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帝国変換  作者: ありあけ
序章
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関東大震災後

西暦1923年


 この年の9月1日、関東大震災が起こった。


 しかし、この日は既に転移メンバーによって10年以上前から防災の日とされていたので、史実よりは被害を抑える事が出来た。


 また、横須賀に駐留していた軍艦らもこの日は“何故か”地震中は一斉に訓練をしていたので、史実のように地震に巻き込まれる事はなかった。


 そして、この軍艦らは“何故か”食料や医薬品を大量に積んでいたので、地震直後にすぐさま現場に駆け付けて救助を行う事が出来た。


 更に呉や他の鎮守府からも長門や主力戦艦らが食料や医薬品を満載にして駆け付けて来た為、救難活動は迅速に進む事になった。


 そして、史実通り、諸外国からも救援物資が送られてきた為、どうにか関東大震災を乗り切る事が出来ていた。


 だが、それでも死者行方不明者は一万人近く出ていた。


 が、史実ではこの10倍以上だった事を考えると、上出来と言えるだろう。


 亡くなった人達の遺族の前では決して言えないが。


 また史実では起こったとされる朝鮮人の暴動も、そもそも朝鮮人が日本国内に殆ど居なかった事も相俟って、発生しなかった。


 これは実質英国の植民地となっている朝鮮半島から逃げてきた人間を海上警備隊の巡視船や警察が逮捕して朝鮮半島に強制送還しているからだ。


 ちなみに海上警備隊とは、1908年に発足した海上警備庁に所属する組織であり、史実の海上保安庁の役割を担っている組織である。


 その人員は海軍の予備役の人間や退役軍人の中の志願者で構成されているが、それ以外にも軍隊などと同じように民間から人をかき集めてもいた。


 そして、この組織の発足により、海軍の領海警備の仕事を軽減させ、領海警備を理由にした“余計な軍事費”が嵩む事を防ぐ事が出来たのである。


 こうして、関東大震災は無事に切り抜けた。














◇西暦1925年


 関東大震災後、帝都復興の名目で『第一次五ヵ年計画』が発表され、日本はその事業の為に再び好景気に沸いていた。


 史実では軍事費や予算的な問題など、様々な観点からあまり好景気とまでは言えない状況だったが、この世界の大日本帝国では軍事費が抑えられていて、史実よりも経済力が強化されていた為、好景気に沸く事が出来た。


