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夜の鍵

 タクシーの振動が心地よいのか、車内は妙に静かだった。

 運転手のラジオから流れるニュースは俺の耳に入らない。窓の外に広がる街の灯りも、どこか他人事のように感じる。ただ、隣に座る倉橋利奈の存在だけがやけにリアルで、頼りなくも温かい。


「……大輝。体、きつくない?」


 不意に利奈が声をかける。その瞳には心配がにじんでいた。

 正直、今日は一日中葬儀関係のあれこれに追われていた。体力的にも精神的にも限界に近い。けれど、そんなことを正直に言ったら、彼女がますます気を遣ってしまうだろう。

 

「大丈夫。……ありがとう」

 

 そう返すと、彼女は「そっか」と小さく頷いて、目を伏せた。

 タクシーはやがて大通りを抜け、少し狭い路地へと入っていく。車窓に映る街の光が揺れて、俺の記憶も揺さぶる。

 ──思い出すのは家族の顔。あの温かかった家。

 意識しないようにしても、脳裏にちらつくのを止められない。胸の奥が重く、鈍く痛んだ。

 

 やがてタクシーはアパート前で停まる。利奈が先に降りて運転手に代金を支払う。その後、俺をうながすように手招きをした。

 

「ここだよ。……あんまり広くないけど」

 

 アパートの外観は、築年数がそこそこ経っていそうな二階建て。真新しい感じではないが、夜の明かりに照らされているせいか、それなりに落ち着いた雰囲気がある。

 

「うち、二階だから」

「そうなのか」

 

 利奈は黙って頷くと、階段を上り始める。その足取りは軽快というより、どこかぎこちなかった。俺のことを気遣ってくれているのは分かる。だけど彼女自身だって、アイドル活動や家族との問題で苦労しているはずだ。

 こんな夜に押しかけて、本当に良かったのか。今さらになって罪悪感と感謝が入り混じった気持ちを抱きつつ、俺は彼女のあとを追う。

 

「ただいまー……って、あはは、誰もいないけどね」

 

 ドアを開けると、利奈は軽く息を吐く。狭い玄関の向こうには、ワンルームか1DK程度のスペースが広がっていた。玄関から見えるところに小さなキッチンと、さらにその奥に寝室を兼ねたリビングスペースがある。衣装らしきバッグや段ボール箱が、部屋の端に押し込まれていた。

 

「散らかってるけど……気にしないで。私もあんまり部屋にいる時間ないから、片付けるヒマがなくて」

 

 申し訳なさそうに言う利奈。アイドルとして多忙なのは、SNSなどで見ていて知ってはいたが、ここまでとは思わなかった。流しには洗って伏せられたインスタント食品のカップが積まれていたし、レッスンの資料らしき紙がテーブルに散乱している。

 

「……悪い。俺が来て余計に気を遣わせるよな」

 

 自分で言いながら、もっと他に言葉はなかったのか、と情けなくなる。

 だが、利奈は首を横に振った。

 

「気にしなくていいよ。むしろ、一人でいるより誰かがいてくれた方がホッとするから。……ただし、あれこれ見たら殴るけど」

 

 少し照れ笑いを浮かべた彼女に、俺は思わず「そっか」と返すしかなかった。

 

「大輝……今日ぐらいはゆっくり寝て。明日、また考えよう。あなたがこれからどうするかとか、家のこととか……いろいろあるでしょ」

 

 優しい声が胸にしみる。今だけは、思考を休ませていいと言われているようで、正直助かる。

 

「……ありがとう。じゃあ、今夜はお言葉に甘えて」

 

 そう言うと、利奈は安心したように笑って、テーブルの上に散乱していた書類や資料をバサッとまとめて床の隅へ投げた。そして急いでクッションを持ってきて、即席の客用スペースをつくる。

 

「布団は一組しかないから、一緒に寝るわけにはいかないけど……私がこっちに寝るから、大輝はベッド使って」

「いや、それはさすがに……」


 硬い床にクッションを置いただけのスペースに家主を寝させるわけにはいかない。

 

「いいから。そんなの、気にしないで」

「でもな……」

「一緒に寝る方がアイドル的には問題なの」

「家に連れ込むのだってマズいんじゃないか」

「アイドルだけど家にカメラがあるわけじゃないし」

 

 どうやら冗談めかして言ったらしく、「アイドル=家に監視カメラ」は少々極端だけれど、わざとそんな表現を使ってくれたのだと思う。そんな自然体の笑顔を見ていると、少しだけ気が楽になった。

 

 夜が深くなるにつれ、疲労感が一気に押し寄せる。ベッドに腰を下ろした瞬間、まるで体が鉛のように重く感じる。今日ばかりは、何も考えずに眠りたい。

 

 不意に、今日あったことが走馬灯のように頭をめぐった。葬儀、親戚、何人もの悲しげな顔。そして失ってしまった大切な人たち──もう帰ってこない家族。

 呼吸が苦しくなる。胸が軋む。脳裏に過るのは、やかましくてうっとうしかったはずの家族の思い出。けれど思い出すたびに顔さえ見れないように閉じられた白い棺が思い出のすべてを塗り潰す。

 

 でも、それ以上思い詰めてしまう前に、ドアの方から利奈の声がした。

 

「大輝。……おやすみ。私ももう少し片付けたら寝るから」

 

 その声は、俺を現実に引き戻す。家族を失った絶望の淵で、今の俺を救ってくれているのは利奈だ。

 

「……おやすみ。ありがとう」

 

 小さくそう呟いて、俺は瞼を閉じた。心の奥底に渦巻く喪失感はまだ消えない。だけど、ひとまず今夜だけは、誰かが側にいる安心感をかみしめたかった。


 ──こうして倉橋利奈との同居生活が始まった。


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