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9話 神聖なる力、呪縛解く

 黒い巨獣は頭を屈めて、ゆっくりと踏み出す。

 刺突剣を構えるかのように、角のアンジェリカに向けて、狙いを定める。絡み付いた血が角先に集まり、地面にこぼれ落ち、ぽたりと音を立てた。

 取り巻きの獣達は、この開けた場所を取り囲むように、周囲に広がった。絶対に逃がすまいと、強い意思と殺意とを感じるようだった。


(こいつが原因か)


 おそらくアンジェリカの引き裂かれた身体は、この巨獣の角にやられたのだろう。あの角で突き刺され、振り回され、叩き付けられたのであれば、彼女の負った外傷の理由も納得が出来る。

 だが妙なのは取り巻きの獣達だ。アンジェリカには咬傷らしき傷はなかった。なのに獣達の口元からは血に染まっている。まるで肉食獣が草食獣を補食した後のようだ。


 そして、もっと妙なのは自分自身だ。

 象のような巨躯の血濡れの一角狼が、唸り声をあげながら、近づいてくる。取り巻きの狼達に囲まれ、逃げ道は塞がれた。

 人を警戒する事もなく、怯える事もない肉食獣。人の味を知っている捕食者のようにも見える。数分後に自分達がどんな目に遭うのか、想像するのは容易だ。食うものと食われるもの。まさに絶体絶命。

 それなのに焦りは生まれない。冷や汗をかく事もなく、心臓が縮み上がる事もない。腰を抜かし、声にならない悲鳴をあげてもおかしくないはずなのに、心が波立つ事はない。


(何でだろう……恐ろしく感じないな)


 この状況においても、危険を危険だと感じられなくなったのだろうか。まるで危険察知能力が、ごっそりと欠落してしまったようだった。

 旅をしていると危険察知能力に磨きがかかる。人通りの少ない路地だとか、ゴミやガラス類が散乱している場所。妙に雰囲気が悪く感じられ、進むのを躊躇ってしまう建物。治安の悪くない場所と紹介されていても、ここは危険じゃないかと直感が働く事もある。バスの同乗者から飴玉を貰った時も同じだ。それがただの思い過ごしだとしても、自分の身を守るために、自然と警戒してしまっていたはずだ。おかげでホールドアップ被害にあった事はなかった。


(不思議な感覚だ) 


 身の毛もよだつ恐ろしい凶獣……のはず。見た目だけで言えば凶悪そうな面構えだ。腹でも空かせているのか、緩んだ配管のように涎をぼたぼたと垂らしている。

 しかしながら全く脅威を感じられない。愛玩動物の子犬が、どうにか頑張って唸り声をあげているかのような、微笑ましさすら感じる事に、首を傾げてしまう。

 歯もろくに生えていない子犬に噛まれたところで痛みはない。だから威嚇されたとしても恐怖など感じる訳がない。傷を負う心配がないからだ。


 だがこの巨獣には大きな角も、立派な牙もある。人間を刺し殺す事も、噛み殺す事も容易いはずだ。

 それでも危険を感じないのは、この巨獣がそれほど危険ではない、ということなのだろうか。それとも許容範囲を越えた恐怖で、感情が麻痺してしまったのか。疑問を感じながらアンジェリカを見やる。


 彼女は固まっていた。まるで蛇に睨まれた蛙だ。恐怖心に囚われ、抜け出せないかのように見える。

 短剣を掴もうとした手が小刻みに震えていた。呼吸も荒く、息をするだけで精一杯のようだ。悲鳴もあげる事もなく、助けを求める事もない。あるいは助けを求める余裕すらないのかも知れない。


 当たり前の話だ。つい先ほどまで生死の境を、さ迷う傷を負っていたのだ。怖くないはずがない。その傷を負わせられた相手が、再びやって来たのだから、心的外傷も疼くだろう。彼女の恐怖心を考えると、心が締め付けられそうになる。それが例え、変わった性癖を持っている少女だとしても……


 やはり自分はおかしくなっていると穣司は感じた。

 自分の生命の危機には鈍感になっている。それどころか何も感じられない。

 だが、他者が危機に瀕している姿を見ると、身体の底から、こみ上げる熱を感じる。助けなければと血流が騒ぎ立て、拳に力が入る。


 低い体勢で歩きながら様子を窺っていた巨獣がついに走り出す。

 アンジェリカは動けないでいた。格好の獲物だろう。

 一瞬で距離は縮まる。角が彼女の胴体へと吸い込まれるようだった。


 穣司の心臓がどくりと脈を打ち、大きく目を見開く。

 その瞬間、世界から音が消えた。全てが静止し、時から切り離されたように感じた。そして何をすべきかを理解した時、世界は動き出す。


(助ける!)


