SPELL 26
落ち着けと己に言い聞かせてもそれは無駄な足がきで、彼の視線から逃れることも逸らすこともできず、私は只々立ち尽くしていた。
籠の中の花が風で飛んでしまった。売り物なのに、ティトさんに謝らな、きゃ…。
燃えたぎる視線は私に向けられたまま、彼は人垣を縫いこちらに近づいてくる。
最後に見た彼の顔は悲しそうな…、見捨てられた子犬のように苦しげに歪められた顔だった。
けれど今の彼は、まるで離れていた親を見つけた子供のような、嬉しさのあまり泣き出しそうな、そんな顔だった。
しかし瞳の奥は熱く燃えたぎっていて…。
――――足が動かない。
それが恐怖から竦んでしまっているからか、それとも心も体も彼に向ってしまっているからか、私にはわからなかった。
未だ遠くに居る彼が口を開く。
「ジェクサー!」
しかしジェクサーの声を聞く前に、幾度か聞いた鈴が鳴るような可愛らしい声に遮られる。人混みの中でもその声は響き、不思議と甘美な余韻を残していた。
ジェクサーは私から視線を外さない。声がしても視線をそのままにしていた。
ざわざわと煩い喧騒は、私と彼を隔たる壁のようだ。超えたいのに超えられない何かがそこにあるように思えた。
可愛らしい少女、私と同じ世界から来た美春が彼の背後に現れる。怒ったように眉根を寄せ、口をすぼめている。ああ、何て可愛らしいのか――――。
その横には初めて見た男性も居り、きっと三人で旅をしていたのだろうと伺える。
男性が何かを言っていた。ジェクサーは私と瞳を絡まらせたまま、振り向かない。
業を煮やしたらしい男性は、ジェクサーの腕を掴み、無理やり己の方へと振り向かせた。ジェクサーが私から、視線を逸らす。
フッと体から力が抜ける。まるで強固な鎖から放たれたようだった。
崩れ落ちそうになる足を叱咤し、辺りに散る花を慌ててかき集める。
煩わしい人混みも今では私を隠すベールのようだ。きっとここで再び彼を見た瞬間、それこそもう、終わりだ。
もつれそうになる足を懸命に動かし、彼から姿が見えぬよう腰を屈めながらその場を後にした。
「なんで…っ!」
なんで、貴方がここに居るの。どうして!
――――ねぇ、どこへ逃げればいい?貴方の視線が、蛇のように絡みついて私から離れない。
***
あまりの人の多さにジェクサーは苛立っていた。元から賑やかな場所は好きではないのだ。
タルミラが横で「はぁー、賑やかだなぁ」と間の抜けた感想を漏らしている。そんな些細な言葉でさえ、今のジェクサーには喧騒の一部でしかない。
ああ早く立ち去りたい。それかどこかの宿に入ってしまいたい。騒がしさと、ほこり臭さ、全てがジェクサーの癪に障った。
「そ、それにしても凄い人ですね。…きゃあっ!」
短い悲鳴が上がる。タルミラが慌てた様子で名前を呼ぶ。
「ミハル!?」
「バッグが…、引っ手繰られました~!」
「な、なにぃ!?」
今にも泣きそうな顔で「あっちに行きましたぁ!」とミハルが叫ぶ。確かに前方では「痛い!」「押すな!」「きゃあ、誰!」などと声が上がっている。
そりゃあこんな込み合っている場所で走れば人にぶつかる。
考えなしの馬鹿野郎に、ジェクサーの怒りの矛先が向かった。
「殺す」
「え!いやいやバッグが戻ればそれで…!」
「まさかの血濡れがここで発揮なのか!?」
二人のツッコミのような制止を聞き流し、ジェクサーは勢いよく掛けだした。
「あー。どうしましょうタルミラさん」
「この場合正当防衛で良いのかなぁ?」
「駄目じゃないですかね」
「そうだよねー」タルミラは面倒そうに言うと、心持ち足早に歩き出した。
本当に、心持ち。
遥か前方で悲鳴が上がったが、歩調は変えなかった。
「か、勘弁してくれ!」
ミハルのバッグを持った男が命かながらに許しを請う。ガタガタと震え、今にでも腰を抜かし倒れ込みそうだ。
ジェクサーは首を傾げる。まだ殴っても蹴っても切りつけてもいないのに、何故こんなに怯えているのかと。
