空っぽになった帰り道
雨の匂いがした。
線香の煙と混じった、湿った空気が鼻を刺激する。
気づけば家族の葬儀は終わっていた。
学校の制服を着たまま、俺は人気のない斎場の片隅でぼんやりと立ちすくんでいた。斎場のスタッフ、そして遠縁の親戚に促されてようやく帰路についた。
「大輝くん。うちで今日は泊っていきなさい」
きっと叔母が発したその言葉は思いやりからのものだったと思う。両親を同時に失った俺に対する同情も含まれていたのだろう。
ただ、俺にはその厚意を素直に受け取るような余裕はなかった。
「すみません。でも俺、家に帰らないと」
「……そう。困ったことがあったらいつでも連絡してきていいからね」
手渡された名刺には叔母さんの名前と携帯電話の番号が書いてあった。ありがとうございます、と反射的に口は動いていた。タクシー代ね、と一緒に渡された一万円札をいつもなら遠慮するのに、そのまま受け取ってしまう。
タクシーは使わなかった。電車を乗り継ぎ、駅から歩いて家へ向かう。ポケットの中からカギを出して開けた。ドアノブを握る。
そこで手が止まった。
ただいま、と家に声を響かせながら靴を脱ぎ散らかす。揃えろ、と母さんによく叱られていた。小さな妹は階段を駆け降りてきてただいま、と元気に迎えてくれた。夕飯の時間になる前には父さんが帰宅してきて、家族で食卓を囲む。
器である家はこのドアノブの向こう側に何一つ変わることなく広がっている。変わってしまったことは、今はもうそこには誰もいないことだ。父も母も、そして小さな妹も、俺の前から消えてしまった。
ふと、風が吹き抜ける。そのとき、不意に背中を叩かれた。
「……大丈夫、じゃないよね」
その声に振り向くと、そこには幼馴染の──倉橋利奈──小さな頃からの友人であり、幼馴染の彼女がいた。長い髪はポニーテールにまとめられて、黒のブラウスとパンツ姿。普段の煌びやかなステージ衣装を見慣れているせいで、逆に新鮮に映る。
「よう。今日はステージはいいのか?」
「今日は仕事じゃないの。それにいつもあんな衣装で歩いてるわけないでしょ。アイドルだってステージを降りれば一般人よ」
「そりゃそうか」
「前にも言ったでしょ。大輝、忘れっぽいのは変わらないのね?」
年がら年中、あんなフリフリでスカートの短い衣装を着ているわけがない。そういえばそんなことを前にも言われたような気がする。
辛辣で高飛車な物言いだが、今は気遣いなく発されるその言葉がありがたい。
「何してるの? 帰らないの?」
彼女の問いに、言葉が出ない。今の俺には、帰る家がない。正確には家と呼べる場所はある。このドアの向こうに。でも、もう誰もいない。
彼女は少し眉をひそめて、俺の様子をうかがう。こんなとき、どんな言葉をかけたらいいのか、きっと彼女もわからないんだろう。
「……この中、入っても誰もいないんだよな」
なんとか搾り出した声は震えていた。これまで必死に耐えてきたはずなのに、葬儀が終わってしまったら、張り詰めていた糸が切れたみたいだ。
「ああ……。いない、んだよな……」
ポツリと呟くと、利奈は少しだけ目を潤ませて、ぎゅっと俺の手を握ってくれた。
「だったら、今日は私の家に来ない? ……いや、今日だけじゃなくて、しばらくでも」
「でも、おまえ……確か一人暮らしだろ。お母さんたちと揉めて、家を出たって聞いたぞ」
利奈は実家を飛び出して、今は一人暮らしをしている。アイドル活動が忙しいのと、両親が芸能の仕事に猛反対しているのとで、折り合いがつかなかったらしい。
だからといって、そんな彼女の部屋に俺が転がり込むなんてできない。迷惑をかけたくない、そう思うのに、頭の中で理性が叫んでも、心は否定しきれなかった。
「そりゃ家は狭いし、私もいろいろ大変だけど……大輝が家族を失ったばかりで、こんな形で一人にしとくわけにはいかないよ。遠慮しなくていいからさ」
きっぱりと言い切る彼女の強さに、俺はどう返事をしていいのか分からないまま、言葉に詰まる。
嫌なわけじゃない。むしろこうして心配してくれることが有難い。だけど本当にそんな都合のいい話、いいのか……?
「とりあえずおいでよ。ここにずっといたって、どうしようもないでしょう?」
彼女は俺の腕を引き、少し強引に、けれど優しく背を押す。
気づけば、外はもう薄暗い。夜になる前にどうにか駅へ向かわなきゃいけないし、とにかく今は彼女の提案に甘えるしかない……そう判断するまで、それほど時間はかからなかった。
「……わかった、頼る。今は何にも考えられないけど、ちょっとだけ……お前の力を貸してくれ」
精一杯の答えを返すと、彼女はほっとしたような笑みを浮かべた。
「そういうの今はいいから。早く行こ」
小さく息をついて、俺は利奈の隣を歩き出す。気まずさと、ほんの少しの安堵が入り混じった不思議な気持ちが胸を圧迫する。
「ありがとな……」
それだけ言うと、彼女は何も言わずに、ギュッと俺の腕を引いた。通りかかったタクシーを拾って、二人で車内へ乗り込む。
空は灰色のまま、いつ雨が降りだしてもおかしくない。けれど俺の中には、彼女に支えられたわずかな温かさが生まれていた。
これが、俺の“新しい日常”の始まりになるとは、あのときの俺には想像もつかなかった。