第11話:デトックス・ショック
青いグリッド線が走る境界を、ブルーシートに乗せた「荷物」が通過した。
その瞬間だった。
ギャギィィィィッ……!
断末魔が響き渡った。
それは人間の声ではない。レナの体を覆っていた「真紅の鎧」が上げた、死の絶叫だった。
『システム警告:不正な有機プログラム(寄生型武装)を検知』
俺の脳内に、冷徹なアナウンスが流れる。
『当該存在は、本領域の物理法則(西暦2025年基準)に適合しません。強制排除を実行します』
この結界内は、俺が定義した「令和7年の日本」だ。
そこには、魔力で駆動する筋肉や、宿主の生き血を啜って硬化する生体金属などというオカルトは存在し得ない。
物理的にありえないものは、嘘が暴かれるように消滅する。それがこの家のルールだ。
プシュゥゥゥ……。
鎧が沸騰したように泡立ち始めた。
構成していたタンパク質が急速に分解され、水分を失い、炭化していく。
まるでタイムラプス動画で見る植物の枯死のように、禍々しかった装甲が、ただの灰色の粉へと変わっていく。
「よし、シートの上で崩れてくれた」
俺は冷静にブルーシートの端を持ち上げ、灰が芝生にこぼれ落ちないようにガードした。
計算通りだ。家の中で剥がれ落ちていたら、掃除機をかける手間が増えるところだった。
◇
「あ、がぁっ……!」
一方、レナを襲ったのは、魂を引き剥がされるような衝撃だった。
皮膚に食い込んでいた無数の「牙」や「根」が、一斉に枯れ落ちていく。
激痛。
だが、それは傷つけられる痛みではない。腐った患部から膿を絞り出した時のような、鮮烈な「治癒の痛み」だ。
ドサッ。
数百キロはあったはずの重圧が消えた。
体が軽い。重力から解放されたように軽い。
「はっ、はぁっ……」
彼女は大きく息を吸い込んだ。
肺に入ってきたのは、無味無臭の空気。
毒素(瘴気)を含まない、純粋な酸素。
そのあまりの清浄さに、彼女の体は過剰反応を起こした。
「ゲホッ! ガハッ……!」
レナは激しく咳き込み、口からどす黒い粘液を吐き出した。
それは、長年のダンジョン探索で体内に蓄積されていた汚染物質だ。
綺麗な環境に適応するため、体が自浄作用を強制発動させたのだ。
目から黒い涙が、毛穴から油のような汗が噴き出す。
彼女は震えながら、自分の体から「毒」が抜けていく感覚に打ち震えていた。
◇
「……うわぁ」
俺はブルーシートの中を覗き込み、顔をしかめた。
バイオハザードだ。
鎧は灰とヘドロになり、レナはその残骸の中に横たわっている。
彼女が身につけているのは、ボロボロになった下着一枚だけ。
肌は白く、肢体はしなやかで、本来ならば扇情的な光景かもしれない。
世の男性諸君なら「ラッキースケベ」と鼻の下を伸ばす場面だろう。
だが、俺の感想はたった一言。
「汚ねぇ……」
エロさなど微塵も感じない。
ただただ、汚い。
彼女の肌には、剥がれ落ちた鎧の残骸、自身の血、そして吐き出したヘドロがマーブル模様を描いてへばりついている。
強烈な異臭。鉄錆と生ゴミを煮詰めたような臭いが立ち上る。
(これは人間じゃない。『特級汚染廃棄物』だ)
俺は戦慄した。
ここから玄関までは、コンクリートの土間だ。そこはいい。高圧洗浄機で洗える。
だが、その先は?
神聖なる「フローリングの廊下」だ。
もし彼女が今、意識を取り戻して立ち上がり、ふらふらと歩き出したら?
白い床に、点々と続く黒い足跡。
壁紙につく血の手形。
飛び散る灰。
「ヒッ……」
想像しただけで、俺のSAN値(正気度)が削れていく。
絶対に、ここから一歩も歩かせるわけにはいかない。
彼女の足の裏が床に触れた瞬間、この家は汚染される。
レナがうっすらと目を開けた。
焦点の合わない目で、俺を見上げる。
「……ここは……天国……?」
彼女が身じろぎし、立ち上がろうとする気配を見せた。
「動くなッ!!」
俺は鬼の形相で怒鳴った。
最大音量の警告だ。
「指一本動かすな! 灰が舞うだろうが!」
「え……?」
レナがビクリと固まる。
助けられたはずなのに、なぜか極悪人のような剣幕で怒られている。彼女の混乱は極地に達していただろう。
「あ、はい……ごめんなさ……」
「喋るな。口から何か垂れてるぞ」
俺はトングでブルーシートの端をつまみ、器用に折りたたみ始めた。
彼女を包み込むように、四隅を中央へ寄せる。
隙間なく、密閉するように。
見た目は完全に、事件現場から運び出される遺体袋だ。
「いいか、これから君を搬送する。目的地は『除染室』だ」
俺はシートの端をギュッと握りしめ、ズルズルと引きずり始めた。
重い。
だが、彼女を抱き上げるという選択肢はない。俺の防護服が汚れるからだ。
ズリ、ズリ、ズリ……。
俺は慎重に、しかし迅速に廊下を進んだ。
カーブでは遠心力で中身が飛び出さないよう、細心の注意を払う。
まるで、蓋のないバケツに入った汚水を運ぶ時の緊張感だ。
「君は今、人間として扱われていないと思え」
俺は背後の荷物に向かって、独り言のように告げた。
「今の君は、泥だらけのジャガイモと同じだ。皮を剥いて、泥を落として、ようやく『食材』としてキッチンに立てる」
「……」
シートの隙間から、レナの視線を感じる。
彼女はブルーシートの隙間から見える天井を見ていた。
シミひとつない、真っ白なクロス張り。
LEDのダウンライトが、等間隔に並んでいる。
美しすぎる。
外の豪邸ですら、天井には煤がつき、隅には蜘蛛の巣が張っているのが当たり前だ。
なのに、ここには「影」がない。
塵ひとつ許さない、圧倒的な潔癖の空間。
(……この人、魔王より怖いかも)
レナは直感した。
この男は、慈悲で自分を助けたのではない。
ただ「庭の掃除」のついでに拾われ、今は「家を汚さないための処理」をされているだけなのだと。
だが不思議と、恐怖はなかった。
この徹底的な管理こそが、今の彼女には心地よかった。
これほど厳格に「汚れ」を拒絶する場所ならば、きっと外の怪物たちも入って来られないだろうという、絶対的な安心感があったからだ。
「到着だ」
俺は脱衣所の前で足を止めた。
ここが最終防衛ライン。
このドアの向こうで、彼女を「無害化」しなければならない。
俺はブルーシートの結び目を解いた。
中から、怯えたような、しかし期待に満ちた目のレナが現れる。
「さあ、洗濯の時間だ」