 力の奔流が体内で巻き起こった。

 足の指先に力が入る。それだけで大地がひび割れ、爆ぜるように音を立てた。

 穣司は雷管を叩かれた弾丸のように飛び出した。踏み出したのは、ただの一歩だ。それだけで空気を切り裂き、一瞬にして、アンジェリカの下へ辿り着く。彼女は地に膝をつけ、震えあがっていた。

 だから安心させるように微笑み、アンジェリカに短く告げる。


「大丈夫だよ」

「ジョージ……サマ」


 穣司は片膝を立てたまま、庇うようにアンジェリカを右手で抱き寄せた。

 そして迫りくる巨獣に対峙する。

 使えるのは左手のみ。普通であれば絶望的だ。二人もろとも突き殺されるのが目に見えている。

 それでも今の穣司には脅威が感じられない。左手だけで何とかできると、確信めいたものが心の底から湧き上がる。

 だから眼前に迫る角を、片手で受け止めきれると、信じて疑わなかった。


 穣司は迫りくる巨獣の角を左手で掴む。

 火花が散り、自動車事故のような衝撃音がする。それでも衝撃そのものは感じなかった。もちろん吹き飛ばされる事もない。血濡れた角を掴んだ手が、滑る事さえなかった。


 しかし巨獣の方はそうでもないようだ。

 角先を掴まれただけで、すべての衝撃が、自らに跳ね返るようだった。朱に染められた角から、血が飛び散る。後ろ脚が浮き上がり、前のめりになった。まるで自動車衝突実験の車のようだ。


