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8話 労して功なし

 旅行中に予想外の出来事に遭遇する事はある。

 新車同然の長距離バスが故障して、エンジンから火が吹き上がる事もあった。私服警官からパスポートの提示を求められた時、偽警官を疑ってパスポートの提示を拒否したら、実は本物の警官だったらしく、揉め事になった事もある。予想外の体調不良なんてざらだ。今でも思い出す度に、拳を固く握りしめてしまうような、胸の疼くような事件に巻き込まれたこともあった。

 大小含めて言い始めたらきりがない程に、トラブルに遭遇した事はある。旗振りツアーならともかく、個人旅行者ならトラブルの一つや二つくらいは経験している事だろう。トラブルとトラベルは同語源である、なんて誤解を信じてしまいそうになるくらいだ。


 だが、穣司の異世界旅での予想外の出来事は、原因と結果が分からない不可解なものだった。


 神の力という大層な物を授かり、思い付きで大気圏から落下してみた。すると謎の光を受ける。攻撃されたと思い、警戒しながら降下してみると、今際の際の少女がいた。あれは攻撃ではなく、救難信号のようなものだったのと気付く。だから慌てて傷を癒した。すると起き上がった少女は、頬を染めながら、靴の先にキスをしてきた。


 穣司が異世界に着き、現在に至るまでの短い時間を、簡潔に纏めると、こうだった。


 そして思う。なんだこれは、と。


 足下には、今もなお自分を見上げている少女がいる。

 赤く染められた顔を綻ばせ、涙を流している表情でも、美人なのが分かる。

 少女の胸は豊かなものだった。大きく深い褐色の谷間と共に、上目遣いにこちらを見上げる姿は扇情的だ。それに加えて、大きく破れた服からは、健康的な褐色の肉体が目に入る。健全な一般男性なら、情欲がかき立てられるに違いない。


 だが残念な事に、今の自分には何も感じられなかった。身体の底から湧き立つものがなければ、鼻の下が伸びる気配も全くない。凪いだ湖面のような静けさだ。本当に性欲がなくなったんだなと、改めて穣司は実感した。


 以前、海外のとあるゲストハウスで、意気投合した男と夜の街に繰り出した事がある。

 はじめは海外でそういう遊びをするつもりは毛頭なかった。ぼったくりや病気が心配でもあったし言葉の壁もある。だがその男は仕事の関係で、その国に何年も滞在していた経験があるらしく、現地の言葉も流暢に話せていた。

 その時に夜の遊びを覚えたらしく、帰国後も大型連休の度にその国に訪れては、夜の街を楽しんでいるという事だった。

 男はこの街の夜遊びエリアはすべて網羅していると鼻息荒く語り、どこの店が外れであるとか、どこそこの店はどういった遊びがあるだとか、体験談をまじえながら、嬉しそうに語っていた。そしてこうも言った。


「試しに行ってみない? 踊っている女の子の姿を眺めながら、ビールを一杯飲むだけでいい店もあるからさ。仮に気に入った子がいたら、その時は、ね?」と。


 その言葉に穣司は好奇心がくすぐられた。

 女体に興味がない訳ではないが、流石に夜の街の客人(ゲスト)になるつもりはない。それでも男たちの欲望を吐き出す夢の街の姿を、入り口付近から垣間見る程度の事はしてみたかった。それをビール一杯だけで見物出来るならお安いものだ。なにより通の男がいるのも頼りになる。

 その後、男と別れた穣司は屋台で軽食を済せる。そして夜になると再び男と合流してから、夜の街に向かった、

 そこはいかにもといった雰囲気で、妖しい色のネオンが煌き、通りに立っている薄着の妖艶な女性が、男達の視線を奪っている。吸い寄せられるように、そこに群がる男達は、光と甘美な香りに誘われる虫のようだ。そのうちの1匹に穣司も含まれていた。


「じゃあこの店に入るね」


 男の声に頷き、穣司は店に入る。

 入店するや否や、薄着すぎるにも程がある女性に手を引かれ、席まで案内される。注文したのはビールだ。

 薄暗い店内の両端に階段状のカウンターテーブルがある。それに挟まれる形で、中央に長方形の舞台があった。その台から五本のポールが、天井に向けて伸びている。それに裸同然の女性達が足を絡めて、魅せつけるように踊っていた。

