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帝国変換  作者: ありあけ
序章
3/42

第一次世界大戦後

西暦1917年 欧州 巡洋戦艦『金剛』 艦橋



「ふぅ。金剛は今日で日本に帰るか」



 夕季はそう呟きながら海を見詰めた。


 さて、夕季がどうして欧州に居るかと言うと、それは彼が軍に入隊したからだ。


 西暦1915年8月15日に新たな人間が転移してきた。


 その人物の名は岡辺光太郎。


 聞いたところ、経済学の専門家だという事だ。


 幸一と同じように説明したところ、喜んで大日本帝国の発展に協力してくれる事となった。


 そして、この事から転移者は10年毎に来ると分かった。


 しかし、夕季は技術者では無かったので、仕事は殆ど2人に任せきりだった。


 夕季も何かしらの役に立ちたいと思い、考えた結果、軍隊への入隊を決意した。


 ゼロの幹部達は反対したが、ここで軍内部で発言力を持っておこうと考えた夕季はその意見に耳を貸さなかった。


 結果、彼は大日本帝国欧州派遣軍特務参謀として、『金剛』に乗り込んだ。


 機密の関係上、書類上は少尉候補生だったが。


 しかし、艦隊の司令官クラスは兎に角、参謀達は夕季の事を知らない人間が殆どだった為、夕季に怪訝な表情を向けていた。


 だが、夕季はそれを気にせず、必死に将兵と共に艦隊勤務を行って、艦隊将兵からある程度の信頼を得ていた。


 そして、欧州派遣艦隊はユトランド沖海戦を迎えた。

 

 だが、この時点で歴史が史実とは解離し始めていた。


 まず第一次世界大戦だが、日本の参戦と数ヶ月間の行動については史実通りだった。


 南洋諸島を占領し、青島に攻め込んだ。


 ここまでは史実通りである。


 が、それ以降が変わっていた。


 なんと、日本が戦艦や陸軍を含む兵力を欧州に派遣したのだ。


 これにより、日本軍は欧州の総力戦というものを肌で感じ取る事となった。


 海軍は最終的に扶桑型戦艦4隻とイギリスに発注していた金剛型戦艦一番艦の金剛、日本で建造された4番艦霧島を派遣していた。


 どうして金剛型一番艦をイギリスに頼んだかと言うと、日本にはまだ高出力エンジンが無かった為で、高速が特徴の金剛型戦艦を造るのが難しかったからだ。


 幸一が必死に頑張ってはいたが、彼も技術者ではあったが、エンジンの事については触り程度しか知らなかった。


 どちらかと言うと、彼は溶接や設計などの工作部門が専門であったからだ。


 他の分野も出来る事は出来たが、如何せん専門の技術者には敵わなかった。


 まあ、それでも大日本帝国に入ってくる技術としては凄いのだが。


 そんな感じで、金剛型戦艦についてはどうしてもイギリスで発注して貰う必要があった。


 だが、2番艦から4番艦については史実の技術者の協力もあり、史実より早くに建造できた。


 そして、欧州に派遣されたのは扶桑型4隻と金剛型2隻。


 日本の戦艦がこの時全部で8隻だった事を考えると、全体の75パーセントの戦力投入だった。


 ちなみに金剛型2番艦比叡と3番艦榛名は日本本土に待機だった。


 流石に本土を丸裸にする訳にはいかない。


 そんなこんなでユトランド沖海戦が起き、日本の上げた戦果は以上だった。


・戦艦5隻撃沈、巡洋戦艦3隻撃沈、巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦8隻撃沈、他大中小破多数。


 逆に被害はこうだった。


沈没・・・戦艦扶桑、日向。巡洋戦艦霧島。巡洋艦2隻。駆逐艦8隻


大破・・・戦艦山城。巡洋艦3隻。駆逐艦2隻。


中破・・・巡洋戦艦金剛。


小破・・・戦艦伊勢。巡洋艦2隻。


 という凄まじいものだった。


 これに加えて、ユトランド沖海戦からの帰り道、戦艦伊勢が潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没した。


