SPELL 28
「今日はもう帰りなさい」
腕から私を離したティトさんは静かに言った。
返事につまる私を見て苦笑すると、「今日はゆっくり休んで。また明日ね」と優しく呟く。
「大丈夫です。少し休めば…」
「良いのよ。たまにはゆっくりしなさい。この町、ろくに見てないでしょう?」
ティトの言葉に頷く。
この町に来て今日で三日目だ。この三日間、ほぼ花売りをしていたから街中を見ることが無かった。
売るために大通りに出るが、それはあくまで仕事のためだったので、大通りにある店を見て回る時間もなく、仕事が終われば停泊中の宿に直ぐ帰ることが続いていた。
「気分転換に散策でもしたらどうかしら?」
笑顔でそう提案されるが、ジェクサーがここに居ると分かってしまった今では、無闇に歩き回ることが無謀なことのように思えた。
「町を少し出た先にある丘が静かで綺麗なの。わたしのお勧めよ」
「丘…」
ジャブと歩いてきた道中、確かに息を飲む光景が広がっていた。
風に吹かれ音を奏でる樹木の眼下に、この町と大河が見えた。
太陽の光を反射する大河は輝き、どこからか聞こえる町の喧騒と、遠くに見えるビンターに生命の強さを感じた気がした。
それ以上にいつかジェクサーと二人でいた丘を思い出し、強く胸を打たれたのだ。
懐かしさから少しだけ心がほころび笑うと、ティトさんはホッとしたように笑った。
「丘、行ってみます。明日は早めに来ますね」
「うん。でも無理しないようにね」
頷き頭を下げて店を出る。
気分とは裏腹に天気は快晴で、見上げた青空が目にしみる。
路地から大通りに出ようと歩くものの、大通りに近づくに連れ歩調は遅くなり仕舞いにはすくんで動けなくなった。
(どうして、こんな。まだいるとは限らないのに)
未だにジェクサーが大通りに居るとは限らない。
いや、そもそも今の私はココであってシンではない。
服だってスカートだし、髪も下ろしている。胸にさらしを巻いていない今は、どこからどう見ても女に違いない。
例え、例え呼び止められたとしても他人のふりをするなりなんなり出来るのに、どうしてこんなにもジェクサーに会うことが恐いのだろう。
(きっと――――)
震える手を強く握り踵を返すと、路地へと歩みを進める。
遠回りになるが、ジェクサーが居た大通りを行くよりも断然安全に思えたからだ。
小走りで路地を走り抜ける。
隠れた味のある店が転々と並んでいて、それを横目で見ながら私は丘を只ひたすらに目指した。
熱い何かが溢れようとしていた。それを抑えるためにはあの丘に行く他無いと思ったのだ。
数十分小走りで走り続けて街を抜ける。
荒い息をつきながら視線を上げれれば緩やかに上がる坂があり、その中央を空に上るかのように長い街道が続いている。
ロバを引いて町へと入っていく行商人とすれ違いながら、私はゆっくりと坂を上がり始めた。
心地よい風が横をすり抜けるのと同時に、花の匂いが漂う。
少し歩いて街道を反れ、人気の無い原っぱへと歩みを進める。
小さな野花の群れが点々と生い茂り、その可憐な姿を風で踊らしていた。
見つけた切り株に腰を掛け見下ろした眼下には、大きな町とビンター行きの船、そして霞むようにはるか遠くに見える大河をはさんだビンターが見えた。
「…もう少しだ」
あと少しで、私はここから逃れられる手段を見つけることが出来る。
そうだ、あの喫茶店も、ジャブも、ジェクサーも、その思い出も。
全て捨てて、私はここから――――。
「シン…」
貴方はいつも、私を見つける。
空気のような私を、貴方はいつも見つけてくれた。
一人この世界の異物である私を、救い上げ求めてくれた。
けれど二人の世界は交わることが無いのだと、貴方を取り巻く環境を見て、漠然と思ったの。
「…シン?」
確かめるようにもう一度、ジェクサーが呟いた。
「違います」と言えば良いのに。振り向くことが怖かった。
ジェクサーが私へと近寄る足音が嫌に響いて、それが心音と重なった。
影が私を覆った。誤魔化すことも出来ない二人の距離。
見ぬ振りも、聞かぬ振りも出来ないその距離に、私は意を決して顔を上げた。
――――視線が、絡む。
「……っ、失敬。人違いだったようだ――――」
「いいえ、お気になさらず」
女として彼の前に立つことが初めてで、消え入りたいほど恥ずかしかった。
謝った彼は少しだけ悲しそうに視線を伏せた。
早くここから去って欲しい。私からこの場を離れようと、切り株から立ち上がったその瞬間だった。
「待ってください」
彼からの制止の声。
「少しだけ……。お話をしませんか?」
纏うような視線。
軽さなんて感じられない、彼の赤い瞳が揺らめいた。
「すみません。この後用事があるので」
頭を下げ、背を向ける。足がガクガクと震えたが、それはスカートが隠してくれていただろう。
足早に歩くその時、腕を掴まれた。
「……!!」
「あ、すみません」
大きく熱い彼の手のひらが、私の腕を掴む。
布越しでも感じたその熱が私の全身へと回る。
ジェクサーは直ぐに手を離したが、この場から逃げ出すチャンスを掴めず、私は視線を泳がせた。
「貴女が、知人に似ていたもので…。手荒な真似を失礼しました」
「大丈夫です」
騎士特有の礼を取り、体制を直してから「お願いです」と小さくジェクサーは言った。
「少しだけで構いません。…友人に似た貴女と話したい」
「……」
この場から離れても、ジェクサーは先ほどのように追ってくるだろう。
ならここは「はい」と答えて、この場を終わらせた方が良いのかもしれない。
「少しだけなら」
そう言ったときの彼の嬉しそうな顔を見て、私は視線を逸らした。
だから気づけなかったのだ。
彼のその瞳の奥に灯る、暗い炎に。
「いつになったら俺の名前を呼んでくれる?」
貴方はあの丘で私に尋ねた。
答えをはぐらかしたあの時と姿が変わっても、私は未だに呼べずにいる。
ジェクサー、ジェクサー、ジェクサー。
名前を呼ぶたび貴方の色が強くなって、私の世界は貴方一色になっていく。
***
船停泊三日目だとか三日後とか、三日前とか、それっていつよ、いつなのよーと悩んでいたらこんなにも時間が経っていました。
悩んだって仕方ねえ、上げちまえ、と更新。
ビンター出発明日ですよね?あれ?
違ってたらメッセージでもコメントでも指摘してください。
遅くなってごめんなさい。…ごめんなさい。