第1話 悪役令嬢は幼馴染でした
白い光が、瞼の裏で波のように砕けた。
焼けるゴムの匂い、誰かが呼ぶ声、遠ざかるサイレン。そこで途切れたはずの意識が、硬い寝台と天蓋の影に繋ぎ直される。
見知らぬ天井。木目がやけに近い。腕を持ち上げると、袖口に金糸で家紋が縫われた寝間着――そして、子どもみたいに小さな手。
「……転生?」
その言葉自体が夢の続きみたいで、口にしても現実味はない。ただ、胸の内側で鼓動だけが急に早くなる。打つたびに、過去の断片が水面へ浮かぶ。信号、雨、ブレーキの悲鳴。あの時、確かに俺は――。
扉がこんこんと鳴って、年配の執事が顔を出した。
「お目覚めでございますか、シンジ坊ちゃま」
シンジ。響きは同じでも、ここでは“アルフォード男爵家三男”の名前だということを、直感のような記憶が教えてくる。
*
季節が一巡りする頃には、俺はこの世界の景色を「日常」と呼べるようになっていた。馬車の揺れ方、パンの皮の固さ、夕暮れに灯る魔導街灯の色。前世の暮らしは、遠くのラジオみたいに音だけ残して遠ざかっていく。
ただ一つだけ、遠ざけたくても遠ざからない気配があった。
――結衣。
名前を意識の底で呼ぶたび、胸の中心が掴まれる。小学校の帰り道の夕日、図書室の埃っぽい匂い。雨の日に貸し借りした折り畳み傘。どれもが“こちら側”に居場所を持てず、宙ぶらりんで揺れ続ける。
そんなある日、男爵家に一通の手紙が届いた。
王都の魔法学院、予科への編入試験許可。三男の俺にも機会が与えられたらしい。社交に不向きな俺には、学舎の空気の方がきっと馴染む。少しだけ胸が軽くなった。
*
入学初日。白い石畳と尖塔の連なる学院は、朝の光を受けて薄く発光して見えた。広場には貴族子弟と商家の奨学生が入り混じり、香水と革の匂いが立ちのぼる。
鐘が三度鳴り、講堂の扉が開く。新入生は列になり、名前を呼ばれて一人ずつ入っていく。
「シンジ・アルフォード」
呼ばれて一歩、踏み出したときだった。
ざわ、と空気が波打つ。
講堂奥の大扉が、予定にない音を立てて開いたのだ。
濃い葡萄色のマント、光を受けて柔らかく波打つ栗色の髪。侍女が二人、後ろに従う。少女は足を止め、こちらを見た。
目が合った瞬間、喉の奥で何かがほどける。
――結衣?
言葉にならない呼び方が漏れそうになって、俺は慌てて唇を噛んだ。そんな名前、この世界にはない。
少女は視線をほんの一拍だけ揺らし、すぐに無表情をまとった。侍女の囁きが追いかける。
「グランディア侯爵家ご令嬢、ご到着です」
周囲のざわめきが形を帯びる。
「悪役令嬢がまた遅刻か」「派手好きだこと」
悪役令嬢――その言葉が、砂を噛むみたいに口の中でざらつく。
少女、ユイ・グランディアは学院の最前列に進み、涼しい顔で座った。面立ちは違う。けれど、笑ったとき右の口角がわずかに先に上がる癖も、目尻に出る小さな皺の位置も、俺の知っている“結衣”のそれと重なる。
そして、信じがたいことに、彼女はほんの刹那――誰にも気づかれない角度で僕を見て、無声音で唇を動かした。
し・ん・じ。
胸が大きく跳ねた。
*
ホームルームが終わるや否や、ユイの周囲には人だかりができた。取り巻きのように媚びる者、保身のために距離を測る者、そして露骨に敵意を向ける者。権力の影に集まる虫のようで、見ていて気分が悪い。
ひときわ甲高い声が、わざとらしく広場に響いた。
「まあまあ、侯爵家のご令嬢って、登校から遅刻するのが“マナー”でしたっけ?」
発言者は銀髪の少女。確か男爵の姪で、取り巻きの中心にいると噂の子だ。彼女は手に一枚の書状をひらつかせてみせる。
「それにね、これ見た? 去年の慈善バザーの会計報告。侯爵家の寄付金、桁をひとつ誤魔化してるわ。あらあら、お里が知れる、ってこのこと?」
わっと、楽しい玩具を見つけた子どもみたいに周囲が沸く。
ユイは瞬き一つせず、その書状を見た。
強がりでも挑発でもなく、ただ静かに、波紋の広がりを見届けるような目だった。
「……その書面、原本をお持ち?」
「まさか。写しだけど?」
「なら、あなたの言葉は推測に過ぎないわ。公の場で他家の名誉を毀損するのは、学院規定第八条に抵触する。条文、読んでいる?」
「なっ……!」
銀髪の少女が頬を赤く染める。だが彼女は引かない。
「でも事実かもしれないでしょ? あなたの家、最近色々と噂――」
「――そこまでだ」
気づけば、俺は二人の間に割って入っていた。
広場のざわめきが、別の質を帯びる。無謀な下級貴族の三男が、侯爵令嬢と有力男爵家の姪の間に立った。愚か者の図。
震えていたのは、膝じゃない。息だ。
