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上海の三木パウロ~共同租界にて~  作者: John B.Rabitan
第9章 長崎・祈り
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 さらに永田は話を続けた。


 「それから子供たちが疎開している木場こばに上がっちょった」


 「ゆかりしゃんの実家ですね?」


 八重子の問いに、永田は八重子を見た。


 「正確には、妻の母の実家だが。この隣の、前に住んじょったところがもともと妻の実家の森本家で、私は島根から来てそこに下宿しよったとばってん、妻と結婚してからはその家が永田家となったと。でも、 義母ははが子供たちをその生家の木場へ疎開して連れて行ってくれたお蔭で、子供たちは元気に今も木場におるが」


 「それはなによりたい」


 「ええ。それで木場で医大の救護班を組織して、大学病院からも応援の医師たちに来てもらって、そこで救援活動しちょったけど、私自身が原子病で倒れてもう少しで天に召されるとこやった」


 「え?」


 驚いたのは竜之助も八重子も同時だった。


 「マリア会の神父様にも来ていただいて終油の秘蹟もいただいた。それから昏睡状態になったけん、みんながもう私はいけん思うちょったごたる」


 相変わらず出雲弁と長崎弁が混ざった独特の言葉だ。だが話の内容は、そのようなことを意識させないような衝撃だった。永田は一度は亡くなりかけたというのである。


 「でもルルドの水ば飲んで。本河内ほんごうちにそのルルドの泉ば作らしたあとアウシェビッツで亡くなったコルベ神父様の取次ぎを願ったら奇跡が起きたんだ。間違いなくマリア様の奇跡だがね。こん罪深か私にも、マリア様のご慈愛は奇跡をくださった」


 兄妹は言葉を失くし、ただ眼を熱くして聞き入っていた。


 「ただ、どうしても浦上の地には帰りたくて、子供たちは木場に残したまま土田さんの家の跡にあのバラック小屋を建てさせてもらったと。でも、やはり元いた家の土地、ここの隣にちゃんとした家ば建てて子供たちも呼びたか。あの場所は、特別な場所じゃけん」


 「そん通りですたい」


 竜之助がうなずくと、八重子は首をかしげて兄を見た。


 「特別な場所?」


 「そうたい」


 兄が説明を始めた。


 「もともと森本家は代々このあたりの隠れキリシタンの総元締めのような立場じゃったと。その子孫があのゆかりさんなんじゃ。じゃけん、うちの隣は江戸時代には総元締めの 帳 ちょうかたのお屋敷があったところさね。 博 はかしぇがそこに戻りたか思うんも道理たい」


 隠れキリシタンの時代から受け継がれてきた信仰の地なのである。自分たちの先祖もやはり隠れキリシタンであったらしいことは八重子も知っており、そのような由緒ある場所の隣に住んでいたことが誇らしく思えてきた。


 「本当に原子爆弾は悲惨なもんだが」


 いつしか永田の目は、遠くを見つめているようだった。


 「被爆直後、まだ木場に上る前にこのあたりでも教護活動をしちょったけど、もうどこもかしこも死体の山で、それをかき分けて身内を探す人たちもようけいいらした。みんな『水ばくれ、水ばくれ』とせがんできよるけど、そげ水なんか一滴もなあで。水ばあげられんかったのが、どれだけ苦しかこつだったか。浦上川にも水を求めて川辺に折り重なって、そのままみんな死体になっちょう。それを焼き払ったときも苦しかった。焼けただれた手足に蛆虫がうじょうじょ湧いていても、それを払いのける力もないまま息絶えていく人たちの中で、誰からも助けられずすべてを失い、死んだ人をうらやむような苦しみを味わいながら、それでも生き延びた人々もおったと」


