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前夜のざわめき

 雨雲の切れ間から、わずかに夕陽がこぼれていた。

 あれほど降り続いていた雨は、午後を過ぎたあたりから小ぶりになり、今はほとんど止んでいる。

 

 明後日の不動産屋との面談を前に、俺──滝口大輝の心はどこか落ち着かなかった。まるで空模様と連動しているみたいに、一瞬晴れそうになっても、また曇りそうな気配が胸の奥にくすぶっている。

 

「……今日は早めに帰れるって言ってたよな、利奈」

 

 つぶやきながら、アパートのリビングで一人キッチンに立つ。利奈はレッスンを終えたあと、マネージャーに呼び出されて打ち合わせがあるらしく、少しだけ遅くなると言っていたが、いまの時刻ならそろそろ帰ってきてもいいころだ。

 

 気を紛らわすように冷蔵庫を開けて、夕飯の下ごしらえを始める。やることがあるときはいい。だが手が空くたびに、「あの家をどうすべきか」という考えが頭を締めつけてくる。

 

「まずは話だけ……それだけって分かってるのにな」

 

 口の中で繰り返してみても、心の奥のざわつきは消えやしない。家族の思い出が詰まった家を、手放すかもしれない。もちろん不動産屋の話次第だ。あくまでも手放す場合はどうなるか、という話を聞くだけ。だから今はまだ分からない――。わからないのだが、その曖昧さが逆に不安を煽ってくる。

 

 包丁を使って野菜を刻んでいると、不意に玄関のドアが開く音がした。思わず顔を上げると、倉橋利奈がやや疲れた様子で立っていた。

 

「ただいま……あ、野菜切ってるの? 何作るの?」

 

 弾むような声とは言えないが、彼女の存在が部屋をやわらかい空気に変えてくれる。俺は少し照れくさくなりながら、「シチューでもしようと思って」と答える。

 元々、料理なんてあまりするタチじゃなかった。せいぜい母さんの手伝いをする程度だ。だが、利奈の家に仮住まいさせてもらっている以上、「やったことないから」という言い訳をして家事をしないわけにもいかない。

 

「シチューなんて作れるの?」

「作ったことはない。でも料理なんてレシピ通りに作ればだいたいうまくいくもんだ」

「へぇ……」

「なんだよ?」

「いや、意外だなぁ、って。結構、家庭的なんだ」

「慣れてないから時間かかるけどな」

「じゃ、手伝うよ」

 

 そう言ってエプロンを取りに行こうとする利奈を、「大丈夫、こっちでやるから。さっきまで仕事だったんだろ?」と制する。彼女は素直に首を横に振り、

 

「私も動いてるほうが気が紛れるし、ね。台本チェックも終わったから」

 

 そう言いながらエプロンを着け、慣れた手つきで鍋を用意し始めた。華やかなステージに立つアイドルではあるけれど、この部屋にいるときの利奈は本当に自然体だ。

 

「……そういえば、明後日だよね。不動産屋さん」

 

 彼女が野菜くずを捨てながら、静かに口を開く。その声音は、まるで俺を気遣うように優しい。

 

「うん。叔母さんがセッティングしてくれた。どうなるか分からないけど……とにかく話は聞くつもり」

 

 自分で言いながら、内心は不安に揺れる。手放すと決まったわけじゃないし、相続登記だけして使わない手もあるかもしれない。なのに決断を迫られているようなプレッシャーから逃げられない。

 

「大輝」

 

 珍しく利奈が俺の名前をはっきり呼んだ。目を見ると、真剣な光が宿っている。

 

「おばさんや不動産屋さんの話に流されないでね。もしどうしても納得いかなかったら、その場で保留にしてもいいんだから。大輝が苦しいまま、無理してサインさせられるようなことになったら嫌だから」

 

「……ありがとう、分かってる。だけど、あれ以上叔母さんや親戚に迷惑かけるのも悪いしさ。それに放っといたら家ってすぐに痛むらしいんだ」

「あー、なんか聞いたことあるかも」

「あの家が痛んでボロボロになっちまうほうが、なんかイヤなんだ」

 

 思わず肩に力が入る。家族がいなくなって以来、あの家にはほとんど戻っていない。このまま戻らなければ、ゆっくりとあの家は悪くなって痛んでいく。

 あの家をどうするのか。決められずにだらだらと後伸ばしにしているうちに痛んでボロボロになってしまう。そんな姿を見る方がよっぽど辛い。

 

 そのとき利奈は、軽く頬を膨らませるようにして言った。

 

「それは分かるけど、自立って“全部一人で決めろ”って意味じゃないよ」

 

 鍋に水を入れる手が止まり、彼女は一瞬視線を落としたあと、言葉を続ける。

 

「私にとって大切な人が苦しんでるなら、力になりたい。大輝が“ありがとう、助かるよ”って言ってくれるのが、私にとっても支えなんだから」

 

 胸がじんと熱くなる。変に意地を張って「一人でやる」なんて突っぱねても、もはや俺にそんな強さはない。そして利奈は、そんな俺をしっかりと受け止めようとしてくれる。

 

「……ありがとな。利奈がそう言ってくれるなら、俺も素直に頼るよ。うまくいくか分からないけど、分からないからこそ……何かあれば相談させてもらうかな」

 

 そう答えると、利奈は「うん」と安心したように笑う。その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 シチューが煮える間、俺たちはテーブルを拭いたり、サラダを作ったりして過ごす。部屋の中は立ちこめるホワイトソースの香りと、何とも言えない温かい雰囲気に包まれていた。

 

「いい匂い……。あ、そうだ、パンも買ってきたよ。これ食べてみたくて」

 

 そう言って利奈が取り出したのは、近くのベーカリーで評判のフランスパンだった。パリッとした皮がシチューに合いそうで、自然に笑みがこぼれる。

 

「それ、SNSで見たやつか? 確か人気だって言ってたよな」

「そうそう。マネージャーに余計なものばっかり食べるなって言われるけど、今日は特別」

 

 アイドルとして体型管理は大変だろうに、彼女は悪びれもせず笑う。その少しの開放感が、俺の不安を隅のほうへ追いやってくれる。

 

「よし、じゃあシチュー盛ろうか」

 

 とろとろに煮えたシチューをおたまでよそい、テーブルに並べる。真っ白いホワイトソースにゴロゴロした野菜と鶏肉。ふんわり立ち上る湯気が部屋をさらに満たすと、心までぽかぽかするようだ。

 

「いただきます」

 

 スプーンを口に運んだ瞬間、思わず笑みがこぼれる。初めて作ったが、我ながら悪くない味だ。利奈もうんうんと頷き、「すごく美味しい」と声を上げた。悪くない気分だった。おいしい、という一言だけなのに言われるとこんなに嬉しくなるものなのか。

 ──明後日の面談を前に、暗い気持ちになるのは自分でも分かっている。けれど、今夜はそのことをほんの少し忘れて、この暖かな夕飯を味わおう。

 

 湯気の向こうで笑う利奈の姿を見ながら、俺は決意を新たにする。

 家との決着をつけることは、きっと避けては通れない道。だけど、一人じゃない。誰かに頼ってもいいのだという事実が、今の俺を支えている。

 

 ──雨上がりのように、少しだけ心が晴れた。第一章が終わるこのタイミングで、どんな選択をするのかはまだ分からない。でも、どんな選択をしても、“この手”を離さなくていい。

 

 それだけが、今日のシチューよりもあたたかい救いだった。


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