第13話:文明による浄化(シャワーシーン)
トイレという名の聖域で「内なる毒」を排出したレナは、次なる試練の場――脱衣所の前に立っていた。
目の前には、曇りガラスの入った白い折れ戸がある。
隙間から漏れ出る白い湯気と、むせ返るような清潔な香り。
「……ここに入っても、いいの?」
レナは自分の手を見た。
泥と、乾いた血と、鎧から滲み出た粘液でコーティングされた指先。
鏡に映る自分は、まるで泥沼から這い出してきた亡者のようだ。
対して、この部屋はどうだ。
壁も床も、眩しいほどの白。
カビひとつ、水垢ひとつない。
この空間において、自分という存在そのものが「異物」であり「罪」であるように感じられた。
ドア越しに、大家さん(カイト)の声が響く。
「使い方は教えたな? 右のレバーで湯が出る。左のボトルが洗剤だ」
その声は、覗き見を期待する男のそれではない。
厳格な検疫官の命令口調だ。
「いいか、『垢が完全になくなるまで』出てくるなよ。排水溝の水が透明になるまでだ」
「は、はいっ!」
レナは震える手で折れ戸を開け、浴室へと足を踏み入れた。
◇
浴室の中は、真っ白な霧(湯気)に包まれていた。
足裏に触れる床(FRP)の感触は、硬すぎず、柔らかすぎず、ひんやりとして心地よい。
レナは椅子に座り、シャワーヘッドを手に取った。
銀色に輝く、蛇の頭のような器具。
教わった通りにレバーをひねる。
ザアアアアアッ!
勢いよく噴き出したのは、無色透明な熱湯だった。
設定温度四十二度。
生ぬるい雨や、腐敗熱を持った泥水とは違う。計算され、管理された「熱」だ。
「あつっ……! で、でも……」
熱い。けれど、肌が歓喜の声を上げている。
レナは頭から湯を浴びた。
その瞬間、足元に信じられない光景が広がった。
黒い。
足元を流れる水が、まるで墨汁のように黒く濁ったのだ。
「え……?」
レナは息を呑んだ。
それは、彼女の体表を覆っていた「汚れ」だった。
これまで彼女が「自分の皮膚」だと思っていたものは、長年蓄積された垢とヘドロの層だったのだ。
熱湯がそれを溶かし、剥がしていく。
ボロボロと、黒い塊が排水溝へ吸い込まれていく。
それだけで体が軽くなるのを感じた。
「洗わなきゃ……清めなきゃ……」
彼女は備え付けのボトルに手を伸ばした。
ポンプを押すと、真珠のような光沢を持つ白い液体が出てくる。
鼻を近づける。
――甘く、爽やかな、柑橘系の香り。
それは果実そのものの匂いではない。
錬金術師が理想とする果実の香りを、魔法的に抽出して合成したような、「完璧な匂い」。
ナイロンタオルで泡立てる。
モコモコと、キメの細かい泡が膨れ上がる。
その白さは、雪山の頂よりも純白だった。
レナは泡を体に塗りたくり、擦った。
親の仇のように擦った。
界面活性剤の化学作用が、こびりついた都市の瘴気を分解していく。
泡が茶色く汚れ、消えていく。
何度も洗い、何度も流す。
髪の毛の一本一本、指の爪の間、耳の裏まで。
やがて、鏡の中の像が変わった。
「……これが、私?」
泥の下から現れたのは、透き通るような白磁の肌。
ヘドロで固まっていた髪は、サラサラと光を反射する銀糸へと戻っていた。
Sランク冒険者としての険しい表情は消え、湯気の中で上気した頬を持つ、年相応の少女がそこにいた。
彼女は自分の腕を触った。
キュッ、と音がする。
ぬめりがない。ベタつきがない。
生まれたての赤子のような清潔さ。
「軽い……。呪いが解けたみたい……」
レナは排水溝を見つめた。
そこにはもう、透明なお湯しか流れていない。
彼女は全ての穢れを、この白い小部屋に捨て去ったのだ。
◇
風呂上がり。
脱衣所の棚には、カイトが用意した着替えが置かれていた。