 角を基点に跳ね上がった巨獣は、地面に倒れ落ちる。

 その衝撃と共に、取り巻きの獣達の姿が、幻影のように消失した。


「あれ? 消えた」


 何かが焼ける音がした。正しくは蒸発するような音だ。真っ赤になるまで熱した金属を、水につけた時のような音だ。

 穣司が音の根源を見やると、掴んだ角から音がしていた。


 手に痛みはなく、火傷を負っている訳でもない。

 逆に掴んだ角から黒い蒸気を発していた。その蒸気はやがて白くなり、霧散する。

 巨獣が纏っていた黒い瘴気も薄れてゆき、象ほどあった巨躯も縮んでゆくようにも見える。


 穣司は巨獣を見つめる。

 巨獣は茫然自失といった様子だ。

 何が起こったのか理解出来ないのだろう。一瞬にして、狩る者と狩られる者が入れ替わったのだ。無理もない。

 穣司は右手を振り上げ、拳を硬く握る。ただの一撃で巨獣を粉砕する自信があった。


 その時、巨獣が甲高い声で鳴いた。怯えるような鳴き声だった。

 穣司から逃れようと首を振り、後ずさりしようとする。それでも掴んだ角を離すつもりはない。

 何度も首を振り、何度も鳴き声を上げた。痛みを感じているような鳴き声だ。まるで殺処分から逃れようと動物。死を予感したのか赤い瞳が潤んでいる。


「これじゃ俺が悪者みたいだ」


 穣司は自分で言って、はっとする。


 罪の所在はどこにあるのか。

 元の世界でも、人里に現れた獣が撃ち殺されるという話はある。

 逆に獣の縄張りに侵入した人間が、獣に牙を剥かれ、噛み殺されるという話もある。

 ならば今回のケースはどちらにあたるのか。何も知らない自分が手を下してもいいのか。しかも自分は余所者というオマケ付きだ。

 とはいえ、このまま巨獣も逃せば、おそらく悲劇は繰り返されるだろう。だからといって、この巨獣を殴り殺す事は憚れる。

 それに日本では、狼は既に絶滅した種だ。この世界でも、この狼に似た生物は、稀少種かも知れない。ならば尚の事、殺していいはずがない。

 百歩譲っても、絶滅危惧種の可能性がある獣を殺していいのは、この世界の住人だけだ。余所者である武久穣司が、種の終わりを導く事だけは、あってはならないのだから。


「何も知らない奴が、何も知らないまま殺すのは不味いよな」


 穣司は大きく溜め息を吐き、力なく右の拳を戻す。

 角を掴んだ左手は一先ず保留だ。直ぐさま離すわけにもいかない。

 離すならこの地で何があったのか知った後だ。


「アンジェリカ。ここで、何があった? ゆっくりで、いいから、教えて」


 穣司はゆっくり言いながら、アンジェリカに向く。

 彼女は戦慄に満ちた表情をしていた。顔に飛び散った血を手で拭い、その手を見つめている。こちらの声が届いてないように見えた。


「どうしたの?大丈夫?」


「チ……チガ。ナカマ、ノ……アァァァァ!! ワタシ、ワタシ!!」


 アンジェリカは慟哭する。悲痛に満ちた表情だ。


「お、落ち着いて。仲間、いるの?」


「イマス……オトナ、チイサイ、コドモ」


「子供!?」


 妙な違和感は覚えていた。アンジェリカに咬傷はない。しかし取り巻きの獣達の口元は血濡れていた。それに巨獣の角には生々しい鮮血が滴っていたのだ。今しがた突き殺したと言わんばかりの新鮮なものだった。アンジェリカだけの血量ではないと薄々感じていた。

 やはりか、と穣司は思う。それに子供もいると聞けば、いてもたってもいられない。命に優劣つけるつもりはない。それでも幼い子供が、アンジェリカのように突きさされ、引き裂かれたと考えると、胸が締め付けられる。


「仲間はどこにいる!?」


 穣司は思わず口早に言う。焦燥感に駆られ、ゆっくりと喋る余裕はなかった。


「ウウ……ワカラナイ、ゴメン、ナサイ。ゴメン……ナサイ」


 アンジェリカは息を詰まらせながら言う。そして何度も何度も謝る。


 穣司は舌打ちしそうになるのを堪える。

 この島は決して小さいものではない。それを何の手掛かりもなく探し回るのは不可能に近い。

 辺りは黒紫色の木々が、大地を隠すかのように覆っている。それに加えて、陽光を遮る分厚い雲に、黒い薄霧まで漂っている。

 これでは空からの探索もままならない。


 左手にはすっかり怯えきった黒い巨獣、右手には慟哭し、許しを乞い続ける少女。

 一人と一匹を置いたまま、彼女の仲間を捜索に行けるはずもない。だからと言って手分けして捜索するのは不安がある。その間はアンジェリカが一人になるのだ。まだこの島に危険が残っているかも知れない。それに連絡手段もない。現代のような通信機器もないのだから二次遭難のおそれがある。

 時間は刻一刻と迫っている。アンジェリカの時ですら息も絶え絶えだった。ならば体力のない子供ならどうなる。発見した時にはきっと手遅れの状態だ。


(クソっ!こんな状況でどうやって全員を探せばいい。)


 考えれば考える程、答えは出ない。

 彼女達の仲間の人数も知れなければ、容姿も知らない。

 それを知る機会もなく、あまりにも時間がない。八方塞がりだ。

 焦れば焦る程、手詰まりな状況に、絶望へ落ちそうになる。

 如何な能力(ちから)を授かろうとも、全てを救う事は出来ないのか。


(全員……全て……いや、あるいは)


 妙案は言い難い考えが頭を過る。

 荒唐無稽にも程がある案だ。それでも不可能ではない気がした。


(この島一帯を癒せばいい。何処にいるのか分からないのなら、何もかも全て纏めて)


 あまりにも力押しで、自棄(やけ)に近い考えだ。それでもやれる気がした。

 ――やらなければいけない気がした。


 息を深く吐き、目を瞑る。

 この島の全景は、空から俯瞰した時に覚えている。

 こうして目を瞑れば、その景色が目に浮かぶ。

 その隅々にまで癒しの力が行き渡るようにと願いを込める。

 身体の奥底に熱を感じた。滾った力が圧縮していき、積み重なっていく。

 そして目を見開き叫んだ。


「全て治れ!」


 圧縮された力の波動が爆発し、閃光がほとばしる。

 白く眩い風が、穣司から放射状に巻き起こった。

 島全体を撫でるように、木々が揺れ、波を打ち、色が変わってゆく。

 鬱蒼とした黒紫色の森が、瑞々しい新緑へと移り変わり、暖かな陽光に照らされる。分厚く覆われていた薄暗い雲は跡形もなく消え去り、空には果てのない蒼穹が広がっている。漂っていた黒い瘴気までもが霧散していた。

