第19話:ギルドが震撼する「透明な水」
北の山岳地帯から駆け下りること数時間。
レナは、最寄りの拠点都市「第3セクター」の巨大な鉄門をくぐった。
ムワッ。
都市に入った瞬間、襲いかかってきたのは熱気と悪臭の暴風だった。
第3セクターは、超巨大な「大陸亀」の甲羅の上に築かれた移動都市だ。
地面(甲羅)からは常に蒸気が噴き出し、鉄骨で組まれた建物は赤錆に覆われている。
「……臭い」
レナは顔をしかめ、外套の襟元を引き上げた。
鉄の錆びる臭い。
下水処理が追いつかずに垂れ流される汚水のアンモニア臭。
そして、すれ違う人々の汗と垢の臭い。
つい数日前までは、これが「日常」だった。
何の疑問も抱かず、この空気の中で呼吸し、食事をしていた。
だが、今の彼女は違う。
あの「白亜の城」での生活を知ってしまった。
塵ひとつないフローリング、無臭の空調、そして石鹸の香り。
一度上がってしまった生活水準(衛生観念)は、もう二度と元には戻らない。
(息をするだけで、肺が汚れていく気がする……)
レナは呼吸を浅くし、足早に歩いた。
彼女の懐には、大家さん(カイト)から託された「ゴミ袋(神の皮膜)」と「ペットボトル(聖水瓶)」がある。
この薄汚れた空気から、至高の宝を守り抜かなければならない。
「早く買い物を済ませて、あの聖域に帰らなきゃ」
彼女の頭の中は、今晩の献立と、まだ見ぬ調味料「マヨ・ネーズ」のことでいっぱいだった。
◇
冒険者ギルド「鉄の蹄」。
都市の中心にあるその建物は、昼間から薄暗く、喧騒と熱気に満ちていた。
「おい、換金だ! マッド・ラットの尻尾十本!」
「クソッ、買取価格が下がってやがる!」
「水をくれ! 一番マシなやつだ、泥抜きしたやつを頼む!」
男たちの怒号と、ジョッキを叩きつける音。
レナはカウンターの隅に滑り込み、深くフードを被った。
Sランク冒険者としての顔は隠している。今はただの「お使い」だ。騒ぎは起こしたくない。
「ふぅ……」
一息つくと、喉の渇きを覚えた。
外気温は四十度近い。
この都市の住人たちは、カウンターで「茶色い水」や「濁ったエール」を飲んでいる。
濾過しても取りきれない泥と、微量の毒素が含まれた水。
それを、生きるためにガブガブと飲み干している。
(……可哀想に)
レナは優越感と、少しの憐憫を抱きながら、懐に手を入れた。
取り出したのは、500mlのペットボトル。
ラベルレスのミネラルウォーターだ。
ギルド内の薄暗い照明が、ボトルに反射した。
表面についた結露が、キラキラと宝石のように輝く。
「……ん?」
隣にいた冒険者が、ふと視線を向けた。
そして、目を丸くした。
レナは気にせず、ボトルのキャップに手をかけた。
パキッ。
乾いたプラスチック音が響いた。
未開封リングが切れる音。
キュッ、キュッ。
スクリューキャップが回る、軽快な摩擦音。
その音は、錆びついた金属と湿った肉の音しかしないこの場所において、あまりにも「異質」だった。
精密機械が作動したような、クリアで硬質な音。
ざわめきが、波紋のように引いていく。
一人、また一人と、レナの手元に注目し始めた。
「……おい、なんだあれ」
「水が……浮いてるのか?」
彼らの目には、そう見えた。
ペットボトルの素材(PET樹脂)は、この世界のガラス技術を遥かに凌駕する透明度を持っている。
歪みがない。曇りがない。
まるで空気を固めたかのような容器の中に、液体が封じ込められている。
レナはボトルを傾け、口に含んだ。
ゴクリ。
喉が鳴る。
その瞬間、ギルド中が静まり返った。
中身の液体。
泥も、藻も、微生物の澱も一切ない。
完全なる「無色透明」。
向こう側の景色が透けて見えるほどの純度。
それは、この世界では「神々の飲み物」か、最高級の「錬金薬」でしかあり得ない輝きだった。
「……う、嘘だろ」
「あんな澄んだ水、王城の湧き水だって見たことねえぞ……」
「しかも、あの容器……氷でできてるのか? いや、汗をかいている(結露している)のに溶けていない!」
どよめきが広がる中、二階の執務室からドタドタと足音が響いた。
階段を駆け下りてきたのは、ギルドマスターの老人だ。
彼は【鑑定】のスキルを持つ、元・賢者でもある。
「どけ! 道を開けろ!」
老人はレナの前に躍り出ると、カッと目を見開いた。
彼の【鑑定眼】が、そのボトルの情報を読み取ろうとする。
