潮の季節に
震災で夫の達也を亡くした奈緒(私)は、達也との子供を身籠っている。次の場面は、奈緒が母親に連れられて来た産婦人科から脱走するところである。以下の文章を読んで、後の問いに答えなさい。
気が付いたときには、病院を飛び出していた。久しぶりに電車に乗り、いくつもの駅を過ぎて、海へと向かう。
母が私に気を遣って選んでくれた内陸の病院には、海の気配は全くない。私があの日を思い出さないための配慮である。でも、私にとって潮のにおいは、波の音は、達也そのものでしかない。忘れることなんてできないのだ。
小一時間ほど電車に乗っていただろうか、市街地を抜けて、だんだんと人の気配が少なくなっていく。そっと窓の外を見ると、地平線の隅に海が少しだけ陣取っていた。
「ここ、座ってもいいかしら」
突然、老婦人が声をかけてきた。奈緒が座っているのは、所謂ボックス席だ。周りをみると、人が少ないとは言っても、それぞれのボックスに一人ずつくらいは居る。
「あ、どうぞ」
正直、一人で静かに揺られていたかった。他の席もまだ空いているのに、なぜ奈緒の前を選ぶのか、と少し思ってしまったが、断る理由もない。
「お一人で旅行?妊婦さんよね?」
「まあ、そんなところです」
知らない人と話すというのが、奈緒はあまり得意ではない。今この瞬間さえ乗り切れば、相手の記憶にも、自分の記憶にすらも残ることはないというのに、一挙一動に妙に気を遣ってしまう。
「元気な男の子ね」
「え?」
恐怖にも似た心地で、動けなくなってしまった。何故この人は、私のお腹の中にいるのが男の子だと知っているのだろうか。
「あら、合ってる?ここまで生きてるとね、なんとなくわかってくるのよ」
そうだ、そんなわけがない。正解は二つに一つ。たまたま当たっただけなんだから。
「合ってます、すごいですね」
「いいのよ、そんな無理しなくても」
「え?」
老婦人は少し曲がった腰をいたわりながら、上目遣いに奈緒のことを真っすぐに見つめた。そんな風に見られても、奈緒は何も言えやしない。
この人は、一体私に何を求めているのだろうか。望まなくても生まれてしまう間と静寂がさらに奈緒を追い込んでいく。これだから誰かと話すのは嫌なのだ。
「あ、なんかごめんなさい、私うまく話せなくて」
やっと言えた意味のない謝罪は、きっとさらに空気を悪くしてしまうということを奈緒は経験上知っていたけれど、言わないという選択ができなかった。
「いいのよ、謝らなくて」
老婦人は微笑むが、内心奈緒を馬鹿にしているのではないかとすら思ってしまう。
もし、達也が居たら。
この場もうまく乗り越えてしまうのだろう。いや、もしかしたら乗り越えたとすら思わないようなことかもしれない。いつだって誰かと話すときは、達也がそばにいてくれた。でも、もう居ないのだ。これからは、私が頑張らないといけないのに。助ける側にならないといけないのに。まだ達也のことばかり考えてしまう。無力な自分に泣きたくなってきた。
「あなた、いいお母さんになるわよ」
老婦人に声をかけられて我に返る。外を見ると、ちょうど駅についたところだった。どうやら彼女はここで降りるらしい。
「家族を本気で想えるって、素敵なことよ」
さようなら、と言い残して、老婦人は電車から降りて行った。奈緒が何かを言いだそうとするよりも早く、電車の扉が閉じられた。
家族を、本気で、想える。そんなことを言われたのは初めてだ。確かに私は、まだ達也のことを忘れられない。忘れたくない。この想いは消えることはない。でも同じくらい。達也との子供も愛せるだろうか。
目的地だった駅につく。外の空気は思ったよりも暖かくて、潮の匂いがした。
目の前には、反対を向いた電車が扉を開けて待っている。右に進めば、海は近い。達也はきっとそこにいた。
思い出を胸いっぱいに吸い込みながら、私は未来に踏み出した。
問「私は未来に踏み出した」とあるが、奈緒はどこに進んでいったと考えられるか。文章全体から考察し述べよ。