無人島1
眠りから覚めかけて、水が寄せては離れる音を聞いて蔵守早人は疑問を抱く。
こんな音の目覚まし時計など使っていない。それにベッドの感触もおかしい。
ぼんやりとした疑問を抱いたまま早人の意識は急速に覚醒へと向かい目を開く。
「は?」
うつ伏せの体勢から体を起こし、頬についていた砂がぱらぱらと落ちる。それを気にする前に視界に入ってきた光景は珍しくもないものだったが、どうして自分がここにいるのかさっぱりわからなかった。
心に疑問を抱いたまま視線をあちこちに動かす。
目の前にあるどこまでも広い海から岩まじりの砂浜へ、さらに視線を動かし林とその向こうにはさほど高くはない山が見えた。
手が触れる砂の熱と感触が、潮風の温度と匂いが、夢ではないと知らせてくる。
「ど、どうなって?」
早人は体を起こしたままの姿勢で考える。
ここにいる前はどこにいたのか思い返していく。
友達とボーリングに行くところだった。高校二年になり、新たなクラスにもなじんできて新しくできた友達と休日に思いっきり遊ぶつもりだったのだ。
なんでもないことを話しつつ一緒に歩いていた友達たちのことを思い出した瞬間、その姿を探して再度周囲を勢いよく見渡すが誰もいない。
「なにがなんだかさっぱりだっ」
道路を歩いているところで途切れた記憶。
いつもとかわらぬ日常を過ごしていたはずなのだ。それなのに突然非日常へと放り込まれた感覚が気持ち悪い。
地球の管理者に選ばれたなどとは早人に理解できるはずもなく、どうしてこうなったのか答えがでないまましばらく悩む。
答えはでるはずもなく、表情は歪んだまま立ち上がる。長袖Tシャツとチノパンについた砂が落ちていった。
「……綺麗な砂浜だな」
地元では見かけないほどに綺麗すぎる砂浜だった。
こんなわけのわからない状況でなければ、バカンスだとはしゃいだだろう。
「……ゴミの一つも落ちてないのはおかしいよな」
小さな包装紙、ペットボトルのキャップ、そういったものどころか、漁業の道具などもない。
人の姿もまるでなく、足跡らしきものも見当たらない。
人がいないのではないかという考えが浮かび、嫌な思いが体中に広がる。
人のいた痕跡を求めてあちこちに視線を動かしながら歩き出す。
季節は夏頃なのか暑く、長袖シャツの袖をまくる。
早人はないないと呟きながら数十メートル先にあった岩陰に朽ちた木製のボートを見つけてほっと胸を撫でおろした。
「今使ってるわけじゃないけど、人がいたのはたしか。どこかに電話かなにか、ってそうだ! 携帯があるじゃないかっ」
携帯電話のことを思い出した早人は、慌ててチノパンのポケットに手を突っ込みスマートフォンを取り出した。
電源を入れると、ギャギャギャッと通常ではしない音を立てて乱れた画面が映る。
「こんな状況で壊れたのか!?」
何度も電源をつけたり消したりしてみたが反応は変わらず、地面に叩き付けたくなる衝動を抑えてポケットにしまう。あとで正常に戻るかもしれない。連絡手段をなくすわけにはいかなかった。
「人を探さないと」
視線は林に向く。道はなく、木々の向こうに道路なども見えない。
自分はいったいどこにいるか、そう思いながら林へと足を向ける。
その早人の背後、沖で跳ねてまた水に沈むものがあった。それは地球の神話でケルピーと呼ばれたものだった。
林に一歩足を踏み入れて早人は思う。なにかが違うと。
林と呼ばれるものに早人は入ったことがあるが、そのときは涼やかで落ち着いた雰囲気だった。
ここは静かで落ち着きもあるが、どこか物騒な雰囲気があるように思えた。
気配など感じ取れない早人は、それを根拠のない勘だと決めつけて、歩を進める。
その音を聞きとれたのは偶然だ。慎重に進んでいたからで、日本にいた頃ならば気づけなかっただろう。
カサリという音を右に十数メートルいったところにある藪から聞き取った気がした早人は、なにげなくそちらに顔を向けた。
そこには背中や手足が黒い毛におおわれた体長一メートルほどの蛙がいた。
「なあああっ!?」
ド肝を抜くとはまさにこのことか。
ここまで大きな蛙など地球には存在せず、驚き身を固めた。
それを隙と見てとった蛙は早人にむかって助走し大きくジャンプする。
それを呆けた表情で見ていた早人は、落下地点が自分だと気づき慌ててその場から離れる。
直後ズダンッと重い音をさせて蛙は着地する。そして早人に顔を向け、もう一度ジャンプする。
「なんなんだよ!」
蛙の自分を見る目が餌を見るものだと理解し、悲鳴じみた叫び声を上げた早人は走る。
振り返らずとも蛙が追ってきているのは音でわかった。
「逃げるだけじゃなくてなんとかしないとっ」
必死に考える。
舗装されていない林の中など走り慣れていない。いつ転んでもおかしくはなく、転んでしまえば待つのは想像もしたくない光景だ。
(蛙の弱点ってなんだ!?)