 この第一次五ヵ年計画により、日本の工業力、経済力はかなりアップする事になる。


 またこの年、実験艦『夕張』が竣工したが、この艦は史実とは異なり、ガスタービン機関を積んでいた。


 ガスタービン機関はジェットエンジンと同じ構造であり、現代の海上自衛隊の艦艇にも使われている機関である。


 ガスタービン機関は小型高出力で瞬発性が高く、シフト配置もやり易いが、同時に燃費が(他のエンジンよりは)悪いという性質を持っている。


 つまり、戦闘特化型のエンジンと言っても良かった。


 そして、その燃費の悪さも他のエンジンに比べれば、というだけに過ぎない。


 20世紀後半から21世紀にかけては燃料効率の良いガスタービン機関も開発されている。


 まあ、そうでなければ自衛隊の艦艇に配備などされないだろうが。


 ちなみにこのガスタービン機関だが、既に1903年にはノルウェーのエリングによって基礎理論が出来ていた。


 史実では1930年にフランク・ホイットルが特許を取ったが、本人はエリングの技術を知っていれば、10年は早く造れただろうと語っている。


 そして、この世界では春川幸一によって前年の1924年に完成していた。


 そうしてこの実験艦『夕張』に載せられたという訳である。


 ちなみに今後の計画では、全艦をガスタービン機関に換装する計画であった。


 その為に軍艦、特に大型艦艇の建造は暫くの間、凍結される事となっている。


 しかし、これは海軍の強硬派の反対にあった。


 だが、どのみちワシントン会議の影響で大型軍艦の増強は不可能な為、表立っては特に行動しなかったが、海軍強硬派の不満は少しずつ溜まっていくのである。


 そして、前年の1924年、八木・宇太アンテナが史実よりも2年早く開発された。


 更にマグネトロンも同年の数ヵ月後に開発された。


 此方は史実よりも3年早い。


 これは日本の科学技術や国力が主に転移メンバーの働きによって向上し、このようになったのだ。


 転移メンバーはこの変化に驚くと共に、双方の特許を即座に確保し、情報が海外に漏れないようにした。


 そして、この年の8月15日、また1人の転生者が現れた。


 名前は青木重信。


 どうやら電子工学の専門家らしかった。


 彼も事情を話した結果、協力してくれる事になり、日本の電波技術はたいぶ進歩する事になる。


 しかし、夕季は疑問に思っていた。


 これまで転生した転生者は、自分を含めて事情を話したら何故かすぐ協力的になってくれる人間ばかりだ。


 もしかしたら、自分達を転生させている何者かが大日本帝国の発展に協力的な人材を意図的に送っているのかもしれない。


 夕季はそう思いながら、今日も艦隊勤務に没頭していた。















◇1927年


 史実通り南京事件が起きる。


 だが、史実とは違い、日本軍は英米と協調して懲罰に動いた。


 日本海軍からは長門が投入されるという徹底振りだった。


 日本としては中国に権益を持っていなかった為、別に不干渉政策でも良かったのだが、曲がりなりにも大使館が襲撃された以上、何らかの行動を起こさないと史実のように嘗められる為、転移メンバーの後押しもあって行動を起こしたのだ。


 そして、この行動によってアメリカやイギリスとの結び付きは更に深くなったのである。


 また同年、空軍が発足し、海軍は艦載機、陸軍は近接航空支援用の襲撃機の航空機開発に絞る事になる。














◇1929年


 この年は世界恐慌が起きた年だったが、有栖川財団(第一次世界大戦中に企業の規模が大きくなり、財団の名称となった)は事前にアメリカ株の大量の空売りを行っていた為、被害が出るどころか、逆に大量に儲けていた。


 当然未来知識からそれを行ったので、やっている事はインサイダーそのものなのだが、それを咎める事が出来る者はこの時代には転移メンバー以外に誰も居なかった。


 そして、史実では経済的に大打撃を受けた東北であったが、この世界では有栖川財団が東北に工場などを建てて重工業化させていたので、東北の人々はそこに働き口があり、尚且つ有栖川財団が世界恐慌によって潰れるどころか逆に大儲けをしたので、東北の経済は史実より比較的安定していた。


 ただ、農家の大打撃は流石に防げなかった。


 だが、これは有栖川財団が東北の工場の拡大や新たな働き口を提供する事で、どうにか史実での娘の身売りや欠食児童は防ぐ事が出来た。


 そして、政府の方はと言うと、光太郎の進言によって金解禁はされず、おまけに金本位制を早い段階で破棄したので、史実で起きた金流出は防がれ、また有栖川財団が有望な中小企業に融資を行う事によって比較的経済が安定し、第二次五ヵ年計画を立てる事が出来た。


 が、史実よりは被害が圧倒的に少ないとは言え、世界恐慌によって潰れた企業も多かった為、予定より少し遅れる模様だった。


 ロンドン海軍軍縮条約は史実通り補助艦の保有数にも制限が掛かった。


 此方は重巡、潜水艦の保有率が希望に達した為、海軍強硬派は特に反対しなかった。
















◇1936年


 世界恐慌から漸く日本経済は態勢を立て直し、好景気が続いた。


 1935年8月15日には新たな転生者、有村信一郎が現れた。


 彼も例によって、事情を説明したら、喜んで大日本帝国の発展に協力してくれる事になった。


 彼はエンジンの専門家らしく、エンジン関係に詳しかった為、これから開発する大日本帝国のジェットエンジンの開発に役立ってくれるだろう。


 満州事件も起きていない為、国際的な孤立も無かった為か、日本では平和な日々が続いていた。


 1932年には史実通り5、15事件も起き掛けたが、此方は内務省要人警護部と公安部によって防ぐ事が出来た。


 しかし、この年、史実通り2、26事件が起きてしまう。


 だが、史実よりも事件の規模は小さかった。


 そもそも史実の2、26事件は東北や地方出身の将校がそれらの地方を経済的に助ける為に起こしたクーデターだったので、この世界ではそれほど経済的打撃を受けていない為、特にこれといって反旗を翻そうと思う将校は少なかったのだ。


