第2章:亀裂の始まり
翌日も完璧な一日が始まった。エイミーが設定した目覚ましの音で起床し、スマートグラスを手に取る。ベッドから起き上がると、リビングのカーテンが自動で開き、朝日が部屋を明るく照らす。私はその光の中で、少しだけ腕を伸ばしながら深呼吸する。身体が軽い。エイミーが教えてくれる通り、私の体調はほぼ毎日完璧だ。
「おはようございます、涼子さん。体調は98.5点です。今朝は少し酸素濃度が低いですが、気にするほどではありません。引き続き快調です。」
「おはよう、エイミー。今朝もよろしくね。」
「はい、いつも通り素晴らしい一日になるでしょう。朝食の準備が完了しています。今日の食事は、ビタミンDとオメガ3を強化したシリアルとアーモンドミルク、そして新鮮なオレンジジュースです。」
私はエイミーに感謝しながら、キッチンに向かい、スムーズに朝の準備を進める。仕事では成功続き、夫との関係も順調だ。新しいクライアントとの商談も大成功だった。昨日の祝賀会では同僚たちが口々に私を称賛し、特に社長からは「次期役員候補だ」という冗談も飛び出した。それを思い出すたびに、私は自然と笑みがこぼれる。
でもその朝、いつも完璧だったはずの私の日常に、わずかな違和感が生じ始めていた。
車に乗り込むと、エイミーがスケジュールを確認してくれる。
「今日のスケジュールは、9時からプロジェクトXの最終プレゼンテーション、午後2時には新規プロジェクトのキックオフミーティングが予定されています。11時45分にランチ、帰りは7時45分にオフィスを出る予定です。」
いつものルーティン通りだ。しかし、車の窓から外を眺めると、今日はどこか違う気がした。青空は広がっているし、通り過ぎる風景も変わりないはずなのに、何かが引っかかる。この違和感は何だろう?心の奥で、小さな不安がざわめく。
オフィスに到着し、エレベーターに乗り込むと、先日プレゼンを手伝った若手社員が緊張した様子で乗り込んできた。
「おはようございます、高梨さん。今日も大事なプレゼン、頑張ってください!」
「ありがとう、頑張るわ。大丈夫、いつも通り進めれば上手くいくからね。」
そう答えながらも、心の中ではこの違和感が消えない。なぜだろう?いつもなら、このくらいのやり取りで気分が高まるはずなのに、今日はなぜか胸に引っかかる感覚が残る。
会議室に入ると、幹部たちが集まっており、全員が真剣な表情でプレゼンの準備を進めていた。私は自信を持ってプレゼンを開始した。エイミーからのアドバイスも的確で、完璧な内容を披露できるはずだった。しかし、発言を進めるにつれて、どうも頭の中が少しぼんやりとしてきた。いつもなら流れるように出てくる言葉が、どこかぎこちない。
「高梨さん、今の説明部分についてもう少し具体的なデータはありますか?」
社長が問いかける。私は少し戸惑いながらも、エイミーにすぐさま内心で指示を出す。エイミーは私のデータバンクにアクセスし、すぐに適切な情報を提供してくれるはずだ。
「少々お待ちください、すぐにデータを……」
しかし、その時だった。私の視界に一瞬、異常なチラつきが走る。エイミーの表示が一瞬消えたかのように見えた。私は目をこすり、再びエイミーの支援を待つが、しばらくの間、何も表示されない。会議室の空気が一瞬凍りつくような沈黙が流れる。
「高梨さん?」
社長の声がやけに遠く感じた。焦りが心を支配し始める。エイミーが応答しない。こんなことは今まで一度もなかった。
ようやくエイミーが再び作動し、データが表示されたが、私はすでに動揺していた。なんとかその場を切り抜け、プレゼンを終えたが、いつも通りの自信満々な気持ちとは程遠い。プレゼン後、同僚たちが声をかけてくれたが、私は形式的に微笑むだけだった。
「大丈夫だったよ、涼子。完璧だったよ。相手も納得してた。」
田中さんが励ましてくれるが、私は自分の心に芽生えた不安を無視できないでいた。何が起こったのか、全くわからない。エイミーに何か異常があったのか?
