第15話:帰りたくない
甘美なコーラと、至高のカレーによる血糖値の乱高下が落ち着き、リビングには静寂が戻っていた。
レナはソファに深く身を預け、ぼんやりと天井のLEDライトを見つめていた。
いわゆる「賢者タイム」というやつだ。
満腹中枢が満たされ、風呂上がりのポカポカとした体温が心地よい眠気を誘っている。
(……夢じゃ、ないのよね)
彼女は自分の頬をつねってみた。痛い。
そして、頬を離した指先からは、ふわりと石鹸の香りがした。
冷静さを取り戻した彼女のSランク探索者としての脳が、改めて現状を分析し始める。
ここは異常だ。
ダンジョンの隠し部屋でも、古代遺跡でもない。
物理法則そのものが、外の世界とは断絶している。
シミひとつないクロス壁。
埃の積もらない床。
一定に保たれた室温。
そして、目の前のジャージ姿の男、カイト。
彼からは魔力を感じない。剣ダコもない。
ただのひ弱な一般人にしか見えない。
だが、この神の領域を支配しているのは、間違いなく彼だ。
(大富豪でさえ、こんな暮らしはしていない……。世界中の富を集めても、この「快適さ」だけは買えないわ)
レナは震えた。
自分は今、人類史の特異点に座っているのだと理解した。
その時、カイトが立ち上がった。
「そろそろ日が暮れるな。森が活性化する時間だ」
彼は窓際に歩み寄り、遮光カーテンをシャーッと開けた。
「……!」
レナも吸い寄せられるように窓へ近づく。
そこには、硝子一枚を隔てた「境界線」があった。
外は、既に赤黒い夕闇に沈んでいた。
肉の森が蠢いている。
地面からは「消化液の霧」が立ち上り、視界を黄色く濁らせている。
木々の枝――骨と血管でできた触手が、獲物を求めて空を掻いている。
そして、窓のすぐ目の前に、”それ”はいた。
ガラスにへばりつく、巨大な複眼。
人間の頭ほどもある大きさの、ハエの頭部を持つ巨大な蚊――「殺人蚊」だ。
針のような口吻が、ガラスを突き破ろうと何度も打ち付けられている。
カンッ、カンッ、カンッ!
本来なら、恐怖で悲鳴を上げる場面だ。
だが、レナの声は喉で凍りついた。
(……音が、小さい)
すぐ目の前、手を伸ばせば届く距離に怪物がいる。
その口吻は岩をも穿つ威力を持っているはずだ。
なのに、聞こえてくるのは乾いた軽い音だけ。
ガラスは割れない。
ヒビ一つ入らない。
それどころか、振動さえしていない。
「……すごい。この透明な板、あんな化け物が目の前にいるのに、震えてすらいない」
レナは無意識に、窓ガラスに手を触れた。
ひんやりとした、硬質な感触。
外側には、蚊が吐き出した溶解液や体液がベッタリと付着し、汚れている。
だが、内側はツルツルで清潔そのものだ。
わずか数ミリの厚さ。
その薄い壁が、天国と地獄を完全に分断している。
「二重サッシ(ペアガラス)だからな。防音も防犯も完璧だ」
カイトは事もなげに言い、カーテンを閉めた。
シャッ。
再び、怪物の姿が視界から消え、部屋には平和なLEDの光だけが残る。
「さて」
カイトは振り返り、どこか事務的な口調で告げた。
「飯も食ったし、汚れも落ちた。体力も回復しただろう」
レナは首を傾げた。
次の言葉を予想する。
『今日はもう遅いから泊まっていけ』あるいは『俺の配下になれ』か。
どちらにせよ、断る理由はない。
だが、カイトの口から出たのは、予想の斜め上を行く言葉だった。
「そろそろ、出て行ってくれないか」
「……はい?」
レナの思考が停止した。
今、なんと言った?
「いや、だから。ここは僕一人の城なんだよ」
カイトは面倒くさそうに頭をかいた。
「他人がいると、落ち着かないんだ。トイレに行くタイミングとか気を使うし、風呂上がりに全裸で歩けないし」
「え、あの……」
「君はSランクなんだろ? 装備はなくなったけど、魔力は回復したはずだ。ここから一番近い『第3セクター』までなら、走れば生還できるよな?」
それは、あまりにも正当な「家主の理屈」だった。
彼は悪気があって言っているわけではない。
ただ純粋に、「一人の時間が好きだから、他人は邪魔だ」と言っているだけなのだ。
だが。
その言葉を聞いた瞬間、レナの脳裏にフラッシュバックが起きた。
――グチュッという足音。
――肌にまとわりつく、生温かい湿気。
――鼻を突く、鉄錆と腐敗の臭い。
――硬いパンと、泥水の味。
つい数時間前まで「当たり前」だったはずの日常。
それが、今は耐え難い「地獄」として思い出された。
この部屋の、サラサラとした空気。
石鹸の香り。
柔らかいソファ。
冷たいコーラ。
一度知ってしまった。
細胞レベルで、「清潔であることの快楽」を記憶してしまった。
サーッと、レナの顔から血の気が引いていく。
恐怖。
モンスターに食われる恐怖ではない。
「不潔な世界」に戻ることへの、生理的な拒絶反応だ。
「……無理」
レナは呟いた。
カタカタと震え出す。
「え?」
「無理よ! 絶対に嫌!」
レナはソファにしがみついた。
Sランクの威厳も、騎士としてのプライドもかなぐり捨てて、駄々をこねる子供のように叫んだ。
「あんな不潔な世界に戻ったら、私、死んじゃう! 敵に殺されるんじゃなくて、ストレスで死ぬわ!」
「いや、Sランクなら耐性とかあるだろ」
「ないわよ! 今までは『これしかない』と思ってたから耐えられただけよ! こんな天国を知ったあとに泥水をすすれって言うの!? それは拷問よ!」
彼女は必死だった。
もう、あのベトベトした鎧を着るなんて考えられない。
虫の這うトイレで用を足すなんて、想像しただけで発狂しそうだ。
彼女の体は、たった数時間で「カイトの家仕様」に不可逆的に適応してしまっていたのだ。
ある意味で、これは最も残酷な呪いだった。
「お願い、捨てないで! 追い出さないで!」
レナはソファから転がり落ち、フローリングに手をついて懇願した。
その目は血走っている。
「ここでなら、私、なんだってするから!」
「なんだって、と言われてもなぁ……」
カイトは困惑顔だ。
彼にとって、レナの美貌も、剣の腕も、そこまで魅力的ではない。
むしろ「同居人」というリスクの方が大きい。
「タレット(自動迎撃装置)があるから防衛はいらないし、金ならアイテム売れば手に入るし」
「そ、そんな……」
利用価値がない。
Sランク冒険者が、ニートの生活力の前で「無能」の烙印を押されようとしている。
追い出される。
またあの、湿気と悪臭の世界へ。
「いやああああッ!」
レナは絶叫した。
プライド? そんなものは犬にでも食わせろ。
今はただ、このエアコンの風にしがみつきたい。
カイトは彼女の必死すぎる形相に、少しだけ引いていた。
そして、ふと視線を部屋の隅に向けた。
「あー……。でも、そういえば」
彼は独り言のように呟いた。
「広い家に一人だと、『掃除』は面倒なんだよな」
その一言。
レナの耳が、ピクリと動いた。
掃除。
それは、彼女に残された、唯一にして最強の生存戦略だった。




