「坊ちゃま、いい加減に起きやがってください!」
ノリス侯爵家嫡男アイザック様付きメイドの私、ミラの一日の仕事は、アイザック坊ちゃまを起こす事から始まる。
「坊ちゃま、いい加減に起きやがってください!」
勢い良く寝室のカーテンを開け、幸せそうに緩み切った寝顔でシーツに包まる坊ちゃまを怒鳴り付けながら、シーツを引っ剥がしてベッドから蹴り落とす。
メイド風情が主人に対して何という事を、と苦言が飛んできそうなものだが、こうでもしないと、うちの坊ちゃまは起きないのだ。
何せ、超が付く程寝起きが最悪な人だから。
「……んー……」
床の上で眉を顰め、寒そうに大きな図体を小さく丸め込みながらも、それでもまだ眠りの世界に入り直そうとする坊ちゃまの胸倉を掴み、遠慮の欠片も無くガクガクと揺さ振る。
「さっさと洗面所に行って、顔洗っていい加減に目を覚ましやがってください!」
「んー……」
眠そうに返事をしながら、青虫のようにゆっくりと床を這って洗面所に行く坊ちゃまの後を付いて行く。一応見張っておかないと、洗面所に辿り着くまでの僅かな距離で、再び眠りこけてしまいかねないのだ。
「はあ……眠い……」
顔を洗ったのにもかかわらず、今にも立ったまま寝てしまいそうな坊ちゃまの顔に、タオルを押し付けて水気を取る。まだぼーっとしている坊ちゃまの手を引いて寝室に戻り、仕方なく着替えの手伝いをする。
……そろそろ、自分で着替えてもらいたいんだけどなぁ。
六年前、私が侯爵家に来たばかりの頃は、全く何も気にしないで手伝っていたが、今は坊ちゃまの着替えの手伝いが、段々と苦痛になってきているのだ。子供の頃とは違って、夜着を脱がせると現れる、鍛えられた胸筋や割れた腹筋をできるだけ見ないようにしながらシャツを着せ、男性の朝の生理現象のせいで下履きの中心で存在を主張している一物に気付かない振りをしながらズボンを穿かせる。時々寝かけて寄り掛かってくる坊ちゃまの重みで押し倒されそうになりながらも、力尽くでちゃんと立たせてズボンのベルトを締める。
逞しいイケメンの半裸にも動揺を見せず、只管無表情で無心で黙々と……って私は何の修行をしているんだろう、と疑問に思う事が時々ある。これでも私、一応年頃の乙女の筈なんだけどなー。
着替えが終わると、これまた坊ちゃまの手を引いて食堂へと連れて行き、朝食を摂らせる。食べ終わる頃に、漸く坊ちゃまの目が覚めてくるのだ。
「ミラ、もう少し優しく起こしてもらえない?」
「優しく起こそうとしても、全く以て起きなかったのは坊ちゃまの方でしょうが」
そう、最初の頃は私も肩を叩いたり揺すったりして、優しく坊ちゃまを起こそうと試みていた。でも色々と試した結果、この起こし方が、一番早く坊ちゃまが目覚める方法なのだから仕方がない。坊ちゃまの寝起きの悪さにほとほと手を焼いた旦那様にもちゃんと許可は貰っている。
「嫌ならもっとスムーズに起きていただきたいですね」
「えー、他にも方法があるでしょ? ほら、愛の言葉を囁きながら優しくキスしてくれるとかさ!」
「今何やら物凄く奇怪な戯言が聞こえた気がしましたけど、何か言いやがりましたか?」
思い切り坊ちゃまを睨み付けながら指の関節をバキバキと鳴らすと、坊ちゃまはブンブンと勢い良く首を横に振った。
「さて、漸くお目覚めになったのなら、そろそろ仕事をしてください。今年は雪解け水の浸水被害が多くて、補助金申請の書類が溜まっていると聞いています」
「ああ、分かった」
仕事の話になると、途端にキリリと表情を引き締める坊ちゃま。さっきまでの眠そうな言動とのギャップが酷い。酷過ぎて心臓に悪いレベルだ。
颯爽とした足取りで執務室に向かう坊ちゃまを見送りながら、私は無駄にときめいてしまった胸をそっと片手で押さえて、こっそりと溜息を吐き出したのだった。
***
私の一つ年上、十七歳のアイザック坊ちゃまは、サラサラのプラチナブロンドの髪に、きりりとした鳶色の目、高身長でがっしりとした体躯のイケメンだ。頭の回転も非常に速く、次期ノリス侯爵としても周囲から大いに期待されているという事もあるからか、坊ちゃまはそれはそれはおモテになる。女性への言動には少々軽薄さが見られる割には浮いた噂の一つも無く、社交界でも正に理想的な結婚相手と囁かれる程の屈指のイケメン紳士なのに、唯一とも言える弱点である寝起きの実態を知れば、きっと幻滅するお嬢様方が続出するに違いないと私は勝手に憂慮している。もう子供じゃないんだから、いい加減に一人で起きられるようになって欲しい。
大体、何が悲しくて、毎朝毎朝こんな気力も体力も削られる仕事から始めにゃならんのだ……。私だって朝からこんなに疲れたくないっての。
え? 何で侯爵家のメイドともあろう者が、こんなにガラが悪いのかって?
