SPELL 1
コーヒーの香ばしい匂いが溢れる店内で、その男は静かに窓の外を見つめていた。
店先を通り過ぎる人の顔には笑みが浮かんでいる。
幸せそうに笑い合いながら行商人は品を売り、町民は笑顔でそれを買い取り消えていく。
幼い子供は片手にお菓子を握り、満面の笑みで母親の後ろをついて歩いていた。
男が向き直ろうと体を動かすのに気づき、慌てて視線を逸らす。
「もう直ぐだな、女神祭」
目の前の男は楽しそうに笑って話す。
コーヒーの香りを嗅ぐと、「良い匂いだ」とさらに笑みを深くする。
淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、男に差し出した。
男は決まって砂糖二個と少量のミルク。
顔に似合わず、案外甘党なのだ。
「めがみさい?」
自分のお気に入りのマグカップを棚から取り出し、余ったコーヒーを注いだ。
コーヒー三分の一と残りは濃いミルク。
お砂糖は少し多めに入れて、甘くして飲むのが好きだった。
一口ごくりと飲み込む。うん、うまい。
「女神祭、知らないのか?」
「勿論知ってるさ、けれど、詳しい事を知らないんだよ」
実際はこれっぽっちも知らなかった。
女神祭?女神のお祭り?豊作を祈るお祭りだろうか?
怪訝そうな顔をしていた男は納得したというように頷き、頼みもしない説明を始めた。
「一年に一回あることは、…知ってるよな?」
初耳だ。だが「当たり前だろ」と鼻で笑ってやった。
男は面白そうに破顔する。
「祝う女神は神話に出てくる女神じゃない」
男はカップにスプーンを差し込み、一回転くるりと混ぜた。
かちゃりと陶器が触れ合う音が、静かな店内に響く。
ああ、そうだ。作ったばかりのアップルパイがあった。
シナモンをたっぷり効かせた香ばしいパイ。
仕方ない、甘党なこの男のために特別に出してやろう。
「異世界からやってきた女神さ」
動作停止。
「とうとう、やって来たんだ」
呼吸停止。
「今までのお祭りはあくまでお祭りだ。だけど今年は本物の女神がご降臨されたからな」
盛大に盛り上がるだろう、と男は言う。
停止は一瞬のことで、すぐにアップルパイを取りにキッチンへ向かう。
心持ち、足早で。
そう、本当に、シナモンをたっぷり効かせてあるから、とても美味しい出来なんだ。
本当は一人で食べてしまいたいくらい、美味しくて…。
「でも、彼女は二人目なんだ」
背後で男はおかしそうに笑う。
二人目なんだよ、やってきた女神は。
二度目の召喚でやって来たからね。
そして男は「ここから先は、秘密だぞ」と、人差し指を口に当て小さく呟いた。
「…女神の刻印が、彼女には無いんだよ」
「こくいん…」
心臓がどくりと跳ねる。
「きっと一人目の女神にあるんだろう。その女神は、どこに行ったんだろうか…?」
男はまるで独り言のように呟く。
しかし静かな店内では、その小さな声も響いて消える。
覚ますために置いといたパイの皿を手に取り、男へ向き直る。
男は始終笑顔だ。すれ違いざま、軽く睨みつける。
「案外近くにいるかもしれないね」
「そうだな、ほら見ろ、あの子が女神かもしれない」
男は窓を指差し、年若い可愛らしい娘を指差しそう言い放った。
「…あの子は二軒隣りのパン屋の娘、ターニャだよ」
おお、それは失敬、と男はコーヒーを口に運ぶ。
それを見届けパイに包丁を差し込む。
さくり、ふわん。
切った瞬間リンゴとシナモン、兎に角いい香りが鼻を掠める。
「お、アップルパイ。もしや?」
「別料金を取りたい所なんだけど、特別サービス。はいどうぞ」
男はもうアップルパイにしか意識が向かっていない。
大きな手で小さなフォークを握る。
大きな口で小さなパイを口に運び味を噛みしめる。
「うまい!」
「…そうか」
男は嬉しそうにパイを頬張り続ける。
大型犬がはむはむと餌を一生懸命食べている光景によく似ている。
カウンターを挟み、自分も簡易椅子に腰を掛ける。
自然と頬が緩んでいることに気づき、慌てて引き締めた。
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