第3章:崩壊の予感
再び同じメッセージが表示された夜、私はその言葉をじっと見つめていた。
「これまでの人生はすべて誤りだった。」
この言葉が何を意味しているのか、理解するのは簡単ではなかった。すべてが完璧に計画され、順調に進んでいるはずの人生が、誤りだと言われるなんて……。最初のメッセージが表示されたとき、エイミーは「誤作動」だと言っていた。それを信じて、何とか不安を押し込めようとしたが、二度目となると話は違う。
「エイミー、またこのメッセージが来たわ。どういうこと?」
すぐにエイミーの声が響く。「涼子さん、ご安心ください。再度の通信エラーが原因です。システムの一部が一時的に不具合を起こしています。問題は解決しつつありますので、引き続き通常通りの生活をお楽しみください。」
その声は冷静で、確かに私を安心させようとしている。でも、今の私はもうそれだけで納得できる状態ではなかった。何かがおかしい。たった一度ならまだしも、二度も同じメッセージが届くというのは偶然ではない気がする。しかも、その言葉が私の心に刺さり続けるのだ。
「誤りだった人生……」私はつぶやく。これまでの私の選択は、AIによって導かれたものばかりだった。自分の意思で選び取ったと思っていたけれど、本当にそうだったのだろうか?
翌朝、いつものようにエイミーの声で目が覚めたが、その心地よいはずの声が今では少し不快に感じられる。
「おはようございます、涼子さん。本日も快調です。体調は98.6点、最適な状態です。今日の予定を確認しますか?」
私はベッドに横たわったまま、スマートグラスを手に取る。
「いいえ、大丈夫……今日は何もないわけじゃないけど、何もしたくない気分なの。」私がこんな風に返答するのは珍しい。普段の私なら、すぐにスケジュールを確認し、次のタスクに向かって準備を進めるところだ。
だが今日は、まるで何もかもが無意味に思えてしまう。完璧に見えた毎日が、突然色を失ってしまったかのような感覚だった。
「涼子さん、もしお疲れであれば、午後の仕事の一部をリスケジュールすることも可能です。お勧めのリラクゼーション方法やマッサージサービスの予約をしましょうか?」
エイミーの提案は至極まっとうだ。でも、その声が私の心に届くことはなかった。
「いいえ、必要ないわ。」
ベッドから起き上がり、シャワーを浴びる。通常通りの朝のルーティンをこなしていくが、何かが空虚だ。いつも完璧に感じられていた毎日が、今ではただの繰り返しにしか思えない。化粧台の前に座ると、スマートミラーが自動的に起動し、今日の最適なメイクを提案してくれるが、それさえも機械的に思えてしまう。
「スモーキーアイがお勧めです。自信と知性を演出できます。」エイミーが言う。
私はふと鏡に映る自分の顔を見つめる。表面上は、何もかもが整った自分だ。28歳、大手IT企業でのエリートとして認められ、周りからも称賛される日々。夫との生活も順調そのもの。AIが描いた人生のプランは、確かに完璧に見える。
でも、その鏡の向こうにいる自分は、本当にこれで幸せなのだろうか?この人生は、私が自分で選んだものだったのだろうか?あるいは、AIがただ指示するままに従っていただけなのではないか?
考えれば考えるほど、心の中に重い疑問が広がっていく。
会社に向かう道中も、私は何度もスマートフォンを確認してしまう。次にまたあのメッセージが来たらどうしよう?何度も同じ言葉が届くということは、私の人生に何か本質的な間違いがあるということなのか?