 兄妹はもう息をのんで、永田を凝視して黙って聞いていた。


 「ケロイドで目も鼻も焼けただれて足を引きずり、それでも一命をとりとめた人たち、生まれた時の顔とは似ても似つかない顔で生きていかにゃあいけん方々もおらす」


 「実はおいも……」


 竜之助はうつむいたまま言った。


 「ピカドンのすぐ後に家に帰る途中の茂里町のあたりで、このお向かいの山口さんちの清君が倒れとっておいに助けば求めてきたばってん清君は大けがをしとってな、助けて帰るにはおぶらんといけん。おぶったら走れんさね。火はどんどん燃えてきよるし家のことも気になるし、そんで清君にはわいのお母さんにすぐに知らせるけんここで待っといてくれと言ってそのまま残してきた。だが帰ってみるとおいの家も山口さんの家も焼けてうなっててそれどころではなかった。おいは清君ば見殺しにしたと」


 それを聞いてぴしっと永田は言った。


 「いや、誰も竜之助君を責められはしない、あの時はそうするしかなかっただろう。竜之助君を非難する人は誰もおらん」


 「ばってん、あれから清君の弟のやすし君は、おいの顔を見るたびに清兄ちゃんを思い出すって言いよる」


 「その靖君もあの光を見た時は自分が逃げるのが精一杯で、母親や兄、まだ赤ん坊の妹のことなど忘れて防空壕に隠れておった。まだ小学生じゃけん仕方なあことだし、やはり同じように誰も靖君のことを責める人はおらん。でも、靖君はあれからずっと心の傷を追って生きちょうと思う」


 竜之助は黙ってうなだれた。少し間を置いてから、さらに永田は話し始めた。


 「僕がすぐに家にも帰らずに病院で患者さんの救護に当たっていたというのはまるで美談のようだけんど、実は頭の中は妻や子供のことでいっぱいだったに。できれば一刻も早く妻の元に帰ってあげたかった。公に奉じ隣人のために尽くしていたというのは、外見がそう見えただけのことたい。つまりは医局員や看護婦たちの目を気にしてのことだったんだ。実際、建物の上の階のレントゲンフィルム室が爆発したら有毒ガスが発生することは分かっていたけん、ある程度患者を救出したらこれでもう職務は果たしたと、とにかく逃げる指示を看護婦たちにも出した。実は内科一号室にはまだけがをして動けない人が助けを求めよったばってん、置き去りだった。山へ逃げる途中も倒れて動けなくなった看護婦が負ぶってくれと縋り付いてきよったばってん、そぎゃんけがくらいで歩けなかこつなかと、毒ガスが来るけん立って走らんねと振りほどいた」


 竜之助も八重子も黙って聞いていた。永田の目は相変わらず遠くを見ていた。


 「だから生き残った人たちは結局は利己主義者だったんだ、そしてそのことを誰もが悔い、自らその十字架を背負って生きちょう」


 「そういえば」


 竜之助は伏せていた目を挙げた。


 「辻村さんとこの婆さんに聞いたんだけど、あのばあさんに高田の娘が生き残った自分たちはよほど天主様から愛されとった、焼き殺されたり今死にかけて苦しんでいる人たちは天主様の怒りを買った人たちだって言いよったそうな。おいはそれ聞いて高田の家に怒鳴り込んで娘の頬をはってやりたか思った。天主様の怒りって、死んだり苦しんだりした人にどぎゃん罪があるというんじゃろか。天主様の罰にしてはあまりに むごかとじゃろ。むしろ生き残ったおいんだの方がよけい罪びとさね」


 「たしかに。罪のなか人たちが受けたんが戦争の被害やね」


 八重子もぼそっと言った。竜之助は少しだけ八重子を見て、話し続けた。


 「それで、原爆が落ちてから六日後が終戦さね。終戦があと六日早かったら原爆もなかったのにと言う人もおるばってん、その六日がいちばんの地獄じゃった」


 永田はゆっくりうなずいた。竜之助は続けた。


 「あの爆弾は結局一発だけじゃったばってん、あの時はそうは思っとらんかった。また同じような爆弾が続けて二発、三発と落ちてくるとみんな怯えとったし、だけんみんな怖くて防空悟うから出られんかった」


