3.ニコロの心配
「子犬・・・」
宮内庁官と侍従長が顔を見合わせて、僕は冷や汗が止まらなくなった。
姉ちゃんはときどき突拍子もないことを言うんだ。後で説明されれば分かるんだけど、最初のインパクトが大きくて説明が入ってこないこともある。
困った顔の三人の男を前にして、姉ちゃんは余裕の笑みを浮かべていて、一つの表を指差した。
「そうです、子犬です。まずはこの数字を御覧ください。」
「これは・・・乱数表か?」
子犬に混乱させられた宮内庁官が、ますます困惑しちゃったみたいだ。大丈夫かな。
「横列は階級と性別、縦列は年齢層です。マスにかかれている数字はブロックごとに無差別に選んだ人物のうち、『マルカントニオ王子が今後何をしようと嫌い』だと答えた人の割合です。」
モニカ姉ちゃんはたまに相手を黙らせるために難しい言葉遣いをする。競合他社が居るときは逆にわかりやすいんだけど、今回は受注が確定しているから親切にしてあげないモード。僕はハラハラするばっかり。
「どのマスも高い数字だが、どう解釈をすればいいのか・・・」
「いいですか、マルカントニオ王子は伝統や格式を守らないことによって上流階級・保守層の8割、浪費癖によって都市労働者階級の7割の支持を失っています。これを回復するのは人間が入れ替わらない限り無理なので、潔く諦めます。」
「諦めると?少数派とは言え、無視できない大きさだろう。」
侍従長が困惑した顔をする。はじめからマイナスの話をしていいのかな。
「少数な上に両極端で、一方に良くしようとするともう一方に嫌われるし、頑張ってもなかなか好いてもらえません。私達のターゲットは王子にそこまで強い怒りを覚えていない都市中間層と農民層。特に最初のターゲットは、王子の浪費にそこまで関心のないマダム層です。」
「だが、その層は健気なピレッリ伯爵令嬢が婚約破棄され、王子が庶民のマグダレナ・パッツィを追いかけた騒動で、すっかり王子が嫌いになってしまっている。」
宮内庁官が頭を抱える。姉ちゃんは別の表を指差した。
「こちらを御覧ください。王子が好きではない、嫌い、憎い、と答えた人の差をみていますが、マダム達は憎いと答えた人の割合が低く、『好きではない』という回答が多い。さらに好きでなくなったのは最近のことで、構造的なものではありません。スキャンダル前から反王子だった他の層に比べて、傷は浅く挽回の余地があります。」
「対象はわかったが、そこでなぜ子犬がでてくる?」
今度は侍従長が姉ちゃんを遮った。
「まず王子の武器は見た目です。マダム層に限った調査ですが、王子は外観・雰囲気といった項目では高い評価を得ています。また、中産階級マダム層に今最も気になることを聞いた所、一位は『トイプードル』で21%、8位のマルチーズと11位のパピヨンを含めればマダムの4人に1人は小型犬に夢中です。一方で『婚約破棄スキャンダル』は新鮮さがなくなってきたこともあってか、意外にもわずか7%で7位です。」
「ほう・・・だいぶ低いな。」
宮内庁官が目を輝かせた。うまくいっているみたい。
「はい、マダムのおしゃべりは一巡してしまえば忘れられるものなのです。つまり、トイプードルを可愛がることによって、空前のトイプードル・ブームと王子を連想させるとともに、婚約破棄スキャンダルで『非情』との印象を持たれてしまった王子を、『動物を慈しむ優しい守護者』としてのイメージで塗り替えるのです。美男子が可愛い子犬を可愛がる所をフォトグラフィアで撮影し、ブロマイドにしてばらまくのです。」
「なるほど。しかし王子とトイプードルでは、マダム層に人気が出ても軍や農民層に王子の威厳がなくなってしまうのではないか。それにトイプードルは高価だから、浪費批判も加速する。」
たしかに、王子とトイプードルのポスターが劇場に貼られたら、論議を呼ぶような気はする。
「町中に張る大きなポスターではなく、ブロマイド形式にして、マダム層の間で流通するようにしましょう。威厳について王子は不足していないでしょうから、別の機会にアピールしてもらう予定です。トイプードルの出費で怒るような人は既に王子が嫌いですから、その面では悪化することはもうないでしょう。」
姉ちゃんは話をまとめあげるムードになっていた。侍従長と宮内庁感は顔を見合わせてうなずいた。
「わかった、トイプードルを確保する。」
よかった、心臓に悪かったよ、もう。
「他に現時点で準備しておくことはないか。」
「はい、直近で大きな葬儀は予定されていませんか。」
なんかまた余計なことを言いそうだな、姉ちゃん。
受注は決まっているようなものなのに、僕の心臓は休まらなかった。