第12話:Sランク美女、トイレで泣く
脱衣所まであと数メートル。
俺は慎重かつ迅速に、レナを包んだブルーシートを引きずっていた。
あと少しだ。あと少しで「除染室」に放り込み、この汚染物質を洗い流せる。
その時だった。
シートの中で、レナが身をよじった。
「……っ、うぅ……」
「おい、動くな。灰がこぼれるだろ」
「お、大家さん……」
彼女は消え入りそうな声で、しかし切迫した響きを伴って訴えた。
「……ごめんなさい。……トイレ、行きたい」
俺の足がピタリと止まった。
背筋に冷たいものが走る。
デトックス・ショック。
俺の家の清浄な空気を吸い、さらに高濃度アルコールで消毒されたことで、彼女の体は急激に治癒反応を起こしている。
内臓機能が活性化し、溜まっていた老廃物を排出しようとするのは、生物として当然の生理現象だ。
だが、俺にとっては「非常事態」だ。
「……今、ここにか?」
俺は恐る恐る尋ねた。
レナは顔を真っ赤にし、涙目で小刻みに頷いた。
「げ、限界、です……」
俺の顔色から血の気が引いた。
もし、ここで漏らされたら?
この神聖なる廊下のフローリングに、他人の排泄物が付着する?
しかも、彼女は今、未知の細菌やヘドロまみれの状態だ。それが混ざり合った液体が床に広がれば……。
「あぁぁぁぁッ!」
俺は頭を抱えた。
それは「死」だ。俺の精神の死だ。
そんな汚染が起きたら、俺はこの廊下を切り落としてリフォームするしかなくなる。
「我慢しろ! いや、漏らすな! 括約筋に力を込めろ!」
「む、無理ぃ……!」
彼女の顔が青ざめていく。秒読み段階だ。
俺は覚悟を決めた。
風呂場の手前に、もう一つドアがある。
「緊急搬送だ!」
俺は火事場の馬鹿力を発揮し、ブルーシートの端を掴んで猛ダッシュした。
廊下を滑るビニール音。
ドリフトするようにカーブを曲がり、白いドアの前で急停車する。
「着いたぞ! 『トイレ』だ!」
俺はドアノブを回し、勢いよく開け放った。
◇
レナは、恐怖で震えていた。
漏らす恥ずかしさ。それもある。
だが、それ以上に彼女の心を支配していたのは、「トイレ=死地」という、この世界の常識だった。
生体都市において、排泄とは命がけの行為だ。
都市の排泄器官(公衆便所のような穴)は、無防備な臀部を狙う「寄生虫」や「吸血蛭」の巣窟だ。
用を足す時は、片手で剣を持ち、周囲を警戒し、這い上がってくる虫を払いながら、中腰で素早く済ませなければならない。
お尻を出した瞬間、冷たい肉の壁に触れ、いつ何かに噛み付かれるかわからない恐怖。
それは休息ではなく、最も無防備で屈辱的な「戦場」だった。
(怖い……怖い……!)
彼女のトラウマが蘇る。
だが、限界はとっくに超えていた。
大家さん(カイト)が、目の前の白いドアを開ける。
そこに鎮座していたのは――白く輝く「玉座」だった。
TOTO製・タンクレス全自動トイレ。
陶器の滑らかな曲線。
汚れ一つない、神々しいまでの白さ。
レナがその物体を認識した瞬間だった。
ウィィィン……。
静かなモーター音と共に、玉座の「蓋」が、ひとりでに持ち上がった。
人感センサーが反応したのだ。
「ひっ!?」
レナは悲鳴を上げた。
「い、生きてる!? 口を開けたわ!?」
彼女の目には、それが巨大な「白いミミック(擬態生物)」に見えた。
獲物が近づくのを待ち構え、パクリと捕食しようと口を開いたのだ。
やっぱりだ。やっぱりトイレには魔物がいるんだ!
