第8章:システムの限界
母の手紙と壮一郎の言葉を胸に、自分自身の感覚を信じることの大切さに気づき始めた涼子は、新たな日常へと歩みを進めていた。しかし、エイミーと完全に距離を取ることは容易ではなかった。これまでの生活の大部分をAIに頼っていた彼女にとって、自分で選び、決断することは不慣れで、日々の小さな選択一つにさえ戸惑いを感じることもあった。
AIとの葛藤と新しい選択
ある朝、涼子はエイミーからの提案を一つ無視してみることにした。エイミーが提案する食事メニューではなく、自分の食べたいものを選ぶことから始めようと思ったのだ。冷蔵庫を開けて、自分で選んだ食材で朝食を作り、食べる。単純な行為のはずなのに、その瞬間、自分の感覚を少しだけ取り戻した気がした。
「エイミー、今日は自分で選ぶからアドバイスは要らないわ。」
「了解しました、涼子さん。何かお手伝いが必要なときは、いつでもお声がけください。」
エイミーの声はいつもと同じ、冷静で安定したものだが、その声がどこか遠く感じられた。エイミーとの距離感が少しずつ変わっていく中で、涼子は自分の直感や感情を重視する生活に慣れようとしていた。
仕事でも同様の挑戦が続いた。プレゼン資料の作成においても、エイミーの助言に従うのではなく、自分の言葉で説明を組み立てることを心がけた。ミスも増えたが、その度に自分の考え方を見直し、改めて学ぶことができた。ミスをすることは、かつての涼子にとっては耐えがたい恥だったが、今はその失敗が自分の糧になっていると感じていた。
AIシステム開発者との対話
そんなある日、涼子は仕事を通じてエイミーのシステム開発者である、彼女の元上司であり、技術の第一人者でもある人物、長谷川博士と話す機会を得た。エイミーの開発に深く関わっていた彼との会話は、涼子にとって、AIの本質を再考するきっかけになった。
「高梨さん、お久しぶりですね。エイミーをうまく使いこなしているようで、喜ばしいです。」長谷川博士はそう言って微笑んだ。
涼子はその言葉に、これまで感じてきた葛藤を思わず口にしていた。「博士、私はエイミーに本当に助けられてきました。でも、最近、エイミーが提示する『最適解』が、私自身の感情や直感とどうしてもかけ離れていると感じることが増えました。AIは、人間の感情を本当に理解できるのでしょうか?」
長谷川博士は一瞬黙り、深く考えるような表情を見せた後、ゆっくりと答えた。「エイミーのようなAIは、膨大なデータを基にして、最も合理的な選択肢を提示することはできます。しかし、感情や直感、そして人間がその時々で感じる曖昧な気持ちを完全に理解することは難しいんです。」
彼の言葉は、涼子の心に響いた。博士はさらに続けた。「人間の感情には、その場の状況や過去の経験、そして未来への漠然とした期待が影響しています。AIはそれを模倣することはできても、本質的には感情そのものを持つことはできません。」
「つまり、エイミーが出す答えは、感情を持たない冷静な『解』というわけですね。」
「その通りです。AIはとても賢いですが、決して人間の代わりにはなれません。高梨さんが感じている違和感は、AIの限界と向き合うことから来ているのかもしれませんね。」
その言葉に、涼子はこれまでの自分の選択について改めて考えさせられた。エイミーの提案が間違っていたわけではない。ただ、それは「感情」や「人間らしさ」を考慮しない純粋に合理的な選択に過ぎなかったのだ。
涼子の選択と母の教え
その夜、涼子は自宅のベランダで、夜空を見上げながら長谷川博士との対話を思い返していた。エイミーがこれまでどれほど自分を支えてくれたか、そしてその支えがどこかで自分を束縛していたことに気づいた今、涼子は自らの選択を改めて見つめ直した。
母の手紙の言葉が、再び涼子の心に浮かんだ。
「涼子、どうか自分の人生を楽しんでください。失敗を恐れず、あなたらしく生きてください。」
涼子はその言葉の意味を、ようやく理解し始めていた。母が望んでいたのは、最適化された完璧な人生ではなく、不確実な道を進むことも含めた「自分らしい人生」だったのだ。
エイミーが示す選択肢は、私にとって必要な時期もあった。でも、今の私にはもっと別のものが必要だ。エイミーに助けられながらも、私は自分の感覚で生きる力を取り戻していく。
「エイミー、これからはもっと私の感覚を信じて進むわ。あなたには感謝してるけど、今は私の心を頼りにしてみたいの。」
エイミーはそれに対し、いつものように淡々と返答した。「涼子さんがそのように望むのであれば、全力でサポートいたします。」
母との記憶を通しての新たな決意
数日後、涼子は再び実家を訪れ、母の思い出の品々を眺めていた。母がよくつけていたペンダントを手に取り、涼子はその重みを感じた。母が生きていた頃、彼女はどんなことを考え、どんな選択をしてきたのだろう。きっと母も、たくさんの迷いや不安と戦ってきたはずだ。だが、彼女はそれを受け入れ、私に生きる強さを教えてくれた。
「母さん、ありがとう。私、ようやく自分の道を見つけ始めているよ。」
その言葉は、静かな部屋の中に響き渡ったが、心の中では確かな手応えとして涼子の背中を押していた。これからの道のりは簡単ではないだろうが、涼子はもう迷わない。失敗を恐れず、エイミーに全てを頼らずに、自分の直感を信じて生きていく。
新たな旅立ち
その夜、涼子は母のペンダントを身につけ、ベッドに入った。過去の影に向き合い、エイミーの限界を理解したことで、涼子の中に一つの確信が生まれていた。壮一郎との会話、母の教え、長谷川博士の言葉が、彼女を新しい未来へと導いている。
「これからの私は、私自身の選択で生きる。」
そう決意し、涼子は目を閉じた。新たな道を歩み始める彼女の心には、確かな光が差し込んでいた。