SPELL 10
壁にもたれ、兵士に「ご苦労だった。下がれ」とジェクサーは言葉をかけた。
兵士は満足な結果が得られなかったことを悔しく思い、自分の非力さに顔を歪ませながら頭を下げる。
そして月明かりが照らす廊下を一人歩き去って行った。
兵士の後ろ姿を見送りながら、美春の頭に疑問が浮かぶ。
「ジェクサー、どうしてシンさんを捕まえられなかったの?」
「ミハル?」
「だって直ぐそこに居たんでしょ?」
美春はタルミラの後ろから体を出し、一歩前へ歩み出た。
髪を握っていた手を顔へ移し、覆うようにしてジェクサーは黙り込む。
「…足が、動かなかった」
「は?」
タルミラが聞き返す。
「シンが変な…、母国の言葉が知らないが、何かを言った。そしたら…」
悔しそうに顔を歪ませる。
タルミラと美春は顔を見合わせた。
「シンさんは何て?」
「確か…、『来ないで』…と」
美春は「え!?」と驚く。
ジェクサーとタルミラは美春の顔を見つめた。
嬉しそうな、だがしかし混乱しているような形容しがたい表情を美春はしている。
「何か知っているのか?」ジェクサーは微かに語気を荒げて言った。
「『来ないで』は私の国の言葉だよ」
「なんだと!?」
美春は力強く頷く。
「こちらでは来るなという意味になる」
美春の脳裏に一つのことが浮かぶ。
そう言えばシンさんは私のことを美春と呼んだ。
タルミラやジェクサーは、言いづらそうに私をミハルと呼ぶのに…。
――――まさか?
ごくりと唾を飲み込む。
口の中が、カラカラだ。
「なぜ彼はそんな言葉を知っていたんだ?」
「誰かから聞いたのだろうか」
「ミハルはどう思う?」
タルミラの問いかけに美春は肩を揺らす。
私の中の微かな確信を、彼らに言った方が良いのだろうか?
言ったら彼らはシンさんをどうするのだろう。
自分の意志でここから去ったあの人を捕らえるのだろか…。
「…さぁ。誰かから聞いたのかも」
優しく笑う人だった。
思えば思うほど、私にはあの人が寂しそうにほほ笑む女性にしか見えなくなっていく。
春のように温かい人。
息を吹きかければ消えてしまいそうな、儚げな朧月のような人。
「ジェイクがいつまでもピリピリしてちゃ、こっちまで参るからな。彼が見つかるまで応援してやるよ」
タルミラが苦笑しながら言う。
ささやかながらも手がかりが掴めたことが嬉しいのか、幾分か雰囲気を和らげながらジェクサーは笑う。
「…ああ。あいつに会ったら思いきり小突いて、ケーキを鱈腹作らせてやる」
違う、違うよ。あの人は彼じゃない…!
美春は二人を見ながら、どこか遠くに居るような意識の中で思いきり叫ぶ。
先ほど兵士が言った細見の女性、それがシンさんだ。
美春は確信もってそう感じ取った。
私はどちらを応援すればいいのだろう。
彼女を男だと信じながらも、追い求める彼を支えた方がいいのだろうか。
理由は分からないがこの国から…、いやきっとジェクサーから逃げた彼女を応援するべきなのか。
美春の頭に、温かいココアを差し出しながら笑うシンが過る。
どちらにしても、彼女が笑っていられる未来なら良い――――。
優しく穏やかな月光を浴びながら、美春は願った。