日露戦争後
西暦1905年 大日本帝国
あれから、10年。
大日本帝国は史実通りに日露戦争に勝利した。
いや、完全に史実通りとは言えない。
史実の日露戦争よりも遥かに小さな被害で、ロシアに勝利したのだから。
講和条約は樺太全土の割譲と5億円の賠償金(表向きは日本軍によって占領された東清鉄道の買取り)が手に入った。
賠償金が手に入ったお蔭か、史実のような日比谷焼き討ち事件は起こらず、賠償金の少なさに対する大規模な抗議活動で済んでいた。
夕季は1895年以降、持っていたスマートフォンやノートパソコンを使い、活動し続けていた。
普通なら、とっくの昔に電池切れになっても可笑しくなかったのだが、何故か液晶部分の残高電池がいつまで経っても減る機会が無く、10年経った今でも稼働し続けていた。
だが、そのお蔭か史実の大日本帝国の技術分野は幾分かショートカット出来た為、経済発展と軍事力強化が史実より幾分か進んでいた。
もっとも、軍事分野に関しては史実38式小銃が日露戦争に間に合った事や、継戦能力の幾分かの上昇ぐらいしか出来なかった。
軍艦に至ってはどうしようも無かった。
どう造るにしても金が掛かり、更に日本は大型艦の建造ドッグが無く、戦艦はイギリスから輸入するしか無かったからだ。
まあ、小型艦の建造については色々と出来たが。
こんな感じで、僅か10年ではその行動は限られたものだったのだ。
そして、夕季は独自に資金源が欲しかったので、有栖川商会という会社を造っていた。
とは言え、派手に動く事は余計な軋轢を産む為、慎ましい行動を心がけたが、10年の間に着々と大きくなっていた。
そして、明治天皇は夕季が活動した時と同時に、天皇直属の秘密機関を創設していた。
名前はない。
名前が有るからこそ、秘密が漏洩する可能性がある。
そのように考えたからだ。
だが、この機関の事を所属しているある者はこう呼んだ。
天皇直属秘密機関“ゼロ”、と。
◇大日本帝国 某所
「「「乾杯!!」」」
大日本帝国の某所の料亭。
そこではある者達が、この戦争の勝利を祝って祝杯を上げていた。
天皇直属の秘密機関“ゼロ”の幹部達である。
「いや、有栖川君、ご苦労だったな」
有栖川にそう声を掛けたのは、山縣有朋。
言うまでもなく、史実の英傑の1人であり、この度の日露戦争でもかなりの功績を残している。
「いえ、僕に出来たのは日本の国力を幾分か上げた事と、被害を出来るだけ小さくするように工作した事だけですよ。勝利そのものは皆さんの努力のお蔭です」
夕季は謙遜したように言った。
実際、夕季が出来たのはあまり大した事では無かったが、被害を大幅に小さく出来たのは行幸だった。
「しかし、これからが大変でごわすな」
日本海の英雄、東郷平八郎はそのように述べたが、それは間違っていなかった。
これから第一次世界大戦の9年間で工業力、経済力、軍事力の増強という問題が降り掛かってくる。
何故なら、日本も第一次世界大戦に参戦するのだから。
しかも、これだけではない。
政策だけで言えば、憲法改正、農地解放、満州、朝鮮の利権の売却、それによる海外の借金の返済と内地の発展、樺太の開拓、防衛省の設立、教育制度の改革など、やることは幾らでもある。
「ええ。不幸中の幸いだったのが、春川の奴が転移してきてくれた事ですよ」
実はポーツマス条約の1ヶ月前の1905年8月15日、夕季の親友であった春川幸一が10年前の夕季と同じように皇居に転移してきた。
最初は驚いていた幸一だったが、夕季がこの世界について説明した結果、協力してくれる事となった。
それなりに優秀ではあったが、ただの軍オタであった夕季と違い、幸一は工作部門の技術分野をよく学んでいた為、今後の大日本帝国の発展に役立ってくれるだろう。
早速、働くと言っていた為、今、この場には居なかったが。
「・・・それにしても、君は10年前の時から、容姿がまったく変わらんな」
桂太郎がそのように言った。
そう、何故かは分からないが、夕季の容姿は転移した10年前とまったく変わっていなかった。
お蔭で夕季は10年前の歳である18という歳の若さを維持する事が出来ていた。
「さて、気合いを入れ直して、明日からも頑張ろう」
夕季はそんな決意をするのだった。
◇西暦1914年 6月28日
あれから更に9年の時が経った。
夕季は幸一と協力して日本を発展させていった。
そして、明治天皇の協力によって憲法改正と農地解放が出来た。
前者の憲法の改正は具体的に言うと、ほぼ日本国憲法を踏襲したものだった。
しかし、第9条は削除されている。
当たり前だが。
統帥権の独立が遮られる為、軍部から反発は起きたが、天皇の御聖断により反発を強引に押さえ込んだ。
だが、このままでは史実の5、15や2、26のような事件が起きてしまうので、内務省に公安部と警備部を設置し、不穏分子の摘発と要人警護を行う部署を創り、これに対処する事にした。
そして、後者はこれまた天皇の御聖断によって強引に行った。
