表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/29

第1話 悪役令嬢は幼馴染でした

 白い光が、瞼の裏で波のように砕けた。

 焼けるゴムの匂い、誰かが呼ぶ声、遠ざかるサイレン。そこで途切れたはずの意識が、硬い寝台と天蓋の影に繋ぎ直される。


 見知らぬ天井。木目がやけに近い。腕を持ち上げると、袖口に金糸で家紋が縫われた寝間着――そして、子どもみたいに小さな手。

「……転生?」

 その言葉自体が夢の続きみたいで、口にしても現実味はない。ただ、胸の内側で鼓動だけが急に早くなる。打つたびに、過去の断片が水面へ浮かぶ。信号、雨、ブレーキの悲鳴。あの時、確かに俺は――。


 扉がこんこんと鳴って、年配の執事が顔を出した。

「お目覚めでございますか、シンジ坊ちゃま」

 シンジ。響きは同じでも、ここでは“アルフォード男爵家三男”の名前だということを、直感のような記憶が教えてくる。



 季節が一巡りする頃には、俺はこの世界の景色を「日常」と呼べるようになっていた。馬車の揺れ方、パンの皮の固さ、夕暮れに灯る魔導街灯の色。前世の暮らしは、遠くのラジオみたいに音だけ残して遠ざかっていく。

 ただ一つだけ、遠ざけたくても遠ざからない気配があった。

 ――結衣。

 名前を意識の底で呼ぶたび、胸の中心が掴まれる。小学校の帰り道の夕日、図書室の埃っぽい匂い。雨の日に貸し借りした折り畳み傘。どれもが“こちら側”に居場所を持てず、宙ぶらりんで揺れ続ける。


 そんなある日、男爵家に一通の手紙が届いた。

 王都の魔法学院、予科への編入試験許可。三男の俺にも機会が与えられたらしい。社交に不向きな俺には、学舎の空気の方がきっと馴染む。少しだけ胸が軽くなった。



 入学初日。白い石畳と尖塔の連なる学院は、朝の光を受けて薄く発光して見えた。広場には貴族子弟と商家の奨学生が入り混じり、香水と革の匂いが立ちのぼる。

 鐘が三度鳴り、講堂の扉が開く。新入生は列になり、名前を呼ばれて一人ずつ入っていく。

「シンジ・アルフォード」

 呼ばれて一歩、踏み出したときだった。


 ざわ、と空気が波打つ。

 講堂奥の大扉が、予定にない音を立てて開いたのだ。

 濃い葡萄色のマント、光を受けて柔らかく波打つ栗色の髪。侍女が二人、後ろに従う。少女は足を止め、こちらを見た。

 目が合った瞬間、喉の奥で何かがほどける。

 ――結衣?


 言葉にならない呼び方が漏れそうになって、俺は慌てて唇を噛んだ。そんな名前、この世界にはない。

 少女は視線をほんの一拍だけ揺らし、すぐに無表情をまとった。侍女の囁きが追いかける。

「グランディア侯爵家ご令嬢、ご到着です」

 周囲のざわめきが形を帯びる。

「悪役令嬢がまた遅刻か」「派手好きだこと」

 悪役令嬢――その言葉が、砂を噛むみたいに口の中でざらつく。


 少女、ユイ・グランディアは学院の最前列に進み、涼しい顔で座った。面立ちは違う。けれど、笑ったとき右の口角がわずかに先に上がる癖も、目尻に出る小さな皺の位置も、俺の知っている“結衣”のそれと重なる。

 そして、信じがたいことに、彼女はほんの刹那――誰にも気づかれない角度で僕を見て、無声音で唇を動かした。

 し・ん・じ。

 胸が大きく跳ねた。



 ホームルームが終わるや否や、ユイの周囲には人だかりができた。取り巻きのように媚びる者、保身のために距離を測る者、そして露骨に敵意を向ける者。権力の影に集まる虫のようで、見ていて気分が悪い。

