『のびしろがある』と言われるのが一番嬉しい
私は音楽を聴くのに、曲単位ではなくアーティスト単位で追っかける。
気に入った曲をやっているアーティストがあったら、他の曲も色々聴いてみる。
それでも気に入ったらそのアーティストのものは優先的に聴くようになったり、アルバムが出たら必ず買ったりする。
でも、そのうちマンネリになることがほとんどである。
アーティストというよりは『いつもの音を作る職人』として完成されてしまうのである。
もちろんそういう完成を、つまりは安定をこそ好ましいと思う人もいるだろう。
しかし、私はそうなったら、そのアーティストを見限る。
のびしろがあるうちが一番面白いと思う。まだ歌が不安定だなとか、もっとこういうとこ欲しいよなとか、ヒット曲欲しいよなとか。あるいは色々なタイプの曲やってるけど、次はどんなの来るのかな、とか。
ギターのパフォーマンスが完成されてて圧倒されるとかはいいのだが、でも『この先どうなって行くのだろう』みたいなワクワクがなくなってしまったら、私にとってそのアーティストは終了である。
びっくりがなくなって、未来に同じようなものを量産するのが見えてしまったら、他のまだのびしろのあるものに乗り換える。
もちろん、無理に変革をしようとしすぎてコケるパターンのアーティストも多いには多いが。
私は自分が作る小説等に、完成を求めない。
いつまでも『のびしろがある』と言われたい。
『のびしろがある』と言われるのが一番嬉しい。
いつでも新しいことに挑戦していたい。
もちろん無理に新しさを求めて本物の宇宙人になってしまったら、地球人には理解されなくなってしまうが。
そのギリギリを行きたい。
縦読み職人や即興職人と呼ばれるのはいいが、『いつものような作品』を量産する作家には死ぬまでなりたくない。
だからたまに『アタマ大丈夫?』と言われるようなものも書いてしまうだろう。
『昔のほうが良かった』『どんどんおかしくなってる』と言われることもあるかもしれない。
しかし、私は私だ。
私が書く限り、私の作品は私の作品なのだ。
完成度は高めて行きたいが、私自身は完成したくない。
何が言いたいのかよくわからないが、これもいつかわかってみせる(๑•̀ㅂ•́)و✧