 この時代の潜水艦の魚雷は大した性能では無いのだが、どうやら当たりどころが悪かったようだった。


 これを受けた日本海軍は以後、対潜戦術を猛烈に研究する事になる。


 そして、イギリスは日本の上げた戦果と被害に絶句しながらも、同盟国を頼もしく思った。


 しかし、この海戦を持って日本海軍欧州派遣艦隊はほぼ壊滅し、残存艦艇は修理の後に日本に戻る事となった。


 だが、陸軍は終戦まで欧州に留まり、多大な被害を出しながらも、近代戦というものを学習する事になる。


 そして、夕季はなんとかユトランド沖海戦を生き残った。


 しかし、彼の欧州の仕事はこれで終わりではない。


 この後は陸軍に顔を出す為に、フランスに行かなければならないからだ。



「・・・向こうは大丈夫かなぁ」



 夕季はそう呟きながらある一方の空を見た。


 それは東だった。
















◇1917年 7月15日 エカテリンブルク イパチョフ館


 ここエカテリンブルク、イパチョフ館ではロマノフ皇帝一家が監禁されていたが、そのイパチョフ館を取り囲む影があった。



「さて、そろそろ作戦開始だ」



 影の1つが他の“影”に向かってそう呼び掛けると、他の“影”も頷いて各々の得物を構える。


 そして、ゆっくりとイパチョフ館に近づく。


 表には見張りが立っていたが、完全に油断しているようで、あっという間に“影”に無力化されていた。



「よし、行くぞ」



 リーダーらしき“影”が簡潔にそう言うと、他の“影”が一斉に突撃していく。



「な、なんだ!こいつらは!!」



「撃て、撃て!!」



 中を警備していた警備兵がそれに“影”の侵攻に対応しようとしたが、あわてふためいている為か、銃弾がなかなか命中しない。


 そうこうしているうちに、“影”が持っていた銃やナイフによって警備兵は次々と殺害されていく。


 そして、1分後、警備兵の悲鳴や怒声は聞こえなくなった。



「片付いたな。では、対象の確保をしよう」



 “影”の方にも多少の被害が出たが、作戦続行に支障が無い範囲であった為、“影”の集団はそのまま目当てであった対象の確保を行う事になった。


 そして、それは見付かった。



「なんだね?お前達は」



 ニコライ。


 半年前までロシアの皇帝であり、今はこうして囚われの身となっている人物であった。


 よく見れば、10代後半から20代前半らしき女性が寄り添っている。


 多分、四人の皇女の内の1人だろう。


 ニコライのその質問に対し、先程のリーダーらしき“影“が答えた。



「これは失礼しました。自分は大日本帝国陸軍所属、山田大尉であります。訳あって本名は名乗れませんが、どうかご容赦を」



 山田と名乗ったそう答えた。


 だが、彼らの所属は実は大日本帝国陸軍ではない。


 大日本帝国“特殊作戦郡”の人間である。


 彼らは何時如何なる時も任務の過程で自分の本名と本当の所属を名乗ってはいけないと教育されているので、この状況でも本来の所属は明かさなかった。


 まあ、ニコライはそれを知るよしも無かったが。



「・・・ヤポンスキーか。私をどうするつもりだ?」



「陛下にはこのまま日本に来ていただきます。・・・ああ、ご安心を。悪いようには致しませんので」



「貴様は私が日本で受けた仕打ちを知っていて、言っているのか?」



 ニコライの言っている仕打ちとは、大津事件の事である。


 実はニコライは、日本を訪れた事が有ったのだが、その際にとある巡査に襲撃されていて、重傷を負ったという過去があったのだ。



「もしワシが来ないと言ったら、どうするつもりだ?」



「・・・強制的に来ていただきます」



 山田はそう答えた。


 最早、選択肢はしない。


 そう確信したニコライは山田の言葉に頷くしかなかった。


 

「・・・分かった。行こう」



「ありがとうございます」



 こうして、ニコライ一家はイパチョフ館から救い出された。
















◇1919年 


 この年、パリ講和会議が行われ、日本を含む連合国の勝利が確立された。


 ドイツは史実通りに多大な賠償金を強いられたが、日本は史実通りの南洋諸島を手に入れるだけで賠償金は要求しなかった。


 これはこの年にある秘密協定をドイツと結ぼうと考えていたからだ。


 これは後にラパッロ条約と言われる事になるが、これがどういう条約かというと簡潔に言えば、日本にドイツ人技術者をドイツから派遣して、日本が予算を出し、そのドイツ人技術者に兵器を造らせようというものだった。


 ドイツにとっては技術を温める事が出来るし、日本の予算で兵器開発がされる為、金も掛からない。


 ただ、それはドイツの軍事技術がそっくりそのまま日本に流れるという事でもあったし、その逆も然りだった。


 つまり、双方にとって得にも損にもなる条約だった。


 だが、結局、ベルサイユ体制によって軍事ががんじがらめにされたドイツは最終的に日本とのラパッロ条約を結んだ。


 時に、1920年の出来事である。


 ちなみにラパッロ条約は史実でもあったが、それはドイツとソ連が対象の条約だった。


 つまり、ラパッロ条約が日本とドイツの条約になったという事は、必然的にソ連と関係を持つ必要性が薄れてくるという事である。


 その為、ドイツは日本との協定を破棄されないようにソ連との協定は結ばない事に決めていた。


 元々、共産主義国家で馬が合わないという事もあったが。


 そして、パリ講和会議は日本の賠償金の他にもう1つ史実とは違っていた事があった。


 それは山東省の中華民国への返還である。 


 流石に少しなりとも血を流した為か、無償という訳にはいかなかったが、それでも返還を行ったのは大きかった。


 特に中国と朝鮮に権益を持つイギリスとアメリカには。


 そして、この第一次世界大戦の戦訓により、情報重視が掲げられた。


 日本軍は総力戦になれば戦力があっという間に溶けてしまうのが、嫌という程分かった。


 その為、とてもでは無いが、情報軽視などという事は言っていられない。


 今回の第一次世界大戦の戦訓から、情報次第で戦局が大きく左右されると分かったからだ。


 元々防衛省内にも情報部はあったが、第一次世界大戦に参加した将兵からそれだけでは不足であると指摘され、転移メンバーの後押しもあり、1923年に官民問わずの情報機関である大日本帝国中央情報局が設立された。