ふわふわのバスタオルで体を拭いた後、レナはその服を手に取った。
使い古された、グレーの半袖Tシャツ。
そして、紺色のジャージ(ズボン)。
どちらも男性用サイズだ。
レナは迷わず袖を通した。
ふわり。
その感触に、彼女は思わず溜息を漏らした。
軽い。
鎧の締め付けも、革のゴワつきもない。
上質なコットンが、火照った肌を優しく包み込んでくれる。
サイズが大きいため、Tシャツの裾は太ももまで届き、袖からは指先がちょこんと出るだけだ。
(防御力はゼロ……。いいえ、マイナスね)
外の世界でこんな格好をしていたら、蚊に刺されただけで死ぬし、転んだだけで怪我をする。
あまりにも無防備。
だが、その無防備さこそが、ここでは許されている。
レナはTシャツの襟元に顔を埋め、匂いを嗅いだ。
「……お日様の匂い」
柔軟剤の香り。
それは、カイトという人物の「匂い」でもあった。
血と鉄の臭いしかしない男たちとは違う、清潔で、どこか懐かしい香り。
レナは無意識に、自分の胸元をギュッと抱きしめた。
「……行かなきゃ」
髪をタオルドライし、深呼吸をする。
彼女は脱衣所のドアを開け、リビングへと続く廊下へ踏み出した。
◇
リビングのドアを開けた瞬間、レナは足がすくんだ。
そこには、神殿があった。
天井にはLEDのダウンライトが星々のように輝き、部屋の隅々までを均一に照らしている。
床には埃一つ落ちていない。
窓は磨き抜かれ、外の闇を完全に遮断している。
空調が効いた空気は、高原の風のように涼やかだ。
(ここは……天界の王宮……?)
レナは自分の足元を見た。
裸足だ。
さっきまで泥水を這いずり回っていた自分の足が、この神聖なフローリングを踏んでいいのだろうか。
存在すること自体が、不敬に思える。
彼女は膝が震え、その場に土下座したくなった。
「あ、あの……」
ソファに座るカイトの背中に向かって、消え入りそうな声をかける。
「汚して……ごめんなさ……」
謝罪の言葉しか出てこない。
命を助けてもらった上に、こんな神聖な場所に入れてもらった申し訳なさで、胸が押しつぶされそうだ。
カイトがゆっくりと振り返った。
彼の視線が、レナを捉える。
風呂上がりで頬を染め、ダボダボのTシャツを着た銀髪の美少女。
普通の男なら、見惚れるか、顔を赤らめる場面だろう。
だが、カイトの目は違った。
その視線は、レナの顔ではなく、髪の毛先や、足の裏、そして指先へと向けられている。
鋭い検分。
清掃業者が、ワックスがけの仕上がりを確認するような目だ。
数秒の沈黙。
カイトは短く鼻を鳴らし、頷いた。
「ん。合格」
彼はレナの美貌には一切触れず、あくまで事務的に告げた。
「髪も乾かしたな? 水滴を床に垂らさないなら、そこのソファに座っていいぞ」
「え……?」
「座れって言ってるんだ。立ちっぱなしだと、皮膚から落ちる老廃物が散らばる」
ロマンのかけらもない言葉。
だが、レナにはそれが「赦し」の言葉に聞こえた。
衛生基準をクリアした。
つまり、「この空間に存在してもよい」と認められたのだ。
「は、はいっ……! 失礼いたします!」
レナは恐縮しながら、指定されたソファの端っこに、ちょこんと腰掛けた。
革張りのソファが、ふわりと彼女の体重を受け止める。
(やわらかい……!)
お尻が痛くない。
彼女は感動で再び泣きそうになりながら、カイトの方を見た。
彼はもう興味を失ったようにしている。
その横顔を見ながら、レナは心に誓った。
この清潔な楽園を、そしてこの偏屈だが慈悲深い(と彼女は思っている)主を、命に代えても守り抜こうと。
「……さて、飯にするか」
カイトが立ち上がった。
その言葉に、レナのお腹が「きゅぅ」と可愛らしい音を立てた。
洗浄の次は、補給の時間だ。