 客は全員とも女性達に釘付けになっていた。端の席のインテリそうな男も、向かい側の厳つい顔の髭男もだ。もちろん穣司も同様である。

 身体の底から沸き上がるものがあった。冷えたビールを喉に流し込み、そしてさらに情欲は増していく。


 はじめは街の入り口から、覗き込む程度の気持ちだった。ビール一杯だけの見学ツアー。しかし、その程度で済ましていいのだろうかとも思える。次にこういった店にくる機会はおそらくない。ならば本格的に、この夢の街の客人(ゲスト)になるのも経験ではないかと考える。そう、何事も経験なのだ。

 ひと際、扇情的な体型の女性(キャスト)と目が合う。彼女は手招きしながら微笑む。横に座っている通の男(ガイド)は、穣司に肘打ちして、ニヤリと笑う。

 言葉など必要なかった。こっちにいらっしゃいと言われているのが分かる。行ってきなよと言われているのが分かる。ごくりと唾を飲み、これが夜の街の魔力かと穣司は観念した。


 しかしながら魔力より強いものもある。

 穣司が腰を浮かし、女性の下へ行こうとするのを阻む音が、腹の中に響き渡る。

 腹痛だ。それもただの腹痛という訳でもない。強烈な腹痛が容赦なく襲い掛かり、徐々に吐き気も伴ってくる。油断すれば上も下も大変な事になりそうだった。

 屋台で食べた物がいけなかったのだろうかと考える。が、そんな余裕はすぐに消え失せる。腰を再び下ろし、上と下への波状攻撃に耐える。そして攻撃の手が休まった時、すぐさまトイレに向かう。着実にゆっくりと。

 用を済ました穣司は席に戻り、体調不良の件を男に告げて、店を後にした。

 もう踊っている女性達を見ても、何も感じられなかった。沸き立つものなど消沈している。腹の第二波攻撃の警告音は鳴りやまない。気を抜くとやられる気がした。別のものを抜く気持ちなど一欠けらも残っていない。男の欲望を吐き出す街で、別の物を吐き出しそうだった。

 何とかゲストハウスに辿り着いた穣司は数日間寝込んだ。その間に通の男(ガイド)は帰国した。夜の客人(ゲスト)になる機会は永遠に失われたのだった。


(あの時も性欲なんて感じなくなってたなぁ)


 しかし今は腹痛もなければ吐き気もない。いたって健康である。それでも目の前の少女に、何も感じられないのが不思議な感覚だった。

 当然の事ながら彼女が瀕死の状態なら何も思わない。それどころじゃないし、どうにか出来ないかと必死だった。

 だが傷に癒えた今の少女は十分以上に健康的だ。身体的という意味だけではなく、肉感的な意味でも。

 少女を見下ろしていると、褐色の艶やかな胸が、服からこぼれそうになっているのが目に入る。それでも何も思う事はなかった。


 とはいえ、いつまでも性的興奮の消失における自己観察ともいえる現実逃避をしていても、事態は何も進展しない。少女はずっと同じ体勢で穣司を見上げているのだから。


(どうしてほしいんだろう)


 ふと、少女が何かを呟いていた事を思い出す。うまく聞き取れなかったが、おそらくアンジェリカと言った気がする。もしかするとこれが彼女の名前なのだろうか。

 そこで穣司は自分が名乗ってない事に気が付いた。


(俺が名乗るのを待っている……とか?)


