第14話:このコーラは一瓶5000万ゴールド
風呂上がりのレナは、リビングの革張りソファの端っこに、ちょこんと座っていた。
借り物のダボダボなTシャツとジャージ。
濡れた髪からはシャンプーの甘い香りが漂い、肌は湯気でほんのりと桜色に染まっている。
その姿は、かつて「鮮血の戦乙女」と呼ばれたSランク冒険者の面影など微塵もなく、ただのあどけない少女のようだった。
だが、彼女の表情は真剣そのものだった。
背筋を伸ばし、膝の上で拳を握りしめ、まるで処刑判決を待つ囚人のように緊張している。
(……ここにあるもの、全てが異常だわ)
彼女は視線を巡らせる。
傷ひとつないフローリング。均一な光を放つ照明。そして、肌を撫でる涼しい風。
自分が座っているソファの革でさえ、最高級の魔獣の皮をなめしたとしても、これほど滑らかにはならないだろう。
カチャ、カチャ。
キッチンから音が聞こえてくる。
大家さん(カイト)が、何かを用意している音だ。
やがて、彼はお盆を持って戻ってきた。
「とりあえず、水分と塩分だ。あとカロリーも摂っておけ」
カイトは無造作に、ローテーブルの上に「それ」を置いた。
カラン……。
涼やかな音が響いた瞬間、レナの肩がビクリと跳ねた。
「ひっ……!?」
「ん? どうした」
「いえ、あの……その器……」
レナの視線は、テーブルの上に置かれた「コップ」に釘付けになっていた。
透明だ。
あまりにも、透明すぎる。
この世界におけるガラス製品は、どれも気泡が入り、緑や黄色に濁っているのが常識だ。大気中の汚染物質が混入するため、無色透明なガラスを作る技術は失われている。
だが、目の前にある器は、向こう側の景色が歪みなく透けて見える。
まるで空気を切り取って固めたかのようだ。
「『神の硝子』……?」
「ただのガラスコップだ。」
カイトは気にも留めず、さらに衝撃的な行動に出た。
「まずは飲め。脱水気味だろ」
彼が手に持っていたのは、黒い液体が入った1.5リットルのペットボトル。
キャップをひねる。
プシュッ!
空気が弾ける音が響く。
カイトはコップにその液体を注いだ。
シュワワワワ……。
黒い液体が泡立ち、表面でパチパチと飛沫を上げている。
そして、その中には――「氷」が浮いていた。
四角い、透明な氷が。
「こ、氷……!?」
レナは息を呑んだ。
外気温四十度のこの世界で、氷は宝石よりも高価だ。
宮廷魔導師がつきっきりで維持する「氷室」から運び出される氷は、一欠片で庶民の一年分の生活費に匹敵する。
それが、惜しげもなく飲み物の中に浮かんでいる。
「黒い……毒? でも、甘くていい匂いがする……」
「毒じゃない。コーラだ。ほら」
促され、レナは震える手でコップを手に取った。
冷たい。
指先が痛くなるほどの冷たさ。結露した水滴が指を濡らす。
彼女は意を決して、コップに口をつけた。
ゴクリ。
その瞬間、レナの目が見開かれた。
「んぐっ!? いたっ……痛い!?」
舌を刺すような刺激。
炭酸だ。
この世界の発泡酒とは比べ物にならない、強烈な炭酸ガスが口の中で暴れまわる。
「なんだこれは!? 口の中で小さな雷魔法が……!」
「いいから飲み込め」
言われるがままに飲み込む。
喉を焼くような刺激が通り過ぎた直後、脳髄に直接響くような感覚が襲ってきた。
――甘い。
暴力的なまでの、糖分。
ブドウ糖果糖液糖と砂糖の塊。
疲労困憊の脳が、そのエネルギーを感知し、快楽物質をドバドバと放出した。
「……あ……」
美味しい。
今まで飲んでいた泥水や、薄いエール酒とは次元が違う。
冷たくて、甘くて、刺激的。
一口飲んだだけで、体の細胞の一つ一つが「もっとよこせ」と叫び声を上げる。
「ぷはぁっ!」
気づけば、レナは一気に飲み干していた。
喉の奥から炭酸のゲップが込み上げてくるのを、必死に堪える。
空になったコップには、まだ氷が残っている。カラン、と美しい音を立てて。
「な、なんなのこれ……。魔法薬? エリクサー?」
「ただの炭酸ジュースだ。カフェインが入ってるから目が覚めるだろ」
カイトは事もなげに言い、次はキッチンから湯気の立つ皿を持ってきた。
「次は固形物だ。あまり重いものは胃が受け付けないだろうから、これくらいでいいか」
置かれたのは、白い楕円形の深皿。
片側には、艶やかに光る白い米。
もう片側には、茶色いとろみのあるスープ。
レトルトビーフカレー(中辛)だ。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
立ち上る湯気と共に、強烈な香りが爆発的に広がったのだ。
「っ……!?」
レナの鼻腔が大きく膨らんだ。
クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン……。
数十種類のスパイスが複雑に絡み合った、刺激的で芳醇な香り。
(この香りは……薬草!? それも、Sランク植物モンスターからしか採取できない希少種ばかり!)
