赤い糸
いつもの喫茶店に足を運ぶ。
『きちんと話すんだ。』
あの人のことを彼に話すことを決めてから毎日の電話の会話が何かぎこちないものになっていた。たぶん彼は何か気付いていているだろう。
「いらっしゃいませ。あっ、水島さん。いらっしゃい。」
「こんにちは、マスター。今日はテーブル席に。」
「はい、どうぞ。」
いつもと様子の違う私にも何も聞かないところがさすがだと思った。
「今日は何にしますか?」
「カフェオレ、お願いします。」
「はい。」
彼を待つために今日は待ち合わせ時間より早く喫茶店に着いている。少し考える時間が欲しかった。どの様に言うかは考えている。ただ彼の反応がすごく怖い。怒るのか悲しむのか、はたまた無反応か。そのどの反応でも私はどうしてよいのかがわからない。ただ私の秘密を知ってもらいたいだけ。]
私の想いを。
「いらっしゃいませ。あっ、霧島さん。あちらに。」
その声を聞いてドキドキが止まらなくなる。
「やぁ、みなと。お待たせ。」
「大悟、今日はごめんね、急に。」
「いや、大丈夫だよ。それよりみなとの方が大丈夫かい。最近なんか変だったから。」
「うん、ちょっといろいろと。ねっ。」
彼はコーヒーを頼みしばし沈黙が続いた。彼も何か感づいているのかもしれない。
「あのね、大悟。」
「みなと、今日は。」
と同時に話し始めまた気まずくなる。
「私が呼んだから私が話すね。」
「うん、何?」
「実はね、私好きな人がいるの。」
その言葉に彼は落ち着いて聞いている。
「私、小さい頃からずっと私のことを見ていてくれている人がいて、最近になって私はその人のことが好きなんだって気づいて。でもその人は実在しなくて、ずっと夢の中だけの存在で。こんなこと信じられないかもしれないけど、私にとってはとても大事な存在の人で。」
話していてまとまりがないのが自分でもわかる。でも言葉がどんどん出てくる。
「今の私があるのはその人のおかげで、私のことを何でも知っていて。私、その人に会いたくて、でもどこにいるのかもわからなくて、そもそも実際にいるかもわからなくて、でもずっと私の胸の中にいるの。大悟のことはもちろん好きだけどあの人には到底かなわなくて、私変になっちゃったのかな。じぶんでもおさえられなくなってきて。」
ここまで話していると自然と涙が流れていた。夢中で話し続ける私を彼はじっと聞いていた。
「こんなこと大悟に話しても困るだけだってわかっている。でもどうしようもなくて、このまま黙って大悟といる事がすごく後ろめたくて、自分でもどうして良いのかわからなくなってきたの。ごめんね、ごめんね。」
そこまで聞いて彼はゆっくり口を開く。
「俺もみなとに話していないことがある。」
物静かでそれでいてしっかりした口調で話し始める彼。
「みなとと出会う少し前あたりから俺の夢にある人が現れるようになったんだ。その人はとてもやさしくて俺なんか到底かなわないくらい立派な人だった。初めのうちは俺もその人に反抗的でいろいろ意見なんかも言っていたけど、気づいたらその人の言う通りに事が進み始めていることが多いことが分かった。ある時から俺はその人のことを信じても良いのではないのかと感じてきた。反抗しつつもその人の言うと売りに動いてしまう俺がいた。」
彼の告白を頭が真っ白になっている私の耳にひっそり入ってくる。
「いつしかその人の虜になっていた。今度いつ夢に現れてくれるか楽しみなっていた。そしてある時、その人がある人について語り始めた。その人は幼いころからずっと一人で本当は寂しいのに一生懸命に生きている人だった。その人の話を聞いていると起きた時に涙が流れていることがあった。でもその人の話を聞いているうちにだんだんその人に興味が湧いてきたんだ。そして惹かれていった。」
彼が何の話をしているのか全然わからなかった。だけど話を聞いているうちにいろいろな感情が湧いてきた。
「夢の中の人はその人のことをとても大事に想っていてその想いは俺も同じで、二人でその人のことを応援して元気づけてやろうって。俺は現実世界で、あの人は夢の中で。」
