揺れる決断、帰る家
学校での授業がひと通り終わり、夕方の校門を出ると、スマホが小刻みに振動した。画面には叔母の名前が表示されている。事故以来、何度か連絡を受けてはいたが、今日は何の要件だろう。少し胸がざわつきながら通話ボタンを押した。
「大輝? いま大丈夫?」
落ち着いた女性の声が耳に入る。俺が「はい」と返事をすると、叔母はすぐ本題に入った。
「相続のことなんだけど、そろそろ実家をどうするか決めないといけないの。あなたが一人で住むには広すぎるし、維持するだけでもお金がかかるわ。……売却を考えたほうがいいんじゃない?」
ああ、やっぱりか。叔母に相続の話を切り出され、最初に出てきたのはそんな感想だった。頭では理解している。家族がいなくなった今、あの家を一人で守っていくには限界があるかもしれない。でも、すぐに「手放す」とは言えなかった。そこには確かに思い出がたくさん詰まっているのだから。
俺は唇をかみつつ、意を決して答える。
「……すみません。まだ気持ちの整理がつかなくて。今はちょっと、決められそうにない、かな」
しばらく沈黙が続く。
「そうよね、急に言ってしまってごめんね」
気遣いの篭った叔母の声が続いた。
「酷なことを言ってるわよね。決めるのは落ち着いてからでいい。ただ、いつかは決めないといけないことなの。いつまでも固定資産税や管理費を払い続けるのは大変だし、遺品整理も含めて、ゆくゆくは動かないといけないから……」
「うん、わかってる」
「でも焦らなくていいから」
「叔母さん。いつまでに決めないといけない?」
「あなたが納得できたらでいいわ」
叔母の言葉に、胸が温かくなる。強引に迫られるのかと思っていたが、彼女も自分を気遣ってくれている。結局その日は保留という形で話を終え、電話を切った。
アパートへ帰り着くと、すでに夜の帳が下りていた。玄関のドアを開けると、リビングの照明が暖かく部屋を照らしている。
テーブルに向かって書類を広げている倉橋利奈が、俺の姿を見るなりパッと顔を上げた。
「おかえり。今日は学校、どうだった?」
その問いに、「うん、まあ普通に受けてきたよ」と答えつつ、カバンを降ろして腰を下ろす。実は学校のことより、さっきの叔母との電話が頭に残っていた。
「なにかあった?」
「……あったように見えるか?」
「わりと」
直感だけどね、なんて利奈は肩を竦めてみせる。
「……実家のことなんだけどさ」
切り出すと、利奈は「うん?」と小首を傾げる。俺は通話の内容を端的に話した。維持するだけでもお金がかかること、一人で住むには広すぎる家、住まなければ家はすぐに荒れていくこと……。
「手放すならなるべく早い方がいいことはわかってるんだ」
家は新しいうちに手放した方がいい値段がつく。不動産について詳しくはないが、それくらいは俺でもわかる。だから急いだほうがいいことではあるのだろう。
でも、どうしても気持ちがついてこない。そんな葛藤を正直に打ち明ける。
「そっか……。そりゃ迷うよね。だって大輝の家族が暮らしてた思い出の場所なんだもん」
他人事みたいにあっさり言うかと思いきや、利奈の声は優しく寄り添うようだった。彼女自身も一人暮らしをしているし、住む場所の大切さを理解しているのかもしれない。
「叔母さんは強く売れとか言ってこなかったの?」
「うん、理解はしてくれてる。無理に決めろとは言わず、ちゃんと俺の意見を尊重するって」
その言葉を口にした途端、思いがけず少し胸が詰まる。家族を喪った自分にとって、あの家は最後に残った「繋がり」みたいなものなのかもしれない。失った家族の姿はもうどこにもないのに、家があるだけで誰かが待っていてくれるような錯覚を覚える。
「無理に答えを出す必要はないと思う。でも、もし維持が本当に難しいなら、大輝の心が落ち着く方法を一緒に探そうよ」
利奈の言葉には、まるで「一緒に考えるよ」と言わんばかりの安心感があった。
「ありがとな。そうだな……。気持ちの整理がつくまで待ってもらって、その間にもっと色々調べてみる。手放すにしても、どんな方法があるのか分からないし」
「うん、それがいいと思う。必要なら私もネットとかで探してみるし、手伝えることがあれば言って」
俺はこくりと頷いてテーブルを見やる。利奈が開いていた資料には、どうやら仕事で使う台本やスケジュール表が並んでいるようだ。俺のことで色々と悩ませてしまうのは本意じゃないが、こうして彼女が受けとめてくれることが素直に嬉しかった。
しばしの沈黙が流れ、利奈は「あ、夕飯まだだよね?」と立ち上がる。
「何か作ろうか? 今日はレッスン早めに終わったから、冷蔵庫にちょっと買ってきた食材があるんだ」
「じゃあ俺も手伝うよ」
そう言ってキッチンに向かう背中を追いかけると、部屋の空気が少し軽くなった気がした。叔母からの重い課題は残ったまま。でも、ここに帰ってくれば誰かがいる──それだけで、不思議と明日へ進む気力が湧いてくる。
利奈はエプロンを手に取り、ちらりと俺を振り返って微笑んだ。その笑顔が、今の俺にとっては何よりの支えだった。
──少しずつ、前へ進めばいい。そう思っていた。だけど、思い出の家は思い出のままにしておけない。
現実は残酷だ。家を維持するためにはお金がかかるし、広すぎる家を大輝ひとりで住んでも掃除が行き届かずに荒れてしまう。
その現実がわかっていても、唯一の家族の繋がりを手放してしまうようで後ろめたさがある。
「(俺はどうすればいいんだろうな)」
前へ進むためには決めなければいけないこともある。鼻歌を口ずさみながら夕飯を作っている利奈を横目に俺はそんなことを考えていた。