『鑑定不能。未知の物質。純度100%の水』
「ひっ……!」
老人は膝から崩れ落ちそうになった。
「あ、ありえん……! あの器……ミスリルよりも薄く、ダイヤモンドよりも透明な『神の硝子』……!?」
その叫び声が、決定打となった。
ギルド内の全員が、色めき立った。
「神の硝子だって!?」
「あの一瓶で、幾らになるんだ!?」
欲望と畏怖の視線が、一斉にレナに突き刺さる。
だが、レナは平然としていた。
最後の一口を飲み込み、満足げに息を吐く。
「ふぅ。……やっぱり、このキレのある軟水じゃないと喉が潤わないわね」
彼女はキャップを再びボトル口に当てた。
キュッ、キュッ。
ねじ込む。
完全に閉まる。
逆さにしても、一滴も漏れない。
「なッ……!?」
ギルドマスターが呻いた。
「ねじ切り(スクリュー)機構だと……!? あんな薄い素材に、ミクロン単位の溝を刻んでいるのか!? 高名な鍛治士でも、あそこまでの精密加工は不可能だぞ!」
一度開封したものを、再び完全密閉する技術。
それは、空気中の瘴気から中身を守るための、究極の封印術式に見えた。
「そ、そこの御仁! 待たれよ!」
ギルドマスターが、地べたに這いつくばる勢いで懇願した。
「頼む! その『聖水』と『神の器』を、いくらでもいいから譲ってくれ! 言い値で構わん!」
「そうだ! 俺に売ってくれ! 金貨100枚出す!」
「ふざけるな、俺は金貨500枚だ!」
商人や高ランク冒険者たちが群がってくる。
中には剣の柄に手をかける不届き者もいたが、レナの放つ冷徹な殺気を感じて動きを止めた。
レナはボトルを胸に抱きしめ、一歩後ずさった。
(……やっぱり。大家さんの持ち物は、全部国宝級だったんだ)
彼女は再認識した。
自分が日常的に触れているものが、いかに異常な価値を持つものなのかを。
だが、だからといって渡すわけにはいかない。
これは、主様から預かった大切な「水分補給」なのだ。
「断る」
レナは短く、冷たく言い放った。
「これは売り物ではない。我が主より賜った、ただの飲み水だ」
静寂。
全員の思考が停止した。
「の、飲み水……?」
「伝説の聖水を……ただの喉の渇きを癒やすためだけに飲んでいると言うのか!?」
「その『主』とは何者だ!? 古代龍か!? それとも現人神か!?」
恐怖と、それ以上の好奇心が膨れ上がる。
こんなオーパーツを「水筒」扱いで配る存在がいるとしたら、それは世界の支配者クラスの怪物に違いない。
ギルドマスターは脂汗を流しながら、食い下がった。
「せ、せめて……その器だけでも! 中身が空になったら捨てるのだろう!? ならばゴミとして譲ってくれ!」
「ゴミ……?」
レナは眉をひそめた。
確かに、カイトは「飲み終わったらリサイクルゴミ」だと言っていた。
だが、彼女にとって、主様が口をつけた(かもしれない)ボトルを、他人の手に渡すなど言語道断だ。
「戯言を。これは私が家宝として持ち帰る。指一本触れさせん」
彼女は殺気で周囲を威圧し、道を開けさせた。
フードの奥から覗く銀色の瞳が、鋭く光る。
「邪魔をするなら、斬る」
その一言で、誰もが動けなくなった。
彼女がSランクの強者であると、本能で理解したからだ。
レナは足早にギルドを出ようとした。
だが、騒ぎを聞きつけた大商人が、行く手を阻むように声を上げた。
「ま、待ってください! 水が無理なら、せめて何か……何か他に、取引できるものはありませんか!?」
「我が商会は、あらゆる希少素材を高価買取いたします! どうか!」
必死の形相。
レナは立ち止まった。
そういえば、ここに来た目的は「野菜の種」と「調味料」を買うことだった。
手持ちの資金は、カイトから預かった魔石が少しあるだけ。
(……もし、ここで資金を作れれば、もっと良い種が買えるかもしれない)
彼女は懐に手を入れた。
そこには、もう一つの「大家さんのゴミ」が入っている。
カイトが『失敗作だから破れたら捨てていい』と言って渡してくれた、あの薄い膜。
(水を売るわけにはいかない。でも……これなら?)
彼女は決意を固め、懐から四角く折り畳まれたシートを取り出した。
「水はやらん! だが……この『神の皮膜』なら、譲ってやってもいい」
彼女がカウンターに叩きつけたのは、「45リットル・半透明ゴミ袋(高密度ポリエチレン製)」だった。
カシャッ。
乾いた音が、ギルドの空気を再び凍りつかせた。




