いたコンクリートの上に置かれている。


 恐る恐る、指先で撫でてみる。

 ザラリとした感触。

 冷たい。

 そして何より――乾いている。


「……乾いてる」


 俺の手のひらを、地面が押し返してくる。

 飲み込もうとしない。粘りつかない。

 ただの物質として、そこに在る。


 涙がコンクリートに落ち、黒い染みを作った。

 その染みが広がらないことさえ、愛おしかった。


 青いグリッドはさらに広がり、目の前の「肉塊と化した家」へと向かっていく。

 俺は震える体で立ち上がった。

 何かが、始まる予感がした。

 俺のための、俺だけの世界が。

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