 そして八重子を見た。


 「身内の遺体を片付けることもできんかったんは、そぎゃんこつもあったとよ。それに、浦上を北から南まで歩いただけで激しか下痢ばするとも言われたけん」


 「実はね」


 永田はまだ遠くを見つめるような眼で、話し始めた。


 「ある信者さんがね……竜之助君もよく知っている人だけん名前は伏せとくけど、そん人は竜之助君と同様に兵隊にとられていて、復員して来たら家は焼け野原、お母上も奥さんもお子さんも全員亡くなっていたそうな。それでその人は、私のところに来てこげ言いよった。なんで天主様もマリア様も守ってくれんかったとかって。もう天主様も信じられん言いよる。じゃけん、私は言うてやった。信仰はこの世の幸せのためじゃなあ。この苦しか生活に喜びば感じられずに、教会が崩れたからといって絶望して天主様を疑うなど、結局は甘チョロのご利益信仰だったんやなあかって。でもその人は、それでもさんざん悪態をついて浦上ば去って行きよった」


 竜之助も八重子も、なんと言っていいかわからず黙っていた。永田は続けた。


 「でも彼ならきっと帰ってくる。子供のころから信仰が身に染み込んでいる人だがね。私んごたる妻と結婚してから洗礼を受けたもんは、幼児洗礼の方々には逆立ちしてもかなわんところがああが。まして、妻もそげじゃったけど、浦上の信者さんは先祖代々隠れキリシタンの子孫の方も多か。彼もいつか帰ってきて、天主様は『よう戻ってきたね。待っていたよ』って、戻ってきた放蕩息子ば暖かくお迎えくださるとそう信じちょう」


 「そじゃな」


 うつむいていた八重子は目を上げ、永田を見た。今度は永田が少し目を伏せて言った。


 「だから同じ長崎の住民でありながら、被害はあまり受けなかった南山手の方の人たちが、浦上に原爆が落ちたんは神の懲罰じゃとか言いよるごたるけど、そげなんは聞くに堪えん」


 八重子は目をむいた。


 「ええっ! そぎゃん言いよっとですか。それ、ひどか。浦上の人たちがどれだけ苦しんで、命ば奪われ、そして生き残った人たちも地獄の生活ばしよっとに、そぎゃんことなんも知らんで無責任なこつ言いよっとは誰ですね。イエズス様は世の人々を救うために十字架にかけられたんごと、浦上の人々の犠牲によって戦争は終わったんやなかとですか」


 永田は目を上げて八重子を見た。


 「実は去年の秋に教会の焼け跡の前の広場で原爆死者合同葬が執り行われて、私が弔辞を読ませていただいたに。その弔辞の中でも言うたんだが、かつてカインとアベルが争ったごと天主様の愛のみ意に背いて兄弟同士で憎み合い、争い、殺し合った世界戦争の罪を詫び戦争を終わらせるため、四百年にわたって迫害され、多くの殉教の血を流しながらも正しい信仰を守り通したわが浦上教会こそ、世界中より選ばれて天主様の祭壇に献げられるべき浄く尊い 燔祭いけにえの子羊となったと思うとる。それを罪に対する懲罰だなんて、間違うても言うてほしくはなか。これは自ら被爆し、また妻を、そして大学の同僚や部下をも亡くし、多くの被爆で苦しむ人々と じかに接して救護に当たり、その様子を見続け、そして一度は命を落としかけた私だからこそ言えることじゃと思う。 燔祭いけにえの子羊は皆が天国に上げられて、今は主とともにおられるに違いないが。過ぎ越しの祭りの犠牲の子羊は、罪なき身で人類を罪から救うために十字架にかけられたイエズス様のお姿で、それが原爆で亡くなった浦上の人々だが」