 そして巻き起こった風が収まると、淡く暖かな光の粒子が、ゆらゆらと羽が落ちるような速度で、空から島全体に降り注いだ。


「……いけたのか?」


 アンジェリカを治した時と同じ光が、島の全てに降り注いだ。

 ならば彼女の仲間に治癒の光は届いたのだろうか。この目で確認するまでは安心できないが、不思議と大丈夫な気がした。

 今のこの島は生命力に満ちている。全てが生まれ変わったかのように色付き、芽吹いている。

 黒紫色の森の姿はどこにもない。穏やかに揺れる青々とした木々達が、太陽の恵みに照らされ輝いて見える。森と大地の香りが穣司の鼻腔をくすぐった。

 ひょっとすると植物は汚染の他にも、何らかの病気にかかり、変色していたのだろうか。森の事までは気にしていなかったが、島全体を癒したから、ついでに植物の病気まで治したのだろうかと、穣司は疑問を抱く。

 穣司は空から島の全景を見渡し、確認したくなった。今なら美しい島の姿が目に映るかもしれない。とはいえ、まずはアンジェリカの仲間の安否確認が先決だ。それに巨獣の件もある。


 そう考えていると、左耳に何かが吹きかかる気配がある。すんすんと動物が鼻息をしているような音だ。

 穣司が音の方へ向くと、根元から角が折れている巨獣に、匂いを嗅がれていた。


「――あ」


 慌てて左手を確認すると、掴んでいた角は、砂のように風化して掌から零れ落ちていた。

 逃げられると不味い事になる。一瞬、穣司は思うが、それが杞憂だとすぐさま気付いた。


 巨獣は二股の尻尾を振っていた。それどころか尻まで振り、体をくねらせている。

 纏っていた黒い瘴気が完全に消え去り、象ほどあった巨躯は、虎ほどの体格に縮んでいる。禍々しさを感じさせる、吸い込まれるような黒い体毛は、つやのある黒色に変わり、煌めいて見えた。

 凶悪そうに涎を垂らし、憎悪を燃やしていた顔は、喜び満ちた表情に変化していた。だらしなく緩み切った顔は、柴犬を思わせるような愛くるしさがある。


 巨獣はキュンキュンと鼻を鳴らし、瞳を潤ませていた。先程の怯えているような鳴き声ではなく、喜々とした鳴き声だ。

 感情が爆発したかのように、穣司に飛びつき、顔を舐めまわす。体をこすりつけ、纏わりついた。まるで長年離れていた飼い主との再会のようだった。


「お、おいおい、くすぐったいって。一体どうしたんだよ」


 穣司は思わず巨獣に話しかける。

 だが言葉が返ってくる事はない。巨獣は鼻を鳴らし、切なそうに鳴き声を上げるだけだ。


「本当にどうしたんだよ。まさかお前も病気にかかっていたのか」


 この黒紫色の森のように、この巨獣も何らかの病魔に侵されていたのだろうか。

 そのせいで凶暴になり、アンジェリカ達を襲ったのかも知れない。この喜んでいる姿こそが、本来の巨獣の姿にも感じられる。人懐っこく、まるで野生の獣とは思えない。

 この島に漂っていた汚染にも似た瘴気のせいなのか、あるいはこの世界特有の病気なのかは分からない。角が折れた事に原因があるのかも知れない。真相は分からないが、それでもこの巨獣も治せて良かったのかなと、穣司は思う。


 穣司は元々、動物好きだ。

 旅の途中でアフリカに立ち寄り、サファリツアーに参加した事もある。

 威風堂々としたライオンを間近に見る事もできた。草原を駆けるチーターの姿には胸が熱くなった。

 車からサバンナに降り立ち、大地の香りを堪能する。そして草原にピクニックシートを広げる。そこで草食獣を遠目に眺めながら、ガイドと一緒に昼食をとった時は、人生で最高のランチタイムだった。