飛びかかってくればまだ良かったが、こうも下手に出られるとやる気がそがれる。
「バッグ」
「は、はい!」
そがれるが苛立ちは募るまま。ああ腹立たしい。一発殴っても構わないだろうか。
震える手で男はバッグを寄こし、それを受け取りつつそんな事を考えていた時だった。
どこからか花の香りがした。ふと視線を通りに移すが、そこには相変わらずの人垣だけだ。
立ち並ぶ露店には果物や肉や野菜、布地だけが並び花など並んでいないのに。
先ほどの香りはどこから匂ったのだろう?どこかでかいだことのある香りに思えた。
遠くでミハルの声がした。「ジェクサー…!」名前を呼ばれる。
ズルズルとしゃがみ込んでしまった男を見下ろしながら、「チッ」と小さく舌打ちをして「行け」と吐き捨てる。
男は四つん這いのような形で前のめりになりながら掛けだした。その背中は何て滑稽なのだろう。
路地から出てミハルの姿を探そうと思い辺りを見回した時だった。
視界に入った茶色い髪。有り触れた色のはずなのに、何故だか視線が惹かれてしまった。
サラリと風に揺れ、触ったら心地よさそうな髪質が日を浴びて輝いている。
ドクッと胸が大きく脈打った。
――――こっちを向け、こっちを。
大切な彼と同じものを持つ人物の、顔が見たかった。
ふとその相手は横を向いた。そこから見えた鼻先、頬、目や睫毛…。
「シン……」
よく見つめていた。彼の後ろ姿、そして横顔。
無造作にかき集められ結ばれていた髪。紐を解いて指で梳き、顔を埋めたいとどれほど心の奥で渇望していたか。
男とは思えない細い首筋。うなじから生え際にかけて、指で撫で上げて甘い声を聞いてみたかった。
そんな自分の考えなんて露知らず、シンはあどけない顔で笑っていた。痛烈な言葉とは裏腹に心優しい彼に、どれほど自分が癒されていたことか。
心の中にわだかまっていた黒い想いが、スッと消えうせた。ストンと音を立て、足りなかった場所に何かが収まる気がした。
茶色い髪が風で揺れる。そのたびに花の香りが漂った。不思議な感覚だ。
ふと動きを止め、シン――――まだ確証さえないのに――――はこちらに振り向いた。
ああ…。電撃のように激しいものが、体の中心を駆け巡る。
「……見つけた」
シンは目を見開き口元に手を当てた。その手には花が一輪握られている。ああ、この香りはお前のだったのか―――――、と、妙に納得する自分が居た。
近づくたびに濃くなる香りは、シンの存在を示しているかのようだ。もう少しでこの手にお前を抱ける。
帰ろう、あの場所へ。俺達の世界に。“帰ろう”。
「ジェクサー!」
服を掴まれた。ミハルが怒ったように何かを言うが耳に入らない。
――――そこに居るんだ。シンが。いるんだ…。
「おいジェイク、心配したんだぞ」
タルミラがジェクサーの腕を握った。傍から見たら空虚を見つめているであろうジェクサーを、力任せに己へと振り向かせた。
バチリと視線が交わる。
「…ジェイク?」
「いたんだ…」
振り返った先にはもう、誰も居ない。居ない、いない、いない…。
駆け寄ったそこには花が一輪落ちていた。シンが握っていた花だろうか。無残に花弁が散っている。
シンに握られていた時はあんなにも綺麗だったのに、彼の手を離れた瞬間無残に踏みにじられ花弁を散らす。
「――――はっ、惨めな……」
乾いた笑いが零れ落ちる。この花は自分みたいだ。
ストンと音を立て心に収まった何かは、カシャンと音を立て、再び砕けて散った。
見つけたのは自分の心が求める彼。
見つかったのは彼の魂が求める彼女。
***
ジェクサーは至ってノーマルです。
そんな自分をここまで執着させるシンが気になって不思議で好きで仕方がない。
シンなら男でも良いとか思い出してそうで(実際に思い始めてるかも)怖い。
お待たせしました。全ての連載が停滞しており大変ご迷惑をおかけします。
本当に申し訳ありません。