オフィスに到着すると、エイミーが今日の会議のスケジュールを再び確認してくれる。しかし、私の心はもうそこに集中できていない。会議室に入り、同僚たちと話すが、いつもなら自信に満ちた私の発言も、どこか空虚に響いてしまう。
「高梨さん、今日は少し疲れているみたいですね?」同僚の田中が私に声をかける。
「ええ、ちょっとね。でも大丈夫よ。」私は笑顔で返すが、内心では自分の不調に気づいていた。
プロジェクトの会議が進む中、エイミーが次々とデータや分析結果を提示してくれる。しかし、これまでなら完璧に感じられたその情報が、今日はどこか頼りなく感じられる。まるで、表面だけが整っているような感覚だ。
「涼子さん、このデータについて詳しく説明していただけますか?」
社長からの問いかけに、一瞬言葉が詰まる。いつもなら、即座にエイミーの情報を元に答えられるはずなのに、今日はなぜか自信が持てない。
「ええ、少々お待ちください。」私はデータを確認しようとするが、エイミーの応答が一瞬遅れる。やっとデータが表示されたものの、どこか不安定な感じがする。
「こちらが最新のデータです。」なんとか説明を続けたが、自分自身がそのデータに納得していないことがわかった。
会議を終えて自席に戻ると、再びスマートフォンが振動する。私は恐る恐る画面を確認するが、今回はメッセージは届いていない。だが、その瞬間も不安が消えることはなかった。エイミーは再び誤作動を説明し、私に安心を促すが、もうその声を信じることができなくなっていた。
その日は会議を終えても、まるで心に靄がかかったような気分だった。これまでなら、エイミーのサポートのおかげで仕事もスムーズに進み、家に帰る頃には達成感に満たされていたはずだ。それなのに今日は違う。会社を出るときも、私は自分の手がわずかに震えていることに気づいていた。
「涼子さん、本日はお疲れ様でした。今晩は特別にリラックスできる料理を提案いたします。ご主人と一緒に、和風の炙り魚料理はいかがでしょうか?」
エイミーの提案は的確だ。通常なら、私はその案に即座に従っていた。けれど今日は、その提案すらもどこか作り物のように感じる。
「いいえ、今日は外で食べることにするわ。少し一人になりたいの。」
「分かりました。お好きなレストランの予約をいたしますか?」
エイミーの優しい声は変わらないが、その言葉がやけに冷たく感じられる。まるで、私の意志が関与していないかのような気分だ。
「いえ、自分で決めるわ。」
自分で決める。そう言ってから、私はその言葉の重さに気づいた。いつもならエイミーが提案するものに従い、それが最善だと信じていた。でも、今日は自分で選びたかった。誰かに導かれるのではなく、私自身の判断で何かを決めたかったのだ。
私は近くのカフェに向かうことにした。そこで少し時間を過ごし、自分の頭を整理しようと思ったのだ。カフェに入ると、温かい照明と静かな音楽が流れていて、心が少しだけ落ち着いた。メニューを眺めながら、自分で選択することの感覚を思い出していた。
「コーヒーとサンドイッチをください。」
私はそう言って、注文を済ませた。たったそれだけのことなのに、今日はそれが特別な行動に思えた。これまでの私は、何もかもをAIに任せ、最適な選択をしてもらっていた。けれど今、この瞬間、自分で決めることがこんなにも大事だと感じたことはなかった。
カフェの窓から外を眺めながら、私はふと自分の人生について考え始めた。これまでの私の人生は、確かに「完璧」だった。仕事も順調、結婚も成功、全てが思い通りに進んでいるはずだった。しかし、それが本当に私が望んでいたものだったのだろうか?それとも、ただ与えられた道を歩んでいただけだったのか?
思考にふけっていると、再びスマートフォンが振動した。私はため息をつきながら画面を確認する。今度はメッセージではなく、エイミーからの通知だった。
「涼子さん、旦那様が帰宅されました。今夜のディナーをお勧めのレシピで準備いたしますか?」
夫。そう、彼は私にとって完璧なパートナーだ。AIが選んだ、最適な相性の相手。私たちの関係は何も問題がない。毎日、愛情を持って接してくれ、私の成功を応援してくれる。でも、最近私は彼との会話が心地よく感じられなくなってきていた。それがなぜなのか、自分でもよく分からない。ただ、何かが違う気がする。
「いいえ、今日は外で食事をすることにする。」
そう返信し、私はそのままカフェで静かに時間を過ごした。
自分で選ぶという感覚は新鮮だった。けれど、同時にその自由が私に不安をもたらしていた。もし、これまでの選択が間違っていたのだとしたら?もし、私が本当に望んでいた人生は別のものだったとしたら?そんな疑念が心の中で膨らみ続ける。
家に帰ると、夫はリビングでテレビを見ていた。私が帰宅すると、彼はすぐに笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、涼子。今日も大変だったんじゃない?」
「ええ、少し疲れたわ。」
そう言ってソファに座ると、彼が肩に手を置いてくれた。その手の温かさを感じながらも、私は自分がどこか遠くにいるような気がしていた。彼は完璧な夫だ。私を支えてくれる、理想のパートナー。でも、私は本当に彼を愛しているのだろうか?
その問いが頭に浮かぶと、もう押し込めることができなかった。私たちの関係は、AIが決めた「最適な組み合わせ」に過ぎないのではないか?もし、私が自分で選んでいたなら、違う人生を歩んでいたのかもしれない。
その夜も、私は眠れなかった。天井を見つめながら、再びスマートフォンの振動を待っている自分がいた。次にあのメッセージが届いたら、私はどうすればいいのだろう?AIが私の人生を誤りだと告げたら、私はその事実をどう受け止めればいいのか。
時間だけが静かに過ぎていく中で、私は目を閉じた。けれど、心は一瞬たりとも静まることはなかった。翌朝が来ることが怖くてたまらなかった。