 しかし、それでも農家が打撃を受けた為か、反旗を翻そうとする将校も居た為、こうして事件が起こってしまった。


 だが、先にも書いた通り、史実よりも規模が小さかった為、10年程前に発足した警視庁機動隊にあっという間に制圧されてしまい、結果、事態を聞いて駆け付けた昭和天皇率いる近衛師団が駆け付けてくるまでに警視庁によって鎮圧される事となる。


 しかし、これは陸軍だけの話であり、海軍の中にも2、26事件に便乗しようという輩が現れた。

 

 何故そうなったかと言うと、原因は第二次ロンドン海軍軍縮条約である。


 この世界の日本は史実とは違い、第二次ロンドン海軍軍縮条約に調印した。


 内約は前回の海軍軍縮の現状維持だった。


 これに海軍内部は特に不満は無かったが、海軍強硬派が激怒してしまい、2、26事件の際に海軍強硬派の一部が暴走し、中には艦隊を動かして陸軍と同調しようという動きが出たが、海軍警務隊によって速やかに鎮圧され、これ以降、海軍強硬派は支持を失う事になる。


 以上が2、26事件全体の顛末である。


 一方、日本の経済発展は第二次、そして、第三次五ヵ年計画と岡部の協力によって更に加速し、イギリスやアメリカがマイナス成長を続ける中、日本はV字回復を遂げていた。


 イギリスやアメリカではブロック経済に入っていたので、V字回復を遂げた日本に熱い視線を注ぎ、日本は考慮した結果、なんと両方の陣営に参加する事となった。


 そして、日本が行ったのが双方の陣営での爆買いであった。


 日本は鉄道の狭軸を広軸に直すなど、金の掛かる事業を行っていた為、双方の陣営から資材や機材などを仕入れる必要が有ったのだ。


 また、それに伴って、イギリスやアメリカから様々な工業機械などを次々と買い取っていた為、日本の工業力は跳ね上がっていた。


 そして、反対にアメリカやイギリスに日本から輸出したのは車だった。


 それも高級車とは違い、中産階級の人間でも買える大衆車だった。


 これは多いに売れ、アメリカやイギリスの自動車産業は悲鳴を上げる事となったが、日本を締め出す事は経済的に不可能だった為、両政府は見てみぬ振りをするしかなかった。


 その様相は正に史実の高度経済成長期の様相だった。


 そして、それに伴って軍事費も増えていき、海軍は既存の軍艦の近代化改装、レーダー、ソナーなどの補助設備の増強などが続々と出来ていた。


 陸軍の方はと言うと、機械化部隊の増設や装備の更新が滞りなく進んだ。


 以上のように日本は平和だったが、ヨーロッパの方ではきな臭い事になっていた。


 まずドイツは1935年に史実通り、再軍備宣言を行った。


 その一ヶ月後には、日本にラパッロ条約破棄を通告し、ドイツの技術者達は国に帰った。


 そして、1935年末にオーストリアを併合した。


 更に1936年に入ると、ドイツはミュンヘン会談を行い、スデーデン地方を獲得し、その更に数ヵ月後にはチェコを占領して保護国にした。


 しかも史実通り、スペイン内乱に介入しながらである。


 このあまりに早すぎる展開に転移メンバー達は驚きながら対策を練ったが、事がヨーロッパなだけになかなか事件に介入する機会が見付からず、ドイツに次の手を打たれてしまう。


 1937年4月23日、独ソ不可侵条約が結ばれる。


 そして、1937年8月1日、ドイツがポーランドに侵攻。


 史実よりも2年以上早く第二次世界大戦が始まった。

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