彼女はブルーシートの上で後ずさろうとした。
だが、背後からカイトの怒声が飛んでくる。
「バカ野郎! それはただの機械だ! 早く座れ!」
「で、でも、食べられ……!」
「食わねえよ! お前が漏らしたら俺が貴様を食い殺すぞ! いいから座れッ!」
魔王のようなカイトの形相に気圧され、レナは半泣きで立ち上がった。
泥だらけの体で、真っ白な個室へと足を踏み入れる。
足元は、ひんやりとしたタイルの床。
虫はいない。ヘドロもない。
あるのは、口を開けて待つ白い陶器だけ。
レナは震える手で下着を下ろした。
恐る恐る、便座へと腰を下ろす。
ギュッと目を閉じた。
冷たく、ぬるりとした不快な感触や、鋭い牙が突き刺さる痛みを覚悟して。
――ペタリ。
肌が便座に触れた。
「……え?」
レナの目が丸くなった。
温かい。
そこにあったのは、恐怖でも冷たさでもなかった。
人肌のような、しかし生物の生々しさがない、一定温度に保たれた優しさ。
暖房便座。
その温もりが、緊張で強張っていた彼女の太ももの筋肉を、強制的に弛緩させた。
「……あったかい……?」
信じられない。
便座が、温かいなんて。
誰かが座っていた直後なのか? いや、この家にはカイトしかいないはずだ。
これは、この玉座自体が発している熱だ。
魔法?
お尻を冷やさないためだけに、高度な火属性魔法が付与されているというの?
カイトが外からドアを閉めた。
カチャリ。
完全な密室。
換気扇が静かに回る音だけが聞こえる。
静かだ。
外敵がいない。誰にも見られない。
襲ってくる虫も、下から突き上げてくる槍のような触手もない。
絶対的な安全圏。
その事実に気づいた瞬間、彼女の体から力が抜けた。
◇
ドアの外で、俺は腕を組んで待機していた。
とりあえず、最悪の事態(廊下での漏洩)は免れた。
あとは、彼女がトイレを汚さずに使ってくれることを祈るだけだ。
しばらくして、個室の中から音が聞こえてきた。
排泄音ではない。
「うっ……うぅ……」
嗚咽だ。
子供が泣きじゃくるような、しゃくり上げる声。
「……怖くない……」
ドア越しに、彼女の震える独り言が聞こえる。
「お尻が、噛まれない……ッ! 温かい……誰も、私を襲ってこない……!」
それは、生理現象のスッキリ感による涙ではなかった。
「尊厳」を取り戻したことへの、魂の叫びだった。
命がけで用を足す屈辱。
いつ死ぬかわからない恐怖。
それらから解放され、ただ「安心してトイレができる」という当たり前の奇跡に、Sランク冒険者の心は決壊したのだ。
「……はぁ」
俺は壁に寄りかかり、天井を見上げた。
わかるよ。
俺も最初、このトイレに座った時は泣いたからな。
ウォシュレットの水流が当たった瞬間なんて、感動で震えが止まらなかった。
人間にとって、排泄とは最も無防備で、動物的な行為だ。
だからこそ、そこが安全で清潔であることは、理屈を超えた安らぎになる。
ジャーーーーーッ!!
やがて、豪快な水流音が響いた。
トルネード洗浄。
少ない水で強力に汚物を洗い流す、日本の技術力の結晶。
その音すら、レナには穢れを祓う聖なる滝の音に聞こえたかもしれない。
カチャリ。
ドアが開いた。
出てきたレナは、まだ目を赤くしていた。
だが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
彼女は俺を見ると、その場に膝をつきそうになった。
「……大家さん。ありがとうございます……」
「礼はいい。ちゃんと流したか?」
「はい。……あの、渦を巻く水流。あれは浄化の魔法ですね。すべてが……消え去りました」
「ただの水洗トイレだ」
俺はトングで、再び彼女の服(汚れた部分)をつまんだ。
「感動してる暇はないぞ。まだ第一段階だ」
「え?」
「次は風呂だ。中身(老廃物)は出したかもしれないが、外側(体の汚れ)はまだヘドロまみれだ」
俺は彼女を立たせ、脱衣所へと促した。
「いいか、今度は全身だ。髪の毛一本、爪の先まで洗い流せ。この家の基準に合うまで、そこから出てくるなよ」
レナは深く頷いた。
その目には、もはや恐怖も迷いもなかった。
この「温かい便座」を用意してくれた主になら、命を預けてもいい。
そんな、重すぎる忠誠心が宿っていることに、俺はまだ気づいていなかった。