此方も地主の反発は起きたが、大多数の小作人によってこの政策は支持され、大した事は起きなかった。
次に朝鮮と満州の利権の売却だが、これについてはかなり問題が起きた。
この時代の日本人にとっては満州や朝鮮の利権は日本人が血を流して手に入れた物、と考える人間が多かったからだ。
だが、軍隊を使ってのマスコミへの“話し合い”によってなんとか国民世論を韓国と満州から引き離すように工作する事が出来た。
表向きの理由としては新たに手に入れた樺太の開拓に忙しく、朝鮮まで手を出している余裕は無いというものだった。
しかし、本当の理由は史実でも日本が苦慮した朝鮮と満州の治安の悪さである。
何せ、盗賊や義兵が大量に蔓延っている場所なのだ。
そんな場所で安心して開拓など出来る筈もなく、特に朝鮮では長年義兵が出現したのも相俟って、経営は常に赤字だった。
皇民化政策を史実よりも早く行うという手もあるが、やはり問題の多さは無視できない。
なので、朝鮮の利権を売れるうちに売ってしまおうと考えたのだ。
ちなみに売ったのはイギリスだった。
これはアメリカに売ってしまうと、万が一日米戦争が起きた場合に挟み撃ちに遭う上に、本土が危険に晒されてしまうので、アメリカに売却するのは却下したのだ。
イギリスに売った場合でも日英戦争が起きた場合に本土が危険に晒されるかもしれないが、少なくとも挟み撃ちは無いし、地政学上、アメリカよりはよっぽどマシだった。
当のイギリスは日本が自国の裏庭である朝鮮を売り払った事に驚愕していたが、喜んで高値(イギリスからすると安値)で買い取ってくれた。
お蔭で日露戦争での借金が無くなり、加えて朝鮮開発の為に日本に大量の製品を発注した事も相俟って、日本の経済発展は加速した。
これは満州の利権を売却した相手であるアメリカでも同じ事が言えた。
両国は大国ではあったが、東アジアからは遠く、どうしても輸送費などが嵩んでしまう。
そこで輸送費が安値で済む日本に開発の為の製品の発注を行う事にしたのだ。
これに加えた夕季達の協力により、日本の経済発展は加速し、それは軍事にも影響が出た。
なんと、扶桑型戦艦が史実よりかなり早い1909年に就役したのだ。
この扶桑型戦艦は史実とは違った設計になっている。
例えば、主砲の砲配置だ。
史実では35、6センチ連装砲を前部に2基、中部に2基、後部に2基の計12門となっていたが、この世界では金剛型戦艦や長門型戦艦のように前部に2基、後部に2基の計8門となっている。
中部の砲台は、はっきり言って役に立たないからだ。
砲力は落ちたが、その代わりに防御力は史実より強化されており、長門型よりは下だが、少なくとも金剛型よりは頑丈になっていた。
これなら、ユトランド沖海戦でもある程度活躍出来るだろう。
2番艦山城も1910年には竣工して、3番艦4番艦である伊勢、日向も1912年までには竣工する。
ただ、この戦艦は香取型、河内型、薩摩型などをすっ飛ばす形で建造された為、各国に衝撃を与えた。
だが、イギリスとアメリカ以外の反応は特に無かった。
最近、日本との接触が多い両者は日本の発展に驚愕しており、扶桑型戦艦は十分に脅威になると考えていた。
が、特に行動は起こさなかった。
イギリスは日本と同盟関係を結んでいたし、アメリカの方も戦争後の満州の利権売却の約束を守ってくれていた為、特に日本との関係は悪化していなかったからだ。
その他の国に至っては別に興味は無かった。
ロシアはそもそも海軍が壊滅していたし、他の列強に至っては日本という国は所詮東洋の田舎の国家だったのだ。
内地の発展については幸一の協力もあり、急速に進んでいた。
好景気と夕季が日露戦争前から行っていた下準備によって、扶桑型建造の為の大型ドッグが1906年には完成し、扶桑型を建造する事が出来た。
これには史実では薩摩型、香取型、河内型に割かれたリソースが扶桑型とその建造ドッグに集中したというのも手伝っていた。
そして、民政面では地方の近代化は急務だった。
史実の東北では1930年前後の豊作と不作によって、農業が主な仕事だった地方は大打撃を受けたのだ。
これにより、娘の身売りや欠食児童などが横行するほどだった。
これを考えると、地方の経済、農業の近代化は急務だった。
ただ、大半の企業は英米向けの製品の発注に忙しかった為、既存の企業を動かす事は難しかったので、有栖川商会が地方に進出する事で地方、特に東北の近代化を行っていた。
1907年の防衛省の設立については特に問題が起きなかった。
いや、出来なかったと言った方が正しいだろう。
なにしろ、設立の名分が『陸海軍を統合し、国防を効率よく行う為』なのだから。
これに反対する事は、いくら感情面で反対があったとしても難しい。
ましてや、これを提案したのが明治天皇であれば。
そして、教育制度の改革は義務教育を6年から9年に変更した以外は特に変更は無かった。
これは政府にも他にやる事があった為、文部省に予算を割く事が難しく、それくらいの変更しか出来なかったからだ。
以上のような感じで、第一次世界大戦を迎えた。