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第10話:彼女を入れる条件

 俺は玄関の土間で、装備の最終確認を行った。


「N95マスク、装着よし。ゴーグル、視界良好。ゴム手袋、二重装着よし」


 レインコートのフードを目深にかぶり、足元のゴム長靴の紐をきつく締める。

 完全防護態勢フルアーマー

 これから向かうのは戦場ではない。ただの家の前だ。

 だが、俺にとって「汚染源」への接触は、Sランクダンジョンのボス戦に挑むよりも遥かに神経を使うミッションだった。


「行くか」


 俺は右手で業務用アルコールスプレーのトリガーにかかった指を確認し、左脇に畳んだブルーシートを抱えた。

 重いドアを開ける。


 ムワッ。


 途端に、生温かい湿気と腐敗臭が鼻をつく。

 やはり外の世界は地獄だ。一秒でも早く、エアコンの効いたリビングに帰りたい。

 俺は呼吸を浅くし、青い芝生を踏みしめて、結界の境界線フェンスへと向かった。


 ◇


 ――熱い。

 体が、焼けるように熱い。


 Sランク探索者、レナ・ヴァレンシュタインの意識は、混濁の淵にあった。

 全身を覆う真紅の鎧――愛剣を加工して作った生体装甲バイオ・アーマーが、魔力切れを起こした彼女の肉体を「食料」として認識し始めていた。


 皮膚に食い込む鋭い棘。

 締め付けられる骨の軋み。

 肺が圧迫され、呼吸すらままならない。


(……ここまで、なのね)


 悔しさよりも先に、諦めが心を支配する。

 数多のモンスターを斬り伏せ、「鮮血の戦乙女」と恐れられた自分が、まさか自分の装備に食い殺されるなんて。

 皮肉な最期だ。


 視界が赤く霞む。

 世界が遠のいていく。

 泥と粘液にまみれ、誰にも看取られずに朽ち果てる。それが探索者の末路。


 その時だった。

 不意に、視界の端に「白」が映った。


 眩いばかりの、純白の光。

 それは、この薄汚れた赤黒い世界には存在しないはずの色。


「……あ……」


 レナは薄目を開けた。

 逆光の中、一人の人影が立っている。

 全身を白い衣で包み、顔は見えない。

 背後には、あり得ないほど真っ直ぐで美しい「白亜の城」がそびえ立っている。


(お迎え……?)


 幻覚だと思った。

 死に際に見るという、天界からの使者。

 だが、天使にしては妙な格好をしている。

 翼はない。代わりに、透明なビニールのような質感の服をまとい、手には奇妙な銀色の筒を持っている。


「……天使様にしては……ずいぶんと、ダサい格好ね……」


 レナは乾いた唇で、最期の皮肉を零した。


 ◇


「……生きてるか?」


 俺はフェンスの扉を開け、倒れている女を見下ろした。

 近くで見ると、惨状はさらにひどかった。

 鎧の隙間から赤い触手が溢れ出し、彼女の四肢を拘束している。

 顔色は土気色で、脂汗と泥でドロドロだ。

 美しい銀髪も、ヘドロで固まってワカメのようになっている。


(うわぁ……。想像以上に汚い)