それには少々説明が必要になる。
私は元々貧民街で生まれ育った。早くに母親を亡くし、日雇い仕事での僅かな稼ぎを全て費やして飲んだくれる父親との二人暮らし。自分の食い扶持は自分で確保しないと食いっぱぐれてしまうので、私は小さい頃からせっせと近所の人達の家事等の手伝いをしては、その見返りに僅かな食材を手に入れていた。酒のせいか父親が身体を壊してポックリ逝ってからは、護身と仕事口の確保の為に男の子の振りをして、荷物運び等の日雇い仕事で何とか食い繋いでいた。舐められてしまうと働きが悪いと難癖を付けられて給金が勝手に減らされる世界だ。時には震える足を叱咤しつつ虚勢を張って、『ざっけんじゃねえ!』と啖呵を切りながら、私は日々を精一杯生きていた。
そんな生活を続けていたある年の春の事だ。冬の間は稀に見る猛吹雪が続いていたと言う、北の山からの雪解け水による浸水被害で、私は住む所を失った。仕事も激減し、食うに困って道端で行き倒れた私が、次に目を覚ましたのは、見た事も無い豪華な部屋の中だった。
肌触りの良いふかふかの分厚い布団。染み一つ無く真っ白な高い天井、分厚いカーテンがかかった大きな窓、私が五人は寝れそうな大きなベッド。
天国にでも来てしまったのだろうか、と目を白黒させていると、窓の反対側の扉から音が聞こえた。
「やあ、目が覚めた?」
扉を開けて入って来た、にこりと笑う、見た事も無い美少年に、私は目を大きく見開いた。
「……天使様……?」
あんぐりと口を開けた私に、少年はプッと吹き出した。
「違うよ。ここはまだ天国じゃない」
これが、私とアイザック坊ちゃまの出会いだ。
その後、私の間抜け面が余程可笑しかったのか、差し入れのスープを黙々と口に運ぶ私の横で、坊ちゃまはずっとクスクスと笑っていた。
地味な焦げ茶色の髪と目、日焼けした肌、痩せた身体、ボロボロの服を着た私の何処が気に入られたのか分からないが、何故か坊ちゃまが旦那様に取り成してくださったお蔭で、私はその日からノリス侯爵家で働かせてもらえる事になった。
生まれて初めてお湯を張ったお風呂に入れられ、全身を隈なく洗い、きちんと切り揃えた髪を梳かして、メイド服に袖を通した私を見て、坊ちゃまと旦那様は
「女の子だったのか!?」
と驚いていた。私と違って、二人共驚いた顔も美形のままだった。羨ましい。
私が女だと分かっても、そのまま坊ちゃま付きのメイドとして働かせてもらえる事になり、拾ってもらった恩を返そうと、私は必死になって仕事を覚えた。侯爵家のメイドともなれば、高度な教養も要求されると言う坊ちゃまに従って、言葉遣いに行儀作法は勿論の事、読み書きを覚え計算を習得し、貴族の知識を叩き込み、時には坊ちゃまのダンスの練習相手まで務めた。
我ながらこの六年間、よく頑張ってきたと思う。お蔭で今では旦那様方からも、『何処に出しても恥ずかしくない』とのお墨付きを貰えるまでのメイドになれたのだ。
……のだけれども。
「あー、今日もミラが淹れてくれた紅茶が美味しい」
「お褒めに与り光栄です」
「ミラ、その言い方他人行儀で嫌だってば」
何故か坊ちゃまは、私に敬語で接される事を嫌がって、二人の時だけは元の言葉遣いでいろと強要されている。
「はいはい。良かったですね」
なので、一応敬語の体を取ってはいるものの、かなり砕けた口調で坊ちゃまと会話しているのだ。使用人にわざわざぞんざいに扱われたがるなんて、坊ちゃまはマゾではないかと思うが、流石にそれは口に出さないでいる。
「ミラも一緒にお菓子食べない?」
「仕事中なので遠慮しときます」
そう断ったのに、むぐ、と坊ちゃまにマフィンを開いた口に押し当てられる。
「美味しいでしょ?」
……美味しい。
「……仕事中だっつったんですけど」
むぐむぐ、と咀嚼して飲み込んでから、坊ちゃまをじとりと睨み付けるが、坊ちゃまはどこ吹く風でにこにこと微笑んでいる。
「はい、あーん」
「だから仕事中むぐ……」
反論しようと口を開けばお菓子を入れられるこの事態。私に一体どうしろと。
これは不可抗力なので仕方がないと内心で言い訳をしながら、その実有り難くもぐもぐと味わっていると、坊ちゃまは心底幸せそうな笑顔を見せた。
「あー可愛い。ねえミラ、キスして良い?」
「駄目です!」
咄嗟に口を押さえて二、三歩後退る。
しがない一介のメイド相手に何考えてんだ、この人は!