あれは早人の知っている蛙とはかけ離れたものだが、蛙として考えなければなんの対策も思い浮かばない気がした。
知識を総動員して、蛙について考える。これまで生きてきたなかでここまで必死に蛙について考えたことはなかった。
湿り気のある肌は乾燥に弱そうだと思いついたが、乾燥させる手段がない。石灰やシリカゲルをぶっかけたいと心底思う。
(蛙が死んでるとこを思い出せっ……モズの早贄!)
尖った岩か木でもないか周囲に素早く視線をはしらせる。
七十メートルほど先だろうか、三メートルの枯れ木を見つけ、早人はそれが伝説の聖剣のごとく思えた。
(あそこに誘導してジャンプさせればどうにかっ)
この考えが成功するとはかぎらないが、今思いつくのはこれくらいで、これしかないと実行に移す。
走る速度を緩めて、一度背後を確認する。
蛙は背後にいて、視線はしっかり早人に固定されている。
「こっちだ」
声をかけて気を引いて、枯れ木へと近づく。
蛙は早人の動きに合わせて移動し、早人は蛙のジャンプ力に合わせて位置取りを決める。
そして蛙が思いっきりジャンプしたら木が下にくる位置だと思える場所で止まる。
下がる素振りを見せて、大きなジャンプを誘う。
「ジャンプしろ、ほらジャンプだっ」
言葉が通じるのか不明だが、そう声をかけて早人は蛙の動きを見る。
蛙はぐっと体を沈めて足に力を込める。
大きく跳ねた蛙を見て、早人はすぐにその場から離れて喝采の声を上げる。
だがそこに思いもしない乱入者が現れた。
突如上空から現れたそれは蛙を足で掴むと地面に着地し、鋭い嘴で皮を貫き肉をむさぼる。痛みにたえかねて悲鳴を上げ暴れる蛙をしっかりと押さえつけながら。
突如現れたそれを早人は本で見たことがあった。グリフォンと呼ばれる神話上の生物だった。ボックスカーなど優に超える巨躯、人の肉など容易に裂きそうな嘴と爪、まさにモンスターという名にふさわしい存在だ。
画面越しに見ればかっこいいと思える姿も、危険生物だった巨大蛙をいとも簡単に捕食する姿は恐怖以外のなんでもない。
本能が逃げろとのみ叫ぶ。小さく震える早人はそろそろと下がる。
食事に夢中なため、なにごともなければ逃げることは可能だった。しかし後ろを見なかったのが運の尽き、大きな石を踏みつけてバランスを崩し転び、声を出してしまった。
血のしたたる肉をくわえ顔を上げたグリフォンの目が早人を捉える。
「ひっ」
短く悲鳴を上げた早人は、ずりずりと転んだまま下がり、慌てて起き上って走る。
圧倒的上位の存在を前にして逃げるという行動をとれただけでも上出来だろう。
グリフォンは蛙を掴んだまま、空へと舞い上がる。
走る早人は背中に刺すような視線を感じていた。振り返らずともわかる、これはグリフォンのものだと。
相手は空を自在に舞う化け物だ。走って逃げても助かる確率は低い。それは十分に理解できていたが、それでも死にたくないという気持ちが足を動かした。