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第1話:肉塊都市の追放者

今日から毎日21時に1章(4話程度)ずつ投稿していこうと思うので、よろしくお願いします。

 グチュ、グチュ、グチュ。


 一歩踏み出すたびに、靴底から湿った不快な音が鳴る。

 かつてアスファルトだったその地面は、今や赤黒く変色し、不規則に脈打つ「粘膜」へと成り果てていた。


「……最悪だ」


 俺、柏木かしわぎカイトは、ガスマスクの中で呻くように呟いた。

 気温三十八度、湿度九十五パーセント。

 サウナのような熱気だが、それは太陽の恵みではない。この都市そのものが発する、生温かい「体温」だ。

 

 世界中の無機物が死滅し、すべてが有機的な肉と骨に変貌した世界――「生体都市バイオ・シティ」。

 かつて新宿と呼ばれたこの場所は、今では巨大な怪物の「胃袋」の中に等しい。


 俺は貴重な布切れを取り出し、レインコートの袖に飛び散った粘液を必死に拭き取った。

 拭いても拭いても、空気中に漂う微細な体液の粒子がまとわりつく。

 鉄錆のような血の臭いと、生ゴミを発酵させたような甘ったるい消化液の臭気。

 ガスマスクのフィルター越しでも、鼻の奥が腐り落ちそうな悪臭が突き刺さってくる。


「おい、何ちんたらやってんだカイト! 置いていくぞ!」


 前を行く男が、汚い大声で怒鳴った。

 探索者パーティ「紅蓮ぐれんの牙」のリーダー、剛田ゴウダだ。

 彼は肉の壁と化したガードレールに平気で腰掛け、モンスターの干し肉をクチャクチャと咀嚼している。


 俺はその光景を見ただけで、胃液が逆流しそうになるのを堪えた。

 よく平気でいられるな。そのガードレール、さっき黄色い膿を垂らしていたのに。


「すみません……。装備の汚れが気になって」

「ハッ! これだから潔癖症の『お姫様』は使えねえんだよ」


 剛田の取り巻きたちが、下卑た笑い声を上げる。

 彼らの装備はドロドロに汚れ、カビが生え、異臭を放っているが、誰も気にしていない。

 いや、気にしていてはこの世界では生きていけないのだ。

 俺のような人間こそが、ここでは「異常者」なのだろう。


「おいカイト。そこの壁、ナイフで削ってみろ。中にレアな『胆石(魔石)』が埋まってるかもしれねぇ」


 剛田が顎でしゃくった先にあるのは、高層ビルの成れの果てだ。

 赤黒い血管が浮き出た壁面は、呼吸するように膨張と収縮を繰り返している。


「……無理です」

「あぁん? 命令無視かよ」

「違います。よく見てください。その壁、表面に微細な発汗孔ポアが開いています。刺激を与えれば、高濃度の消化酸が噴き出しますよ」


 それは探索者としての合理的な警告だった。

 この世界の壁は生きている。下手に傷つければ、防衛本能で反撃してくるのだ。

 だが、剛田には俺の言葉が、単なる「汚れを嫌がる言い訳」にしか聞こえなかったらしい。


御託ごたくはいいんだよッ!」


 ドガッ。

 剛田の蹴りが、俺の腹にめり込んだ。


「ぐっ……!?」


 踏ん張る間もなく、俺は無様に地面に転がった。

 手をつく。

 ゴム手袋越しの掌に伝わる、ぬるりとした生温かい感触。

 

「う、っぷ……」


 地面の粘液が糸を引き、俺の腕に絡みつく。

 痛みよりも先に、強烈な生理的嫌悪感が脳髄を駆け巡った。

 汚い。気持ち悪い。吐き気がする。

 今すぐ腕を切り落として、漂白剤に漬け込みたい。


 俺が震えていると、剛田が俺を見下ろして唾を吐いた。

 その唾液が、俺の足元に落ちる。

 

「お前はいつもそうだ! 汚い、臭い、触りたくない……探索者の風上にも置けねぇんだよ!」

「……」

「俺たちはな、生きるために泥をすするんだよ。お前みたいに、泥が跳ねただけでこの世の終わりみたいな顔をする奴は、目障りなんだよ!」


 剛田は俺の背負っていたリュックを乱暴に剥ぎ取った。

 中には、パーティの共有財産である食料と水が入っている。


「お前はここでクビだ。荷物は置いていけ」

「……水まで、奪うんですか」

「泥水でも飲んでろ。運が良ければ、都市に消化されずに済むかもな! ギャハハ!」


 剛田たちは嘲笑を残し、さらに奥地へと進んでいった。

 俺は追いかけなかった。

 言い返す気力もなかった。

 大声を出せば、口の中にこの腐った空気が入ってくる。それだけで耐え難い苦痛だったからだ。


 残されたのは、俺一人。

 場所は「旧・新宿公園」。

 かつて緑豊かだった公園は、いまや巨大な「肉の森」と化している。

 樹木はカルシウム質の白い骨になり、葉は赤黒い肺胞のようにヒューヒューと呼吸音を立てている。


「ゴゴゴゴ……」


 日が傾き始め、都市の消化活動(蠕動ぜんどう運動)が活発になってきた。

 地面が波打ち、獲物を飲み込もうと口を開け始める。


 俺は泥だらけの体を引きずり、とぼとぼと歩き出した。

 生き残る自信なんてない。

 武器もない。水もない。

 あるのは、極限まで磨り減った精神だけだ。


(……生きたい、とは思う。でも)


 俺は自分の手を見た。

 剛田に蹴られた時についたヘドロが、べっとりと張り付いている。


(このヌルヌルした地面の上で、糞尿のような臭いを嗅ぎながら、あと何十年も生き延びることに、何の意味があるんだ?)


 俺の絶望は、「死にたくない」という恐怖ではなかった。

 もっと根源的な、生理的な限界だった。


 英雄になんてならなくていい。

 金も、名誉も、チート能力もいらない。


 ただ……乾いたシーツの上で眠りたい。

 カビ臭くない、無臭の空気を吸いたい。

 ベトベトしない床の上を、裸足で歩きたい。


「それだけのことが、どうしてこんなに難しいんだ……」


 誰もいない肉の森で、俺の呟きは湿った風に吸い込まれて消えた。

 目指すのは、森の奥にあるはずの祖父の廃別荘。

 せめて最期くらい、屋根のある場所で死のう。


 俺は汚れた体を抱きしめるようにして、地獄の底を歩き続けた。

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