 ひときわ甲高い声が、わざとらしく広場に響いた。

「まあまあ、侯爵家のご令嬢って、登校から遅刻するのが“マナー”でしたっけ?」

 発言者は銀髪の少女。確か男爵の姪で、取り巻きの中心にいると噂の子だ。彼女は手に一枚の書状をひらつかせてみせる。

「それにね、これ見た? 去年の慈善バザーの会計報告。侯爵家の寄付金、桁をひとつ誤魔化してるわ。あらあら、お里が知れる、ってこのこと?」

 わっと、楽しい玩具を見つけた子どもみたいに周囲が沸く。


 ユイは瞬き一つせず、その書状を見た。

 強がりでも挑発でもなく、ただ静かに、波紋の広がりを見届けるような目だった。

「……その書面、原本をお持ち?」

「まさか。写しだけど?」

「なら、あなたの言葉は推測に過ぎないわ。公の場で他家の名誉を毀損するのは、学院規定第八条に抵触する。条文、読んでいる?」

「なっ……!」


 銀髪の少女が頬を赤く染める。だが彼女は引かない。

「でも事実かもしれないでしょ? あなたの家、最近色々と噂――」

「――そこまでだ」

 気づけば、俺は二人の間に割って入っていた。

 広場のざわめきが、別の質を帯びる。無謀な下級貴族の三男が、侯爵令嬢と有力男爵家の姪の間に立った。愚か者の図。


 震えていたのは、膝じゃない。息だ。

 でも、不思議と怖くはなかった。目の前にいるのが“結衣”の気配を纏った人間だから。

「会計の話をするなら、まず書類の出所を明らかにすべきだ。匿名の写しなんて、風聞より質が悪い」

「あなた、誰の味方を――」

「規定の味方だよ。学院は貴族の遊び場じゃない」

 銀髪の少女が舌打ちを飲み込む間に、俺は侍従に合図した。

 実はさっきから、ユイの侍女が袖の陰でこっそり合図していたのだ。巡回の書記官に通報済み、と。

 タイミングを見計らったように、教務員が広場に現れる。規定の確認、発言者の聞き取り、写し書面の一時差し押さえ。

 形ばかりの手続きでも、嘲笑の輪はそれだけで解けた。群衆は新しい噂を求めて、潮が引くように散っていく。


「助かったわ」

 取り巻きがいなくなった瞬間、ユイがこちらにだけ向ける声で言った。音程の下がり方が、懐かしくて胸が痛む。

 俺は周囲の目を避けて、柱の陰に滑り込む。ユイも一歩、ついてくる。

 距離が縮まる。香水に混じって、前世の雨の日に纏っていた柔軟剤の匂い――に、似た何か。

「……ユイ」

 名前を呼ぶ。それはこの世界の、彼女の名前。

 彼女の睫毛がかすかに揺れた。

「ねえ、真司」

 小さく、小さく。誰にも届かない声で。

 俺は世界が一瞬、色を変えるのを見た気がした。

「やっぱり、あなたね」


 言葉はそれだけなのに、長距離を走って水を一気に飲んだみたいに、体中に酸素が巡る。

 喉の奥が熱くなって、笑ってしまいそうになるのを、なんとか飲み込んだ。

「覚えてるのか」

「忘れられるわけないでしょう。――ねえ、後で少し時間ある?」

 ユイは周囲を見回し、扇で口元を隠した。侯爵令嬢の仮面を正しく装着する仕草。

「放課後、旧図書塔。人に聞かれたくない話があるの」



 授業はまるで耳に入らなかった。教壇の教授が魔力回路について何か熱弁していた気がするが、黒板の文字は全部ユイの横顔の影になって見えた。

 放課後の鐘が鳴ると同時に、俺は旧図書塔へ向かう。学院の裏手、蔦に覆われた古い塔。鳩の鳴き声と紙の匂いだけが満ちている。

 階段をひとつ上がった踊り場で、ユイが待っていた。侯爵令嬢の衣装からは想像できないほど静かな表情で。

「来てくれて、ありがとう」

「当たり前だろ。話って?」

 ユイは躊躇い、扇を閉じた。

 そして、言葉を選ぶように一音ずつ置く。

「この世界、前世で私たちが遊んだ“ゲーム”に少し似てるの。設定も、事件も、登場人物の配置も。――そして私、ここでは“悪役令嬢”として断罪される運命にいる」

 脈が、ひとつ跳ねる。

「断罪――処刑?」

「直接の言い方をするならね。社交場での無作法、王子への執着、慈善の不正。用意された“フラグ”をきちんと踏めば、私はみんなの前で罪を宣告されて終わる。それが筋書き。たぶん、誰かが進行役をしている」

「進行役?」

「駒を並べ、噂を撒き、証拠を作る人。今日の“写し書面”みたいに。――薬指に大きな黒曜石の指輪をしている男爵。見覚えはない?」

 黒い指輪。さっき、広場の向こう側でひときわ目立っていた男の横顔が脳裏をよぎる。まるで舞台裏から観客席を覗くような、冷たい目をしていた。


 ユイは一歩、俺に近づいた。扇越しに隠した唇が、少しだけ震えている。

「真司。お願いがあるの」

 目の前の彼女は“侯爵令嬢”でも“悪役”でもなかった。雨の日に傘を半分差し出してくれた、あのときの幼馴染だった。

「助けて。――私を、運命から外して」

 音のない雷鳴が、塔の上で転がった気がした。


 逃げる理由はいくらでも作れた。家の立場、学院での評判、自分が弱いこと。

 でも、そんな計算は、昔からこの子の前では役に立たなかった。

「分かった」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「俺が全部、折る。フラグってやつを」

 ユイの肩が、ほんの少しだけ緩む。

 その安堵を見て、俺は初めて理解した。

 ――この物語は、テンプレートの上に並べられた駒じゃない。俺たちが歩くたび、形を変える道だ。


「ただし条件がある」

「条件?」

「ひとりで抱え込むな。泣きたい時は言え。怒る時は怒れ。……それから、俺の名前を、時々でいいから“真司”って呼べ」

 ユイは吹き出して、手の甲で目元を押さえた。

「あなたっていつも、そういう言い方をする」

 階段の踊り場の窓から、夕陽が差し込む。埃が光の粒になって、二人の間を漂う。

「約束するわ、真司。――一緒に、筋書きを壊しましょう」


 塔の外で、鐘が六度鳴った。

 その音は、学院の日常を告げる合図――のはずなのに、俺たちには別の意味に聞こえた。

 開幕の合図。

 “悪役令嬢”の断罪劇を、台本ごとひっくり返すための。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