「えー? 良いじゃない、少しくらいさ」
「駄目ったら駄目です! 何考えてんですかあんたは!」
「ミラの事しか考えてないよ。真っ赤になっちゃって、本当可愛いよね」
人を揶揄うなんて、何て性質の悪い!!
腹を立てながら坊ちゃまに背を向け、無駄に動揺してしまった心臓を静めようと深呼吸していると、回り込んで来た坊ちゃまが、至って真面目な表情で私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、本当に駄目? 俺、ミラの事本気で好きだし、結婚したいと思っているんだけど」
どきり、と心臓が高鳴る。
いやいやいや、本気にしちゃ駄目だって! だって相手は坊ちゃまだよ!? 人を揶揄うのが大好きなお方だし、そもそも次期侯爵様と平民メイドの私なんかとじゃ釣り合わないっての!
「何ふざけた事言ってやがるんですか!? そもそも、坊ちゃまの結婚相手が私だなんて、旦那様方がお許しになる筈が無いでしょうが!」
「父上も母上も承諾済みだよ。こういう時の為に父上の弱味を色々握ってきたけれど、認めてくれなきゃ後継がないって脅したら、一発だった。拍子抜けだよね」
いやいや、何実の両親を脅してんですかあんた!
「シャーロットなんか、『ミラがお義姉様になるのね!』って喜んでいたし」
何でそこで喜ぶんですかシャーロットお嬢様! 貴女のお兄様の暴走を止めてくださいよ!
「何でそうなるんですか!? 大体、私が侯爵夫人だなんて、務まる訳が無いでしょう!?」
「何言っているの。貴族としての立ち居振る舞いも、教養も、全部習得済みじゃない。先生方から太鼓判も出ているし、『何処に出しても恥ずかしくない』って父上と母上のお墨付きも出ているよ」
「な、何だってー!?」
た、確かに帳簿の計算とか、難しいステップのダンスとか、一介のメイドとして本当に必要なのか、と疑問に思うような事も習わされていたけれど! まさかあれが、私を侯爵夫人にする為の布石だったとでも言うのか!? 『何処に出しても恥ずかしくない』って、侯爵家のメイドとしてではなくて、まさか次期侯爵夫人として、だっただなんて、そんなの冗談に決まっているよね!?
「そういう訳で、後はミラが頷いてくれさえすれば、晴れて俺達は結婚できるんだけど」
「ちょっと待って何でそんな事態に!?」
聞いていない! そんな事は断じて聞いていないぞ!! 何時の間に外堀は埋め尽くされていたんだ!?
突然の事態に大いに混乱している間に、何時の間にかじりじりと坊ちゃまに詰め寄られ、気付けば私は壁際まで追い込まれていた。逃げようにも後ろは壁、両横には坊ちゃまの両腕、そして徐々に迫ってくるイケメンのお綺麗な顔のドアップに耐え切れなくなった私は、ついこう叫んでしまったのである。
「も……もし坊ちゃまが本当に本気だって言うのなら、朝一人で起きられるようになってから言ってください!!」
そう坊ちゃまに言い放ったら、坊ちゃまは目を丸くしてから、力強く頷いた。
「分かった! もし一人で起きられたら、その時は結婚してもらうからね!」
言質は取った、と言わんばかりの満面の笑みを見せる坊ちゃまに、今物凄くまずい事を口走ってしまったのでは、と私は思わず口を押さえて青褪めたのだった。
***
……なんて思っていた事が、私にもありました。
相変わらずベッドの上で、幸せそうな寝顔を晒してスヤスヤと眠る坊ちゃまを、私は半眼で見下ろす。
心配して損した。やっぱり坊ちゃまは、私を揶揄って、反応を楽しんでいるだけだったんだ。
安心したような、呆れたような気分になりながらも、何処かがっかりしたような自分が居て、慌ててブンブンと首を横に振る。そして何よりも、坊ちゃまに良いように弄ばれた苛立ちが沸々と湧き上がってきた。
ったく! 人を揶揄って遊ぶのもいい加減にして欲しい! 私の心の安寧を返せ!
そして私は今日も、半ば八つ当たり気味に勢い良くカーテンを開け、坊ちゃまが包まるシーツを力任せに引っ剥がし、坊ちゃまをベッドから蹴り落としながら怒鳴るのだ。
「坊ちゃま、いい加減に起きやがってください!」