 名前からしても分かると思うが、これはアメリカのCIAがモデルになっている。


 更に防諜組織兼統合捜査警察機関として大日本帝国中央捜査局が設立された。


 これは表向きは内務省に属しているものの、組織の構造上、半ば独立した警察組織となっている。


 言うまでもなく、此方はFBIがモデルである。


 そして、脱出したニコライ皇帝一家にはシベリア東部にロシア帝国を建国して貰った。


 これをイギリスやアメリカなどが承認したが、当たり前だがソ連は認めず、シベリア東部奪回の為に軍を起こした。


 だが、ロシア帝国を日本が支援した事で、ロシア帝国はソ連の行動に耐えた。


 日本、特に転移メンバーとしてはソ連と国境を接するなど、国防の面からしても真っ平御免だったので、この支援は力強く行われた。


 その結果、1922年にソ連の承認と引き換えにロシア帝国の承認をソ連に認めさせた。


 ワシントン会議では史実とは違い、日英同盟の破棄はされなかった。


 これは第一次世界大戦の影響もあったが、英国でのアジア利権、特に朝鮮半島の権益が日本のすぐ隣にあるという事もあり、なかなか同盟破棄に踏み切れないという事情もあった。


 そういう訳で、日英同盟は破棄されなかったのである。


 そして、問題は海軍軍縮だった。


 この時点で日本の戦艦は先の戦いで生き残った山城、金剛、比叡、榛名に加えて、新たに竣工した天城、赤城、長門、陸奥、加賀、土佐の10隻だった。


 岡辺の協力もあり、大日本帝国の経済力は史実よりもかなり上回っており、史実ではこの時完成していなかった戦艦まで完成できていた。


 当然、史実のように対米英6割になれば、この戦艦の中の1隻は破棄(または英米戦艦の追加建造の承認)を余儀なくされただろうが、先の大戦の働きもあり、どうにか対米英七割が認められ、破棄されずに済んだ。


 そして、空母だったが、この時はまだ“世界”初の空母として鳳翔が竣工していただけだった。


 だが、対米英七割が認められた事と赤城や加賀がそもそも空母に改装されなかった事もあり、新たな空母を建造できた。


 これが蒼龍型空母4隻(蒼龍、飛龍、紅龍、洋龍)だった。


 この4隻の船は史実の改飛龍型空母である雲龍型の拡大版で、基準排水量は1万8000トンだった。


 ちなみに何故史実のように戦艦を改装しなかったかと言うと、これは夕季の戦艦改装空母に対する拭いがたい不信感から来ていた。


 何故なら、史実の戦艦改装空母は日米含めてどいつもこいつも大した活躍を残していない。


 レキシントンは開戦五ヶ月、赤城・加賀は開戦半年で沈んだし、サラトガに至っては2度も日本潜水艦に大破させられ、戦争終盤には特攻機に突入されて大破した為、戦争を行った期間より修理期間の方が長かった、と言われるほどである(もっとも、全体的な期間からすればそれは間違っているが、ミッドウェー海戦や南太平洋海戦などに参加しておらず、主要な戦いを行っている数は少ない為、あながち間違ってもいない)。


 そして、サラトガは最終的にクロスロード作戦にて悲惨な最期を遂げている。


 つまり、戦艦改装空母は大した活躍も残していなければ、縁起も悪かったという事になる。


 これならば、史実で妹艦を庇って毎回被弾していた某空母の方がよっぽどましである。


 加えて、転移以前から感じていたが、史実の改装空母は戦艦に限らずどれもこれも脆かったり、欠陥が有ったりしていたので、それを分かっていた夕季は、それなら1から空母を造った方が良いと考えたのだ。


 しかし、大正時代の技術では、いきなり翔鶴型空母は生み出せない。


 そこで考えられたのが、史実の簡易正規空母である雲龍型だ。


 戦時中に造られた為、構造が簡単になっており、大正時代の造船技術でも生み出せる。


 ただ、戦争中でも無いのにそのまま真似するのはどうかと思ったので、その拡大型が設計された。


 と言うのが、蒼龍型空母が建造される事になった理由である。


 以上がこの世界の第一次世界大戦後の大半の流れであった。


 そして、日本は1923年9月1日、関東大震災を迎えた。

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