 おそらくそうに違いない。いや、そうであってほしい。状況を変えられる何かを見付けたい気持ちでいっぱいだった。

 穣司は屈んで、彼女の手を握り、立ち上がらせる。少女はきょとんとした顔をしてた。


「えーっと、アンジェリカ……でいいのかな?」


 ぱぁっと開いた花のように少女は再び笑顔見せて頷く。

 どうやら正解を選べたようだった。


「ジョージ」


 穣司は左手で自らの胸を叩きながら、シンプルに名前だけを名乗る。

 この名前は外国人にも覚えてもらいやすく、発音も簡単だったからだ。


「ジョージ、サマ……」


 アンジェリカは目を瞑り、噛み締めるように呟く。

 そして一呼吸置いて、ゆっくりと目を開いた。その表情はどこか恍惚した様子にも窺える。

 アンジェリカは握られていたままの穣司の右手を、大切そうに両手で包み込む。そして穣司の手を自らの胸に押し当てた。

 異常に早い鼓動が、遥かなる双丘越しにも、しっかりと伝わってくるのが分かる。


「……あ」


 想像以上に間抜けな声が穣司の口から漏れ出る。


 状況は更に悪化した。

 名を名乗っただけで、何故このような状況になるのか理解不能だ。

 命を救ってくれた者に対して、身体で返礼をするのが、異世界の文化なのだろうか。それともこの少女の性癖なのだろうかと穣司は困惑する。

 惚れられたと自惚れるつもりはない。穣司の自己評価による自分の顔は、記憶に残らないような平凡な顔だ。通りすがる女性が目で追ってしまうような端正な顔立ちでもなく、顔を背けてしまいたくなるような醜男でもないだろうと。

 それでもアンジエリカの表情は、見惚れているとか、そういった類のようにも見える。

 吊り橋効果なのか。それとも命を救われた患者が、医師に惚れてしまうといったケースに近いのか。依然として答えは出ない。

 いずれにせよ、今の穣司には嬉しさを感じられない出来事(イベント)だ。


 ふと、視界の端に、ぼんやりとした光が目に映る。穣司はこれだ、と思う。

 救難信号機能付き発光型短剣。原理は分からないが、この短剣の救難信号が空に打ち上がった事が、彼女を救う事になった切っ掛けだ。

 あの短剣の事を聞き、その流れでこの地で何があったのかを聞く方向に持っていけば、この何とも言い難い雰囲気は解消されるかも知れないと考えた。


「あー、えと、短剣、落ちてる」

 穣司は左手で短剣が落ちている方を指差し、ゆっくりと平坦な口調で言った。


 アンジェリカは、はっとした表情をした後に、名残惜しそうに穣司の手を解放した。

 そして膝を折って深々と一礼してから、短剣の方へと歩き出す。


 ほっとした様子で穣司はアンジェリカの後姿を眺める。大きく裂けた服からは、くびれた腰のラインが大胆に見えている。続けて穣司は自らの右手を見つめた。彼女の体温と確かな鼓動、そして柔らかい感触が残っている。溜め息を吐き、それから天を仰ぎ見た。


(もったいないなぁ)


 たとえ性欲があったとしても、彼女をどうこうするつもりはない。借り物の能力(ちから)で彼女を救い、その返礼で身体を差し出されたとしても、応じる気はない。そんなものはフェアじゃない。それに彼女は、少女とも女性とも言える曖昧な容姿だ。この世界の法は分からないが、元の世界の感覚が残っている穣司にとっては犯罪的だ。

 とはいえ艶やかで際どい格好のアンジェリカを目の前にして、何も感じられなくなった事に関してだけは、少しだけ喪失感を覚えていた。

 必要性を感じなかったとしても、いざ性欲が消失してしまうと、やはり寂しさを覚える。有ったものが無くなれば当然なのだろうか。


 再び視線を地上へと戻し、アンジェリカに目をやる。

 彼女は屈み、短剣を拾い上げようとしていた。


 その時、草木をかき分けるような音と共に、鼻腔に絡みつくような生臭い匂いが、風に乗って漂ってくる。この地に降り立って、最初に嗅いだ匂い。その時よりも一層濃くなった死の香りだ。

 アンジェリカはびくりと身体を硬直させ、音とのする方へと視線を向けた。穣司も彼女と同じ方へと目を向ける。


 唸り声が聞こえた。身体の芯にまで、ずしりと響く、重く低い音。憎悪と敵愾心に燃えているようにも感じられる。

 姿を現したのはの、毒気を感じさせるような、黒い瘴気を身に纏った、赤い瞳の黒い巨獣。

 外見だけを見れば、姿は狼を連想させる。だが、一般的な狼の大きさを遥かに上回っており、額には歪に長く尖った一本の角が生えていた。加えて根本から二股に分かれた尻尾まで生えている。

 その黒い巨獣に付き従うように、一匹、また一匹と複数の獣達が茂みから顔を覗かせる。外見は巨獣と似通っているが、こちらはごく普通の体格で角も生えていない。


 黒い巨獣の角は朱に染まり、取り巻きの獣達の口元には、生々しい鮮血が、ぽたりぽたりと滴り落ちている。

 そして狙いを定めるようにアンジェリカを睨み付けていた。

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