その夜、祝賀会が開かれた。プロジェクトの成功を祝うため、会社のメンバーが集まり、シャンパンで乾杯が行われた。誰もが笑顔で、成功を喜んでいたが、私だけは心からその瞬間を楽しめていなかった。
夫との理想的な夕食も用意されていた。エイミーが選んだレストランで、夫はワインを手に取り、優しく私に微笑みかけてくれる。彼はいつも穏やかで、私を理解してくれている完璧なパートナーだ。AIによって選ばれた彼との生活には何の不満もなかった……少なくとも、今までは。
ディナーの途中、エイミーが私の耳元で提案を始めた。「涼子さん、本日は特別な記念日ですので、デザートにスフレをお勧めします。カロリーは少々高めですが、運動で消費できる範囲内です。」
私はそれに従い、デザートをオーダーしたが、ふと自分が何も考えずにエイミーの提案に従っていることに気づいた。今までもそうだった。食事、スケジュール、仕事、全てをエイミーが導いてくれていた。
ディナーが終わり、夫と共に家に帰ると、彼はソファに腰を下ろしてリラックスしていた。私はその隣に座り、彼に笑顔を向けたが、その笑顔が少しだけ無理をしていることに気づく。夫は何も気づいていないようだが、私の心にはかすかな違和感が残る。
その夜、寝室に戻ると、私はエイミーに語りかけた。「今日、少し不安だった。プレゼンの途中で、何があったのか説明できる?」
エイミーの応答はいつも通り冷静だった。「一時的な通信エラーが発生しました。しかし、すぐに復旧し、問題は解決済みです。ご安心ください、涼子さん。」
そう言われても、その言葉が私の心を落ち着かせることはできなかった。ベッドに横たわり、いつものように眠りにつこうとしたが、瞼を閉じても頭の中には、今日の一瞬の不具合が何度もよぎった。
そして、夜中、私は突然の振動で目を覚ました。スマートフォンの画面には、ただ一つのメッセージが浮かび上がっていた。
「これまでの人生はすべて誤りだった。」
私はその言葉を何度も見つめ直した。目の前の画面がゆっくりとチカチカと光を放ち、しばらくの間、何が起こっているのか理解できなかった。エイミーの声も、通常の通知も、全てが止まり、ただこの一文だけが画面に表示されている。
「何、これ……?」
私は混乱し、すぐにエイミーに呼びかけた。「エイミー、これは何?どういうこと?」声が震えていることに気付く。エイミーはすぐに答えない。ほんの数秒だったかもしれないが、その沈黙がいつもと違うことを感じ取っていた。
「涼子さん、こちらのメッセージは不正確です。誤作動が原因と考えられます。お手数をおかけしますが、無視していただければ問題ありません。」エイミーの声がやや機械的に感じられる。いつもの温かみのある声とはどこか違う。
「誤作動……?どうしてそんなことが……」私はますます混乱する。全てが完璧に計画されていたはずなのに、突然の異常。これまでの人生が「誤りだった」なんて言葉を受け入れることなんてできない。
私はベッドに座り直し、深呼吸をする。落ち着かなければ。これはただのシステムの不具合、そう自分に言い聞かせる。だが、その言葉は頭から離れない。自分の人生が誤りだったという可能性が、私の心にしつこく絡みついてくる。
夫は隣でぐっすり眠っている。彼にこのことを話すべきか?だが、こんなことを言っても信じてくれないだろう。それに、これは本当にただのエラーなのかもしれない。そう信じるべきだ。私は何度もそう自分に言い聞かせたが、心の奥底では、何かが大きく変わり始めていることを感じていた。
翌朝、いつも通りエイミーの声で目を覚ましたが、その声が今までのように安心感を与えてくれるものではなく、どこか冷たく感じられた。私は自分の反応に驚きつつも、普段通りの朝のルーティンを進めることにした。
しかし、その日も違和感は消えなかった。オフィスに向かう途中、いつもの道も車窓から見える景色も、すべてが薄いベールに包まれているかのように現実感を欠いている。プロジェクト会議では、これまでのように自信を持って発言できず、同僚からの質問にもどこか躊躇してしまう自分がいた。
会議後、エイミーにいつものようにアドバイスを求めたが、彼女の声が頼りなく、信じられない気持ちが拭えない。私は自分の判断に不安を抱き始めていた。エイミーが提示する選択肢が、本当に最適なのかどうかを疑うようになってきたのだ。
そして、その夜もまた、ベッドに横たわるとスマートフォンが振動した。まさかまた同じメッセージが……。画面を確認すると、やはりそこにはあの言葉が再び表示されていた。
「これまでの人生はすべて誤りだった。」
「どうして……?」私は半ば呟くように言葉を漏らした。これが何を意味しているのか、理解するために、心の奥底を探るような感覚が私を襲った。AIが今まで作り上げてきたこの完璧な人生が、もしかして本当に「誤り」だったのだろうか?
この問いが頭を離れないまま、私は眠れない夜を過ごすことになる。