 そんな穣司だからこそ、こんなにも人懐っこい巨獣に纏わりつかれると、頬が緩んでしまう。

 猫なで声で巨獣に語り掛けてしまいそうになる。体を撫でまわし、顔を体毛に埋めたくなる。

 それがアンジェリカを刺し殺そうとしたと凶獣だったとしても、何かの間違いじゃないのかと、自分に言い聞かせそうになる。


 とはいえ、実際にそんな事は出来ない。

 アンジェリカ達は実際に殺されかけたのだ。仮に彼女達がこの巨獣を駆除しようとするのであれば、穣司には止められない。そんな権利を持ち合わせていない。

 穣司はこれからの事を考えると気が重くなった。


「ア、アノ! ワタシ、ナカマ、サガス。イイデスカ?」


 アンジェリカが意を決した面持ちで言う。


「あ、ああ! そうだね、探そう」


 それに対してどこか生返事で穣司は返した。


 確かに彼女の仲間を探すのは何より大切だ。アンジェリカも仲間の事を考えると気がかりではないのだろう。

 それでもこの巨獣の処遇を考えると陰鬱な気持ちになった。


「シツレイ、シマス」


 アンジェリカは一礼すると、穣司を残して足早にこの場を立ち去った。


「あ、行っちゃった。一人で大丈夫かな……」


 追いかける事は出来る。その場合、おそらく巨獣もついてくるだろう。そうなったら彼女の仲間は驚愕するかも知れない。ならばアンジェリカ一人で捜索した方がよいのだろうかと考える。

 この島に他の脅威はあるだろうか。何らかの原因で狂暴化した野生動物が、癒しの光を受けて、大人しくなっていればいいなとも穣司は思う。それならば彼女の身も安全だろう。


「お前が人を殺そうとするからだぞー」


 穣司は柔らかな声で、巨獣の両頬を掴み、ぐにぐにと優しく引っ張る。

 巨獣の目尻は下がり、笑っているようにも見えた。


「どうすべきかな」


 頬を引っ張るのをやめて、空を見上げる。

 雲一つない青空なのに、気分はいまいち晴れない。

 綺麗さっぱり一件落着とは言えない。とりあえず脅威らしきものが去ったというだけで、何もかも分からないままなのだ。


 くぅーんと巨獣が鳴き、心配そうに穣司を見つめる。

 穣司は優しく巨獣の頭を撫でた。


「ま、なるようにしかならないか」


 そう。先の事はどうなるか分からないのだ。願わくば、この巨獣が殺処分されない事を願う。

 あの短剣でアンジェリカ達が、巨獣の首を掻き切る姿は想像もしたくなかった。


「あ、短剣落ちたままじゃないか」


 足元に短剣が落ちている事に気が付く。

 宝飾の救難信号機能付き発光型短剣だ。高価そうに見えるが、このままにしてもいいのだろうか。

 アンジェリカは仲間の安否が気がなるあまり、短剣の事が頭から抜け落ちていたのかも知れない。


「踏みつけて傷物にしたら不味いし、持っておこう」


 穣司はその短剣を拾い上げる。

 すると埋め込まれた八つ宝石が輝きはじめる。まるで最初に見た救難信号のようだ。

 握った手から短剣に力が流れ出てゆくのが感じられる。とはいえ、それほど大きな力でもない事に安堵する。抜け流れてゆく力は、微々たるものだ。抜けた分だけ、すぐさま体内で力が生成される気配もある。

 やがて八色の宝石が光に満ち溢れ、眩く点滅する。まるで充電が完了したかのようだった。


「なるほど、な……。そういう仕掛けになっていたのか」


 穣司は納得したように呟く。

 おそらく魔力だとか、そういった類の不可思議な力を貯め込む事で、救難信号を打ち上げるのだろう、と。

 一つ疑問が解けたが気がした。ならば答え合わせといこうじゃないか。


「打ちあがれ!」


 穣司は短剣を天に掲げ叫ぶ。

 力の込められた短剣が、強烈な光を放ちはじめ、極大の光柱が空へと撃ち上がる。

 その光は遥か上空で、八つに枝分かれ、八方向に飛んでいく。そのうちの一つの光が地上に戻ってきた。そして巨獣だけを狙いすましたかのように、降り注いだ。


「あれ?」


 想定外の事態に穣司は狼狽える。

 巨獣の異常がないかと心配するが、巨獣は目を細め、気持ちよさそうに、光を浴びていた。


「な、何か間違ったかな?」


 信号拳銃を打ち上げるような気分で、救難信号を打ち上げたつもりだった。

 上空まで上がったのは想定内だ。しかし八つ分裂した光のうちの一つが地上へと戻ってきたのだから、意味が分からない。

 もしかすると何か呪文のようなものが必要なのかも知れない。しかし今の穣司には知る由もない。とりあえずは先送り案件だ。気まずい気持ちで、一先ずは短剣を元の地面に戻した。


「ま、まあ、とりあえず今のうちにガルヴァガさんに報告しておこう」


 穣司は背筋を伸ばし、手を前に組む。神と対話するといえば、この体勢だろう。

 そして目を瞑り、心の中で、老人の名を強く呼び掛ける。

 すると身体を置き去りにして、中身がふわりと浮き上がる感覚が訪れた。

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