夜更けのシルエット
時計の短針が日付の境を越えた頃、ようやく玄関のドアが動いた。
カチャリという鍵の音と同時に、冷えきった夜の空気が廊下へ流れ込んでくる。
「……ただいま」
倉橋利奈の声は、小さく擦れたように聞こえた。朝からずっとレッスンとボイトレが入っていると言っていたから、かなり疲れているんだろう。
俺──滝口大輝は床に置いた雑誌を閉じ、慌てて立ち上がる。玄関には仕事道具の入った大きめのトートバッグを抱えた彼女が立っていた。
「おかえり、利奈。……遅かったな」
そう声をかけると、彼女は少し表情を緩めて「うん」と一言返す。
部屋の電気はずっとつけたままだ。俺なりに簡単な夕飯を用意し、先にシャワーを浴びてから、まるで帰りを待つ家族のように落ち着かない気分でここにいた。
「今日、いっそがしくってさ……こんな時間になっちゃった。ごめんね。ご飯は食べた?」
「ああ、そこに軽い夜食を作っておいたんだけど、時間も遅いし無理に食べなくても──」
「ううん、ありがとう。食べる。せっかくだしね」
利奈はバタバタと靴を脱ぎ、部屋に上がる。大きなバッグを壁際へ立てかけ、軽くストレッチでもするように肩を回した。
夕飯はもう冷めている。それでもスープは小鍋に入れてあるから、すぐに温め直せる。俺がキッチンへ行き、コンロに火をつけてしばらく待つと、ほのかな湯気が立ち上った。いびつに刻まれた野菜とハムが混ざったチャーハンはラップを被せてレンジでチン。
「うわ、ちゃんと温かいんだ。ありがとう、大輝」
「いいって。俺ができることは、これくらいしかないから」
「あ、そういう発言は禁止。これくらい、じゃないよ。それにほら、こんなにおいしそうだし」
テーブルの上には、固形のコンソメを溶かしただけの野菜スープと、レンジで温めたチャーハン。あまり凝った料理じゃないけれど、これが俺の作ることができる精一杯だった。
「いただきます、っと」
スープを口に含んだ利奈は、ほんのわずか目を細めた。
「あ、ちゃんとおいしい。へえ、大輝って料理できたんだ」
「バカにしてくれるなよ。たまにだが自分の昼飯を作ることだってある。これくらいならできるんだ。うまいだろ」
「うーん、六十五点かな。味が濃すぎ」
「文句あるなら食うな」
「あっはっは。冗談、冗談。ちゃんとおいしいよ」
わっしわっしとスプーンでチャーハンをすくっては口へ運ぶ利奈を見ながら、俺は自然と笑みがこぼれる。味が濃いのと憎まれ口を叩いたくせして、いい食べっぷりだ。
「今日、うちに行ってきた」
よどみなくチャーハンとスープを交互に口へ運んでいた利奈の手がわずかに止まった。しかしそれも一瞬。何事もなかったかのように食事を再開する。
「そっか」
「午前中に行って、段ボール一箱ぶんくらいしか整理できなかったけど。とにかく何が何だか分からないまま、どうしようもないって感じでさ……。でも、少しずつやっていくしかないなって思った」
そう話すと、利奈はスープカップを置いて黙り込んだ。
「……何かあったら遠慮しないで言ってよ。私で力になれるかは分からないけど、少なくとも一人にはしないから」
その声は、穏やかで真剣だった。
いまの俺には、その言葉だけで十分だと思える。心の中に居座る喪失感はそう簡単には消えない。だけど、「一人じゃない」と感じられるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
「ごちそうさまでした。うん、結構おいしかったかな」
「そりゃよかった。これくらいならまた作るよ」
「あー、嬉しいけどまた今度で。脂質と糖質はアイドルの天敵なんだよ」
冗談めかして利奈は笑う。
やがて利奈は食事を済ませ、シャワーを浴びるためバスルームへ向かった。仕事用のメイクを落とし、スッピンで戻ってくる頃には、時計の針が一時を回ろうとしている。
「先に寝るね。おやすみ、大輝」
タオルドライした髪を揺らしながらベッドに滑り込む彼女の背中を見送り、俺もクッションの上で横になる準備をする。部屋の明かりを落とすと、途端に静寂が濃くなった。
「おやすみ」
夜の闇の中、誰に届くかも分からないほどの小さな声でそう呟く。