そこまで聞いてハッとした。全ては繋がっていた。でもそれはいつから始まったのだろう。頭の中が混乱してきた。
「えっそれって。」
「そう、その人ってみなとのこと。俺はあの人から全てではないけどみなとのことを聞いていた。初めは全然わからなかったけどいろいろつじつまが合い始めてあの人にその人の名前を聞いてみたらみなとだった。そこから俺はみなとのことをあの人に聞こうとしたけどあの人は話をはぐらかしてきちんと話してくれない。ただ『本人の口から聞いてください』とだけ。だからあの人の言う通りみなとが話したくなるまで聞かないって決めた。みなとが自分を見つめて俺に話してくれるまで。」
彼の話を聞いてあの人との思い出が次々と思いだいてくる。あの人が初めて夢に現れた日のこと、料理や掃除を教えてくれたこと、学校の節目節目での言葉。一気にその思い出が蘇ってくる。あふれる涙が止まらなくなり嗚咽していた。
それを見て彼は続ける。
「俺はみなとが好きだ。そしてあの人を尊敬している。尊敬しているあの人を好きになる気持ちは俺もわかる。あの人はこうも言っていた。
『私は存在しない存在。あなた方は存在しない存在。相容れることはできない。』
と。俺たちはあの人に会うことはできないし、あの人も俺たちに会うことが出来ない。それはあの人が一番知っている。だからもう現れないって、もう俺たちを惑わせないって、そして最後にみなとを頼むって。」
彼の言葉に耐え切れなくテーブルに突っ伏して泣き始める。
『もうあの人に会えない。』
今までのことを何も返せていない。私はもらってばかり。あの人のおかげで今がある。
「あの人に何も返せてない。」
涙でぐしゃぐしゃの顔で彼に言う。
「俺も何も返せていない。でもあの人は俺らの『ありがとう。』が嬉しかったって。それだけで生まれ変わったって言ってた。」
あの人が夢に現れるだけで嬉しかった。だから素直に言えた言葉。
「もうあの人は現れないの?」
「もう現れない。」
少し落ち着いてきた私を見ながら
「みなと、あの人との思い出について聞いても良いかな。あの人がみなとと何を話してきたのか。それを俺は引き継いでいく。」
彼の優しい顔を見て少し落ち着いて笑顔を見せる。
「うん。じゃぁ、初めてあの人が夢に現れた時からね。」
あの人との思い出はとても一日じゃ終わらない。でも彼にあの人のことを話せることがとても嬉しかった。もう一人だけの秘密じゃない。同じ夢を見てきたこの人にならあの人のことを話せる。私の話に時々合いの手を入れながら聞いてくれた。もう二人の間には秘密はない。
その日は喫茶店が閉店になるまで話していた。
装置を目の前にして少し物思いにふける。この装置が完成してもうすぐ一年になろうとしている。その間ずっと赤い幽霊と話していた。そしてもう一つの赤い幽霊とも。
『もういいのかな。』
自分の人生を顧みる。この装置にすべてをかけていた。そのおかげで無くしたものが多い。それでも気にしなかった。この装置があればよかったのだ。しかし赤い幽霊との出会い。それがすべてであり、始まりであった。
『これでいいんだ。』
モニターに映る二つの赤い幽霊を見ていた。
そっと装置のスイッチを切る。装置の電源プラグをすべて外していく。空いている段ボールを用意して中に入れていく。そして押し入れの隅の方にしまった。
いつもの様に仕事をして、いつもの様に家事をする。当たり前の日常。その中に娘がいて喫茶店にも私と話してくれる人がいる。それに不満などない。
『私も頑張るか。』
変な気合が入って来た。しかしそれでも良い。人生はいつからでも始められる。楽しむ努力さえすれば。たぶんその先にあるものが幸せであることを願って。
「パパ~起きて~遅刻するよ~」
「もう起きてますよ。そんな大声出さないでください。」
「じゃぁ、早く部屋から出てきてよ。朝ご飯出来てるからね。私先に行くね、行ってきま~す。」
「行ってらっしゃい。」
いつもの日常が始まる。
ジリリリリリッ
いつもの様に目覚まし時計が鳴る。