決められない、決めたくない
不動産屋のドアを出た瞬間、俺──滝口大輝はまるで身体から何かを抜かれたように感じた。叔母に同伴してもらい、専門家の話をしっかり聞いたはずなのに、結局“家をどうするか”の結論を出せなかったのだ。
「この後から仕事の打ち合わせがあるから先に行くわ」
「え? ああ、うん。今日はごめん、叔母さん」
「気にしないで。自分なりにゆっくり考えなさい」
カツカツとヒールの音がだんだんと遠ざかっていく。叔母の背中を俺はただぼんやりと見送った。
「売るか維持か、あるいは別の方法か……」
不動産屋のアドバイスは至極まっとうだった。不要なら売るのが一番シンプルだし、思い出を手元に残すなら相続登記だけして使い道を先延ばしにしてもいい。ただし、どちらにせよ維持費は発生するし、建物はいつか老朽化する。何より、誰も住まない家を抱えるということは、負担以外の何ものでもないと。
こう言ってしまうと元も子もないかもしれないが「デスヨネー」という感想しか出てこなかった。
叔母は「ゆっくり考えていいのよ」と言ってくれた。それは言葉通り“急かさない”という意味かもしれない。とはいえ、叔母も社会人。そう長く時間を割けるわけではないだろう。
それを思うと、結論を出せない自分が情けなくて仕方ない。さんざん前に進むために決める、なんて決意を固めておきながらいざ現実が目の前に迫ってしまえばこのざまだ。
夕方、アパートに戻るとリビングの照明が暖かく迎えてくれた。
キッチンのほうから、小さな物音が聞こえる。倉橋利奈が、先に帰宅して何か準備しているのだろうか。
「ただいま……」
声に力が入らない。玄関先で靴を脱ぎながら背を丸めていると、彼女の足音が近づいてきた。
「大輝、おかえり。話は……どうだった?」
その問いに、俺は苦笑いしかできなかった。気まずさを隠せず、唇をかみしめる。
「結局、決められなかった。売るにも思い出がありすぎるし、持ち続けるには負担が大きいし……」
言葉を切りながら、自分への苛立ちがこみ上げる。家族がいない以上、現実的に考えれば売却したほうがいいと分かっているのに、その一歩を踏み出せない。自分の優柔不断さが嫌になる。
「……そっか」
利奈はそれ以上責めるでもなく、そっとため息をついただけだった。彼女が悲しそうな目で俺を見ているように感じ、ますます自虐的な気分に陥る。
「決めるつもりだったんだ。今日、ケリをつけるつもりだった。だけど不動産屋の話を聞いてるうちに決められなくなった。みんなに助けてもらってるのに、肝心なときに決断できない。これじゃ叔母さんの時間も無駄にしてるし、遺産を目減りさせてるだけだ」
悩めば悩むほど人の時間を奪い、せっかく両親が遺してくれたお金をドブに捨て続ける。
「ほんと、悪いな。利奈にも迷惑かけてばかりだ……」
言葉にしながら、自分を責める気持ちがどんどん膨れあがる。
すると、利奈が小さく首を振って、一歩近づいてきた。
「迷惑だったらうちに呼ばないし。それに出てけって言ってる」
「いつでも言ってくれていいぞ」
「まだ言う予定はないかな。ほら、大輝は家事やってくれるし。無料の家政婦げっと。なんちゃって」
ぺろりと利奈は舌を出しておどけてみせた。卵とはいえさすがはアイドル。あざといポーズが堂に入っている。
そんなふうにおどけていた表情を利奈はすっとひっこめた。
「悩むのは当たり前だよ。大輝が悪いわけじゃない」
彼女の声は優しくもどこか切実で、胸を締めつけられる。俺は唇を引き結んだまま、彼女の目をまともに見られない。
「……ねえ、大輝。明日の予定、空いてる?」
不意に話題を切り替えるように、利奈が問いかけてきた。
明日の予定? アイドルの彼女こそ忙しいはずだけど、何か特別な仕事が入ったのだろうか。
「え……? まあ、学校が昼まであるけど、午後は特にないかな」
そう答えると、利奈はほっとしたように微笑んでみせる。
「だったら、午後からデートしようよ」
その言葉に、一瞬頭が真っ白になった。今のこの状況でデート? さっきまで落ち込んでいた俺の思考は一気に混乱する。
「デ、デート……? いや、でも……俺、こんな状態だし」
否定の言葉を並べようとする俺に、利奈は無理やり割り込んだ。
「いいの。こういうときこそ気分転換。ずっと家や自分のことで悩みっぱなしだと、さらに堂々巡りになっちゃうじゃない? ……私も、ちょっと休みたいんだ」
思わぬ彼女の本音に、言葉を失う。よく考えれば、利奈も毎日のようにレッスン、仕事、SNS対応と息つく暇がない生活をしている。そんな中で俺の家の相談に乗ってくれているのだから、疲れてしまうのも当然だ。
「……いいのか? その、アイドルがデートなんて。まずいんじゃないか?」
かすかな罪悪感を抱きながら尋ねると、利奈は恥ずかしそうにうつむきつつも、ちょっと強気な笑顔を浮かべた。
「そこはうまくごまかすよ。……変装して映画とか、ちょっと買い物するくらいならなんとかなるでしょ? 少し遠出するのもいいし」
あまりにも唐突だが、俺の中で“気分転換をしないとダメかもしれない”という思いが小さくうずいてくる。自分を責め続けるだけじゃ、何も変わらない。それは俺自身が一番分かっていた。
「……わかった。じゃあ、明日の午後、デートしようか」
少し戸惑いつつも、その提案を受け入れると、利奈はパッと明るい表情になった。
「決まり! どこ行こうかな。大輝が行きたいところも聞かせてよ。美味しいもの食べたり、映画観たり……」
彼女は楽しそうにプランを練っている。俺も重苦しかった気分が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。デートをしても家の問題が即解決するわけではない。でも、頭を休めることで、次の一歩を踏み出せるかもしれない。
俺たちは自然とリビングのソファに腰を下ろし、スマホで行き先を検索し始めた。普段なら賑やかな街中に行くのは避けたいが、変装できるなら色々と選択肢は広がる。明日は日曜だし、もしかしたら混雑するかもしれないけれど、そこはもう勢いで乗り切ろう。
「なあ、利奈。…ありがとうな」
ふと、そんな言葉が口からこぼれた。
彼女が怪訝そうに首を傾げるけれど、深い意味を求めず笑みを返してくれる。そんなささやかなやり取りが、今の俺には何よりも救いだった。
「(とりあえず今は家のことは忘れようか)」
利奈がどうしてデートに誘ってきたのか。気づかないほどニブくない。いきなり家族を失った。そしてその思い出の象徴である家をどうするのか、選択を迫られている。そんな俺を気遣い、気分転換にと誘ってくれたのだろう。
それなのにいつまでも家のことをうじうじ考えていたら、利奈に悪い。




