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三十と一夜の短篇

はちみつ(三十と一夜の短篇第30回)

作者: 実茂 譲

 六角形。六角形。六角形。

 隣の家の蓄音機は世界の本当のあり方を教えようとしているようだった。僕にはそれが遠く昔に見捨てた廃墟のなかの残響にきこえた。石盤や数秘術とともに失われた不思議さのヴェールを惜しむ声。彼女の一声でカービン銃を手に集まったかつての崇拝者たちを探す声。涙を流しながらレコードに針を置く人たちの嗚咽。

 ああ、僕たちは世界のあり方を変えてしまった。それが不可逆的なものだと知らず。ポプリズムに酔った僕らが六角形から円へと鞍替えしたあの日、縄を打たれた二人の修道士――フランス人のドメニコ会修道士とドミニカ人のフランチェスコ会修道士を先頭に旧市街を練り歩いたあの日、運命は雪の上に落ちたはちみつのように固まってしまった。

 僕たちは世界を彼女が狂っているというそれだけの理由から彼女から取り上げ、〈丸顔のカウディーリョ〉にくれてやってしまった。そのかわり、彼女は僕たちから六角形を取り上げた。六角形が世界から消えた日、誰もが取り返しのつかないことをしてしまったと怯えたのに、実際に六角形が消えたことでかぶった不利益がないことに気がつくと、僕たちは消えたのが〇や□でなくてよかったとうそぶいた。そのとき、北の果てでは寒気が氷の結晶をつくろうとして失敗していたのだけど。

 そのうち、僕たちは自然のなかの変化に気づいた。蜂が巣をつくらなくなった。蜜を貯めることもなく、蝋をつくることもなくなった。僕たちが彼女から全てを取り上げたあの日から、はちみつは存在することをやめてしまった。

 僕たちは紅茶に入れる甘いものが欲しいとき、丸いサッカリン錠しか頼ることができなくなった。六角形とともに蜂の巣が消えてしまったのだ。彼女が僕たちに下した呪い。世界を取り上げた僕たちに対し、彼女ははちみつのない世界をゆだねた。

 彼女から世界を取り上げたとき、彼女は僕たちに忠告もしなかった。彼女の目には遠い昔に死んでしまった夫の姿しか見えなかったのだ。美男で修道院の尼さんたちにまで手を出し、彼女をさんざん悩ませた浮気性の夫。彼女にとっての大切なはちみつ。彼女から世界を取り上げることがああも容易く行われたのは彼女が世界を打ち捨てていたからに過ぎなかった。

 はちみつを求めて多くの船乗りたちが西の海の果ての瀑布へと消えていった。ただひとりのジェノバ人を除いて。

 国じゅうの人たちが港へ押しかけた。僕たちは新世界からもたらされたものが一つ、また一つとジェノバ人の船から運び出されるのを見た。トマト。タバコの葉。梅毒。鋳つぶされた金。掘り出された銀。ドル紙幣グリーンバック。ハリウッド映画。コカイン。民主主義。バスク人が描いた爆撃された町の巨大な絵。

 だが、はちみつはなかった。

 葬列がまた一つ。また一つ。また一つ。

 テレビが映し出す国葬がまた一つ。また一つ。また一つ。

 教会の奥に横たわる大理石の似像がまた一つ。また一つ。また一つ。

 はちみつのない辛さを死でかわそうとした人たちが選挙を行う。国は二つに割れ、兄弟が殺し合い、親子が殺し合った。国の半分では司祭が神聖視され革命家が殺された。残り半分では革命家が神聖視され司祭が殺された。ジェノバ人が持ち帰った絵の通りに町が爆撃され、人間と家畜がちぎれ、つぶれ、溶けあい、全ての法則が無視された。はちみつのない戦争が数多の小説を産み、数多のハリウッド映画が産まれ、全ての殺し合いが終った後、遠い昔に世界を手にしていた〈丸顔のカウディーリョ〉がまた世界を手にして、生まれ変わる。

 だが、はちみつはなかった。

 はちみつよ。

 死すらも甘美に飾り立てる術を知るはちみつよ。

 僕たちの後悔を、懺悔を彼女に伝えて欲しい。

 濃厚な光のなかに未来を写す術を知るはちみつよ。

 僕たちを許してくれるように取りなして欲しい。

 めぐりあう夜空の星辰を従える術を知るはちみつよ。

 どうかお願いだ。僕たちから世界をまた受け取るように彼女をそそのかしてくれ。

 そして、六角形を僕たちに授けてくれ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ミツバチが凄い勢いで数を減らしている現代も…って続けられそうですね。 色々考えさせられました。 [一言] (三十と一夜の短篇第30回)に遅刻したのに、厚かましく参加させてもらいました 3…
[一言] ハチミツとクローバーだとか。スピッツのハチミツだとか。題名からそんな想像をして読んだら、のっけからノックダウンされました。 六角形のない世界で、雪が降らなくなったら…… たまらない気持ちにな…
[一言] 毎度楽しく拝(ふるいにかけたらこぼれ落ちる側なので遠慮がちに)読しております。 例の?謎の作家集団説ですねー、緻密でキレッキレというのが全人格標準仕様でもあんまり表を張らない実茂氏が本日はソ…
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