 永田の話には熱が入り、ここまで一気にしゃべった。さらに続ける。


 「生き残った僕などは罪深きゆえに選ばれんかった。その代わり、生き残ったもんたちはこれからもっともっと苦難の道ば歩んでいかんといけん」


 「たしかに」


 叫ぶような声を、八重子は挙げた。


 「信仰弱く、罪に まみれて生きてきた私ですし、新聞の嘘八百の報道ば信じて、終戦の日まで日本が勝つと思うとりましたけん」


 竜之助も口をはさんだ。


 「そん通りたい。新聞やラジオの報道は全部が全部嘘じゃったというわけではなかばってん、あのミッドウェーの戦いを境目に日本軍は劣勢となったいうんが 本 ほんまのこつごたる。大本営発表ではあの海戦も華々しか戦果ば挙げての勝ちいくさというこつになっとったばってん、実は大敗北じゃったんじゃ」


 「もう新聞やニュースの媒体に振り回されず、自分の目で何が真実かを見極めて生きていかんといけん。これからの新しか世の中では特に」


 永田の言葉に続いて、八重子も言った。


 「私たち、自分らが苦しんどるだけじゃなくて、大陸では多くの人を苦しみば与えてきよったと。欧米の侵略に苦しむ大東亜の人々を解放するための戦争が、実際は日本による中国への侵略戦争だったと終戦後の上海で聞いた。私も上海高女では毎日生徒たちといっしょに袋に火薬ば詰めよった。その火薬の入った鉄砲の弾が南方や大陸でなんぼの人ば殺してきよったとか。じゃけん、私たちは被害者であって加害者、加害者であって被害者」


 「それが戦争だが。加害者にも被害者にもなる。じゃけん、もう過ちば繰り返したらいけん。もう被害者にも加害者にもなりとうはなあが。我われが今、そしてこれからなすべきことはいかることじゃないに。怒りではなくて祈りだが」


 永田はそう言ってから、口調を変えた。


 「そろそろおいとますっと。少し荷物の整理ばせんといけん」


 「じゃったら、またあとで、一緒に食事ばせんね」


 「ええ、ぜひ」


 永田はそこでにっこりと笑って、立ち上がった。見送るために竜之助と八重子は子供たちも連れて外に出た。永田は手を振って、かつての自分の家からは少し離れた小屋の方へと歩いて行った。


 竜之助と八重子は自分たちの小屋の前に立って、しばらく原子野を眺めていた。


 「なんか『被害は僅少』ね。いい加減な発表、せんでほしかね」


 呆れたような口調で、八重子は言った。


 「おいはわいが上海に行く言うたときも必死でとめたし、行ってからも早く帰れとそればかりやったな」


 「それに、まことさんが死んでから私、一度はもう帰るつもりで船の切符も買いに行った。その直前に船が沈んでいなくてすんなり切符が買えて帰って来とったら、私今生きてここにおらんかった」


 「そぎゃんたいなあ」


 「なあ、あんちゃん」


 八重子は遠くを見つめたまま言った。


 「私、まことさんを失って、戦争が終わってから上海も追われた。故郷に帰ってきたら、もう何もかもなくなってた。ばってん、あんちゃんがおった。そして信さんの忘れ形見の子供たちもおる」


 「おいも竹子も子供たちもみんな死んでしもうて、本当じゃったら天涯孤独の身じゃったさね。ばってんわいが子供たちば連れて帰ってきてくれた。家族がまだおったんじゃ」


 「一緒に生きていくしかなかとやね」


 もう一度、八重子は目の前に広がる原子野を見た。


 「ほんまにここは七十五年は草木も生えんかもな」


 雲が切れて、まるで「ソンナコトナイヨ」と言っているようにおひさまが二人の頭上に照り輝いた。

 陽ざしを受けて、はるか向こうの稲佐山が輝いた。

 浦上がこんなに変わり果ててしまっても、変わらない風景もある。稲佐山は変わっていない。

 そしてすべてが無に帰した今、そこから新しい何かが始まるという思いが兄にも妹にもあった。八重子は稲佐山を見て思い出した、幼いころに大きな布を大勢で揺らして歌ったわらべ歌を口ずさんだ。


 「稲佐ん山から風もらおう~

  稲佐ん山から風もらおう~

  稲佐ん山から風もらおう~

  いーんま風もどそう~」


 その歌声のほかは、二人を包んでいる空気はあまりにも静かすぎた。

 空はすっかり晴れてきた。

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