彼女の知識が正しければ、これだけの種類の香辛料を一度に使う料理など、皇帝の即位式くらいでしかお目にかかれない。
スパイスは「食べる宝石」であり、万能薬の素材なのだ。
「これを……食べるのですか? 私が?」
「ああ。冷めないうちに食え」
カイトは銀のスプーンを差し出した。
レナは震える手でそれを受け取る。
まずは、白い米を見る。
「銀シャリ」とはよく言ったものだ。一粒一粒が立ち、宝石のように輝いている。
泥も、籾殻も混じっていない。純白の穀物。
この世界では、汚染されていない米は砂金と同じ価値で取引される。
そして、カレー。
とろりと煮込まれたルーの中に、サイコロ状の牛肉がゴロゴロと入っている。
レナはスプーンですくい、口に運んだ。
パクッ。
……時が、止まった。
濃厚な油脂の旨味。
じっくりと炒めた玉ねぎの甘み。
そして後から追いかけてくる、ピリリとしたスパイスの辛味。
牛肉は舌の上でほろりと崩れ、米の甘みと混ざり合う。
「……んぐっ……! はふっ……!」
言葉が出ない。
ただ、涙が溢れてくる。
これは「生きるための補給」ではない。
魂を震わせる「食事」だ。
泥臭くない。酸っぱくない。
ただひたすらに美味い。
レナは泣きながらスプーンを動かした。
止まらない。止められない。
一口食べるごとに、体の中に温かい力が満ちていく。
枯渇していた魔力が、急速に回復していくのを感じる。
ものの数分で、皿は空になった。
最後に残ったルーの一滴まで、彼女はスプーンで丁寧にすくい取った。
皿を舐め回したい衝動を、理性がギリギリで押し留める。
「ごちそうさまでした……」
レナは深く頭を下げた。
満腹感と、幸福感。
だが、理性が戻るにつれて、別の感情が首をもたげてきた。
――恐怖だ。
彼女はSランク冒険者だ。物の価値を知っている。
今、自分が体に入れたものの価値を、脳内で計算してしまった。
純度100%の水と氷。
希少な「神の硝子」の器。
回復効果のある黒い聖水。
宝石のような白米。
そして、錬金術の粋を集めたスパイスの煮込み(カレー)。
(……金貨、何万枚分?)
計算機がオーバーフローを起こした。
彼女の試算では、とんでもない値段――およそ5000万ゴールドに達していた。
サーッと血の気が引いていく。
風呂上がりで赤かった頬が、一瞬で蒼白になる。
「あ、あの……大家さん……」
「ん? おかわりか? まだあるぞ」
「め、滅相もございませんッ!」
レナは激しく首を振った。これ以上借金を増やしてどうする。
彼女は震える声で尋ねた。
「こ、これ……おいくらですか? 今の食事代です」
「は?」
カイトはキョトンとしている。
「私……命を助けていただいた上に、こんな国宝級の秘宝を胃袋に収めてしまいました。……一生、奴隷として働けば返せますか? それとも、臓器を売ったほうが……」
「……ああ、そういうことか」
カイトは苦笑し、空になったコーラのペットボトルを軽く潰した。
ベコッ、という音が軽い。
「気にすんな。スーパーの特売で一本150円だったかな。カレーもパックご飯も、そんなもんだ」
「ひゃ、ひゃくごじゅうえん……?」
そんな馬鹿な。水一杯すら買えない値段だ。
レナは混乱した。
(この御方は……嘘をついている。私に気を使わせないために、あえて無価値だと言っているんだわ)
なんて器の大きい人なのだろう。
圧倒的な力と財力を持ちながら、それを誇示することなく、薄汚れた遭難者に最高級の施しを与える。
そして、見返りを求めない。
(神だ……。この人は、人の皮を被った慈悲の神だわ……)
レナの中で、カイトへの認識が決定的に書き換わった。
「変な服を着た潔癖症の男」から、「無欲で慈悲深い超越者」へ。
彼女はソファから降り、フローリングの上に正座した。
そして、深く平伏した。
最上級の礼。
「柏木カイト様。この御恩は、私の剣と命でお返しします。貴方様の敵となる者は、神だろうと悪魔だろうと、私が斬り捨てます」
重い。
決意が重すぎる。
カイトは少し引いた様子で、頭をかいた。
「いや、だからさ……」
彼は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに言った。
「命とかいらないから。食べた分だけ働いてくれればいいよ。……具体的には、廊下の雑巾がけと、トイレ掃除な」
レナは顔を上げた。
その瞳は、信仰心でキラキラと輝いていた。
「はいっ! お任せください! この命(と掃除用具)にかけて、塵一つ残さず殲滅します!」
こうして、5000万ゴールド(誤解)の借金と引き換えに、最強の「掃除婦」が誕生したのだった。