 俺は顔をしかめた。

 生理的嫌悪感が背筋を駆け上がる。

 正直、今すぐ回れ右をして家に帰りたい。


 だが、女が動いた。

 泥だらけの手が、ふらりと持ち上がり、俺の方へ伸びてくる。


「……た、すけ……」


 その手は、俺のレインコートの裾を掴もうとしていた。


「ストップ!!」


 俺は叫びながら、大きくバックステップを踏んだ。


「触るな! 絶対に触るな!」


 俺の剣幕に、女――レナの手が空中で止まる。

 彼女は呆然とした目で俺を見ていた。


「え……?」

「その手だ。泥と、得体の知れない粘液がついている。触られたら服を捨てなきゃならなくなる」


 俺は冷徹に事実を告げた。

 このレインコートは貴重品(クラフト製)なのだ。洗濯すれば落ちるかもしれないが、精神的な汚れは落ちない。


 レナは混乱しているようだった。

 助けを求めた相手に、汚いから触るなと言われたのだ。瀕死の人間にかける言葉ではない。

 だが、俺には俺の譲れない一線がある。


 俺は腰のホルスターからアルコールスプレーを抜き、構えた。


「いいか、よく聞け。助けてやる」


 その言葉に、レナの目に微かな光が戻る。


「ただし、条件がある」


 俺は人差し指を立て、厳格な教師のように宣告した。


「第一に、僕の家の床を絶対に汚さないこと。」


 これは絶対だ。

 あの白いフローリングに、一滴でも泥を落とすことは許されない。


「第二に、僕の指示に従って消毒を受けること。」


 検疫だ。

 未知の病原菌や寄生虫を、聖域内に持ち込ませるわけにはいかない。


「この二つを守れるなら、家に入れて治療してやる。守れないなら、そこに放置して森の肥料にする。イエスかハイで答えろ」


 レナは瞬きをした。

 意味がわからなかったのだろう。

 命の取引の条件が「床の汚れ」?

 魂の契約でも、全財産の譲渡でもなく?


 だが、目の前の男の目は本気だった。

 ゴーグルの奥にある瞳は、慈悲や同情ではなく、もっと別の――そう、汚れた皿を見るような、冷たく鋭い光を宿していた。


 選択肢はない。

 彼女は、震える顎を動かし、力なく頷いた。


「……は、い……従い、ます……」

「よし。交渉成立だ」


 俺はスプレーのノズルを彼女に向けた。


「まずは初期消毒だ。目をつぶれ」


 シュッシュッ、シュッシュッ!


 静寂な森に、軽快なスプレー音が響き渡る。

 俺は容赦なく、高濃度アルコールを彼女の全身に吹きかけた。

 顔に、髪に、鎧の隙間に。


「う、ぐっ……!?」


 レナが小さく呻く。

 傷口にアルコールが沁みているのだろう。激痛のはずだ。

 だが、同時に彼女は感じていた。

 アルコールが揮発する時の、スーッとする「冷たさ」を。

 高熱にうなされていた体にとって、その人工的な冷気は、痛みを伴う救いだった。


「消毒完了。次は搬送だ」


 俺は脇に抱えていたブルーシートを広げた。

 工事現場でよく見る、あの青いビニールシートだ。

 それを彼女の横に敷く。


「そこに乗れ。……と言っても無理か」


 彼女は指一本動かせない状態だ。

 仕方ない。

 俺は持参した「火ばさみ(ロングトング)」を取り出した。

 これで彼女の服の端を掴み、テコの原理でゴロンと転がす。


 ドサッ。


 レナの体が、ブルーシートの上に転がった。

 マグロの水揚げか、あるいは粗大ゴミの回収のような光景だ。

 だが、これで彼女の体は地面から絶縁された。


「よし。これなら床に触れない」


 俺はシートの四隅を器用に折りたたみ、彼女を包み込む形にした。

 まるで遺体袋だが、衛生面ではこれが最強だ。


「運ぶぞ。舌を噛むなよ」


 俺はシートの端を掴み、ズルズルと引きずり始めた。

 お姫様抱っこ?

 するわけがない。そんなことをしたら、俺の服と腕が汚れる。

 物理的接触面積を最小限に抑える、これが最適解だ。


 ズルズル、ズルズル。


 ブルーシートが芝生と擦れる音がする。

 シートの中のレナは、揺れる視界の中で、空を見上げていた。


(……私、助かったの? それとも、ゴミとして捨てられるの?)


 扱いは完全にゴミのそれだった。

 だが、引きずられている方向は、あの美しい「白亜の城」だ。

 

 そして、俺たちは境界線を越える。

 フェンスの内側。

 俺のスキル【無機物保存】が支配する、物理法則の特異点へ。


 その瞬間だった。


 ギャアアアアアアアアアアッ!


 レナを包んでいた「赤い鎧」が、断末魔のような悲鳴を上げた。

 

「ひっ!?」


 レナが目を見開く。

 鎧から黒い煙が噴き出し、肉が焼けるような音がし始めたのだ。


「暴れるな。予定通りだ」


 俺は足を止めず、淡々と説明した。


「さあ、まずは洗浄デトックスだ。家の中が汚れないように、念入りにな」


 俺は引きずる速度を上げた。

 玄関まであと十メートル。

 ここからが、本当の戦いだ。

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