でも、不思議と怖くはなかった。目の前にいるのが“結衣”の気配を纏った人間だから。
「会計の話をするなら、まず書類の出所を明らかにすべきだ。匿名の写しなんて、風聞より質が悪い」
「あなた、誰の味方を――」
「規定の味方だよ。学院は貴族の遊び場じゃない」
銀髪の少女が舌打ちを飲み込む間に、俺は侍従に合図した。
実はさっきから、ユイの侍女が袖の陰でこっそり合図していたのだ。巡回の書記官に通報済み、と。
タイミングを見計らったように、教務員が広場に現れる。規定の確認、発言者の聞き取り、写し書面の一時差し押さえ。
形ばかりの手続きでも、嘲笑の輪はそれだけで解けた。群衆は新しい噂を求めて、潮が引くように散っていく。
「助かったわ」
取り巻きがいなくなった瞬間、ユイがこちらにだけ向ける声で言った。音程の下がり方が、懐かしくて胸が痛む。
俺は周囲の目を避けて、柱の陰に滑り込む。ユイも一歩、ついてくる。
距離が縮まる。香水に混じって、前世の雨の日に纏っていた柔軟剤の匂い――に、似た何か。
「……ユイ」
名前を呼ぶ。それはこの世界の、彼女の名前。
彼女の睫毛がかすかに揺れた。
「ねえ、真司」
小さく、小さく。誰にも届かない声で。
俺は世界が一瞬、色を変えるのを見た気がした。
「やっぱり、あなたね」
言葉はそれだけなのに、長距離を走って水を一気に飲んだみたいに、体中に酸素が巡る。
喉の奥が熱くなって、笑ってしまいそうになるのを、なんとか飲み込んだ。
「覚えてるのか」
「忘れられるわけないでしょう。――ねえ、後で少し時間ある?」
ユイは周囲を見回し、扇で口元を隠した。侯爵令嬢の仮面を正しく装着する仕草。
「放課後、旧図書塔。人に聞かれたくない話があるの」
*
授業はまるで耳に入らなかった。教壇の教授が魔力回路について何か熱弁していた気がするが、黒板の文字は全部ユイの横顔の影になって見えた。
放課後の鐘が鳴ると同時に、俺は旧図書塔へ向かう。学院の裏手、蔦に覆われた古い塔。鳩の鳴き声と紙の匂いだけが満ちている。
階段をひとつ上がった踊り場で、ユイが待っていた。侯爵令嬢の衣装からは想像できないほど静かな表情で。
「来てくれて、ありがとう」
「当たり前だろ。話って?」
ユイは躊躇い、扇を閉じた。
そして、言葉を選ぶように一音ずつ置く。
「この世界、前世で私たちが遊んだ“ゲーム”に少し似てるの。設定も、事件も、登場人物の配置も。――そして私、ここでは“悪役令嬢”として断罪される運命にいる」
脈が、ひとつ跳ねる。
「断罪――処刑?」
「直接の言い方をするならね。社交場での無作法、王子への執着、慈善の不正。用意された“フラグ”をきちんと踏めば、私はみんなの前で罪を宣告されて終わる。それが筋書き。たぶん、誰かが進行役をしている」
「進行役?」
「駒を並べ、噂を撒き、証拠を作る人。今日の“写し書面”みたいに。――薬指に大きな黒曜石の指輪をしている男爵。見覚えはない?」
黒い指輪。さっき、広場の向こう側でひときわ目立っていた男の横顔が脳裏をよぎる。まるで舞台裏から観客席を覗くような、冷たい目をしていた。
ユイは一歩、俺に近づいた。扇越しに隠した唇が、少しだけ震えている。
「真司。お願いがあるの」
目の前の彼女は“侯爵令嬢”でも“悪役”でもなかった。雨の日に傘を半分差し出してくれた、あのときの幼馴染だった。
「助けて。――私を、運命から外して」
音のない雷鳴が、塔の上で転がった気がした。
逃げる理由はいくらでも作れた。家の立場、学院での評判、自分が弱いこと。
でも、そんな計算は、昔からこの子の前では役に立たなかった。
「分かった」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「俺が全部、折る。フラグってやつを」
ユイの肩が、ほんの少しだけ緩む。
その安堵を見て、俺は初めて理解した。
――この物語は、テンプレートの上に並べられた駒じゃない。俺たちが歩くたび、形を変える道だ。
「ただし条件がある」
「条件?」
「ひとりで抱え込むな。泣きたい時は言え。怒る時は怒れ。……それから、俺の名前を、時々でいいから“真司”って呼べ」
ユイは吹き出して、手の甲で目元を押さえた。
「あなたっていつも、そういう言い方をする」
階段の踊り場の窓から、夕陽が差し込む。埃が光の粒になって、二人の間を漂う。
「約束するわ、真司。――一緒に、筋書きを壊しましょう」
塔の外で、鐘が六度鳴った。
その音は、学院の日常を告げる合図――のはずなのに、俺たちには別の意味に聞こえた。
開幕の合図。
“悪役令嬢”の断罪劇を、台本ごとひっくり返すための。