SPELL 16
夢ならば良かったのに、と思う。何もかも全てが夢ならば良かった。
ジェクサーに出会ったことも、今剣の刃を突き付けられている現実も、何もかも。
夢ならば幸せな夢が良かったのに、と同時に思う。
ジェクサーに出会うならこの世界の住人として出会いたかった。
ジャブも同じ町民として、友人として出会いたかった。
何もかも叶わぬ…、願い。
悲しいね――――。
夢でないことを、五感が伝えた。
濃厚な植物の香りが、視界に広がる美しい風景が、風が吹くたびに擦れる葉の音が、噛みしめ過ぎたのか血の味のする口内が、突き付けられた剣に傷付けられ痛みのする首筋が、全てが現実なんだと私に伝えた。
「ココ」
言え、お前の真実を。
たった一言の中に、ジャブの思いが詰まっていた。
私は深呼吸をし気持ちを落ち着かせようと試みたが、上手くいかない。
まるで怯えたように、ひゅっと喉が鳴った。
「私は…」
「私は?」
ああ、意地悪な神様。
貴方が本当に大嫌いです。
「私の本当の名前は心。ただの女だっ」
「――――コ」
『剣をどかせ』
まるで弾かれたように剣が吹き飛んだ。
それは綺麗なアーチを描き、鋭利な剣先は柔らかな土に音を立て深く突き刺さる。
あまりの衝撃に驚いたのかジャブの体はよろりとよろめいた。
私は身を翻し、ジャブに向き直る。
二人の距離は二メートルほど。
「おい、今の…」
『黙って』
ジャブは突然出なくなった声に唖然とし、喉元を両手で抱え込む。
ヒューヒューと荒い息だけが漏れた。
罪悪感に胸が痛む。
私は一体何をしているんだろう。
何がしたいのだろう。
人を傷つけてまで、一体何を。
「ごめんね、ジャブ。ありがとう、ごめんなさい」
「――――っ」
ごめんなさいごめんなさい。
ありがとう、本当にありがとう。
貴方達はとても温かかった。だからとても苦しかった。
貴方達の事もとても苦しめてしまったね。私と出会ったばかりに。
「どうか、私と出会う前の幸せな日々に…」
――――ココ!
ジャブの口が私の名前を呼ぶ。
出会う前の幸せな日々に、戻れますように。
『ジャブを含む町の人々は私を忘れる』
ジャブの表情は次第に虚ろになっていく。
ああ!
『踵を返し家に戻り、そして眠りなさい。ココという人物は存在しなかった…』
言い終わるや否や、言葉通りに踵を返しジャブは歩き出した。
ゆっくりとした足取りはまるで夢遊病患者のようだ。
ゆらり、ゆらり。
体が前後左右に揺れておぼつかない足取りは、着実に町へと向かっていた。
私は膝からがくりと倒れこむ。
「もう嫌、もう嫌だ!帰りたい、家に帰りたいよぉぉっ!」
私の存在はこの世界に来てからは、非常に不安定なものだ。
会ったことのある人にまで「初めまして」と挨拶されるほど気薄な。
常日頃会っていた人なら大丈夫だが、初めての人には私が立っていることさえ気づいてもらえないことが多々あった。
――――私はこの世界に存在しない。
存在するが今にでも消えてもおかしくない、それが私だ。
ジェクサーは大切だ。私の存在を認めてくれている。常に視界に入れてくれる。
私の存在すべき場所なのだ、そう思えて幸せになれる人だった。
そんな幸せはあっけないもので、街に出れば私は空気に変わる。
その瞬間が苦痛で悲痛で仕方がなかった。
――――俺の名前を呼べ。
それは私の崩壊を決定づけるものだ。
彼に纏わりすがり、私の居場所があの喫茶店から彼一人になる。
きっと執着するだろう。私の居場所と変わった彼を、絶対。
それは嫌だ、彼に嫌われたら私はきっと死んでしまう。
彼一人という曖昧で脆い世界なら、現代の強固で強靭な世界に戻ることを私は切に願う。
「消えてしまえばいい…」
彼も、私も、この世界も。
しかし願いを唱える言葉はこの世界の言葉だった。
ジャブの足音は、もうしない。