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空っぽの部屋

 静まり返ったアパートを出たのは、ちょうど午前十時を回った頃だった。

 倉橋利奈がレッスンに出かけたあと、洗い物と簡単な掃除を済ませると、俺──滝口大輝は家族がかつて暮らしていた自宅へ向かうことを決めた。


「早めに手をつけなきゃいけないって言われても、正直まだ気持ちの整理がつかないんだよな……」


 駅へ向かう道すがら、そう呟いて苦笑する。昨日、親戚からの電話で家の片付けを急かされて、仕方なく重い腰を上げた。

 電車に揺られている間、窓から見える景色にぼんやりと目をやる。見慣れた街並みなのに、まるで何もかもが別の世界のように感じられた。葬儀が終わり、家族がいなくなったあの家へ戻るのがただ怖かった。


 降り立った駅から歩いて数分。懐かしい商店街を抜けると、見慣れた住宅街に入り、すぐに目的地が見えてくる。

 かつては帰る場所と呼んだ自宅の玄関は、まるで引っ越し前の空き家のように静まり返っていた。鍵を差し込む指先が震える。

 カチリ、と小さな音を立ててドアを開けると、鼻をつくのは僅かな埃の匂い。まだ葬儀が終わって数日しか経っていないのに、人気がない家はすぐに空気が淀む。


「……ただいま」


 無意識に声がこぼれた。応える人のいない空っぽの部屋に、自分の声だけが虚しく反響する。

 

 リビングに入って、電気をつける。カーテンの隙間から差し込む光が、見覚えのある家具を白々と照らした。テーブルの上には、最後に家族で食事をしたときのコースターがそのまま残っている。

 ふと視界がにじむ。懸命に瞬きをして、胸の奥から込み上げる何かをこらえた。


「今日は……必要最低限のものだけ、持ち出せればいいか」


 玄関から持ってきた段ボール箱をリビングの床に置き、まずは思い出の品や大事な書類を探す。アルバムや家族写真……手を伸ばすたびに心が痛んだ。

 

 しばらく作業をしていると、スマホが振動する。画面を見れば、「利奈」という名前が表示されていた。


「もしもし、どうした?」


 受話口の向こうからは、いつもの明るい声……というには少し緊張が混じっている気がした。


「レッスン休憩中なんだけど、大輝が気になって。ちゃんと家に着いた? 具合は大丈夫?」


 その言葉に、思わず口元が緩む。忙しい最中なのに、俺のことを気遣ってわざわざ連絡をくれるなんて。


「まあ……一応、大丈夫。空気が重いっていうか、やっぱりしんどいけど……」

「そっか。無理はしないでね。もし辛くなったら、すぐ戻ってきなよ。今日は夜も遅くまでレッスンだから、一緒に夕食は難しいけど……」

「大丈夫。あんまり遅くなるようなら、適当に何か食って帰るよ。ありがとうな」


 そう言うと、電話越しに利奈の小さなため息が聞こえた。


「……うん。ほんと無理しないで。じゃあ、私も休憩終わっちゃうから」


 短い通話を終え、スマホを持ち直す。利奈の声を聞いただけで、少し気が楽になった。彼女がいなければ、きっと今頃はこの家で一人泣き崩れていたかもしれない。

 

 もう一度、箱を持って各部屋を回る。両親の寝室、妹の部屋……ドアを開けるたびに記憶が呼び起こされて、胸を締め付けられた。そこには妹が好きだったアニメのポスターや、母が使っていた化粧品、父の書斎に散らばる仕事のメモまでが、そのまま残されている。

 何をどう処分すればいいのか、見当もつかない。思わず背を壁に預けてしゃがみ込み、目を閉じる。


「……こんなこと、誰が決められるんだよ」


 持っていくか、捨てるか。片付けなきゃいけないと頭ではわかっていても、どれも大切な思い出の形だ。いったん処分してしまえば、もう二度と取り戻せない。


「捨てる、とか。無理だろ……」


 そんなことを考えていたら、一日中ここで立ち止まってしまいそうだった。何も決められないまま時間だけが過ぎていき、夕方にはさらに心が沈むのが見えている。

 

 それでも、今日は一歩だけでも踏み出そうと決めた。やがて思いきって、バッグのなかに家族のアルバム数冊と妹が大事にしていた小さなテディベアだけをしまい込む。それ以上はどうにも決められなかった。


「……これくらいで、今日は勘弁してくれ」


 そう呟き、段ボール箱を抱えて部屋を出る。再び玄関を閉めると、鍵がカチリと音を立てた。もう二度と、このドアを開けたら家族が笑顔で迎えてくれることはない。それを思い知らされるたび、胸が痛む。

 駅へと向かう道、空はどんより曇っていた。途中でスーパーに立ち寄る気力もわかず、そのまま電車に乗り込んだ。


 アパートに戻ったのは午後もだいぶ過ぎた頃で、外は薄暗い。鍵を開けて室内に入ると、朝とまったく変わらない風景がそこにある。

 やけに広く感じられるのは、ここに“利奈の気配”がないからだろう。わずか一日とはいえ、彼女がいてくれるだけで部屋は温もりに包まれていたのだと実感する。


「疲れた……」


 バッグを床に置いて、ソファ代わりにしているクッションへ腰掛ける。なぜか涙は出ない。ただ、心が空洞になったような感覚に陥る。

 スマホの画面を開くと、利奈からメッセージが届いていた。

 

「今日はレッスンのあとにボイトレが追加で入ったから、帰りは24時近くになるかも。コンビニで軽く済ませるから、大輝は先に休んでてね」


 彼女も大変だ。こんな夜遅くまで仕事づけなんて、体力も精神も相当な負担になるだろう。俺が家族を失って落ち込んでいる間にも、彼女はアイドルとしての夢に向かって日々を走り続けている。

 考えれば考えるほど、申し訳なさと感謝が入り混じった感覚が湧いてくる。


「せめて……夕飯ぐらい作っておくか」


 何かやっていないと、沈む気持ちに飲まれてしまいそうだ。まだ何かと心が揺れたままだけれど、家を間借りしている身としては、少しでも役に立てるといいと思う。

 

 冷蔵庫を開いて中身を確認すると、卵と野菜が少々、そして利奈が差し入れでもらったらしい果物がいくつか転がっていた。急いでスマホでレシピを検索し、スーパーに走る。今夜はシンプルなスープとサラダくらいでも作れれば、それで十分だろう。

 

 家を片付けること、これからの生活……頭を抱えることは山ほどある。それでも何もしないで塞ぎ込むよりは、誰かのために動いているほうがまだ息がしやすい。

 エプロンもないままキッチンに立ち、慣れない手つきで野菜を刻む。いつか少しずつ立ち直っていけるのか、その手応えはまだ全然つかめない。

 

 ──それでも、空っぽの部屋に戻ってきて、ただぼんやりと時間を潰すのではなく、誰かのために動いてなにも考えない時間を作らないようにしたい。考える時間を作ってしまうと、辛いことばかり考えてしまいそうだった。

 今日も遅くまで仕事に励む利奈が、少しでもほっとするような料理を用意しておきたい。

 

 そう思いながら、俺は静かな夜のキッチンで包丁の音を響かせる。


「なんだよ。こんな包丁って使うの難しかったのかよ」


 大きさも形もばらばらになってしまった野菜たち。ここまで切るだけでもかなり時間がかかった。

 朝の忙しい時間に利奈はこんな手の込んだことをやってくれたのか。


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