75話 密談めいた塔の上
「もう寝る時間だろうが、呼び出してすまないな」
サルバドールから声を掛けられたのは、等間隔に建てられている塔の上だった。満天の星の下では、灯りなど不要と思える程に、村の様子が見渡せる。もう寝静まっているのか、家屋に明かりは灯っていない。
穣司の期待通り、夕食会で妙に沈んだ空気は払拭されていた。手抜きの紅茶の入れ方には、トリトスも驚いていたようだが、目を輝かせながら、その味を楽しんでいた。
しかし、サルバドールだけは何も語らずに身体を震わせていた。紅茶を口にすると瞠目し、神妙な面持ちで何処ともいえぬ宙を眺めていた。そして夕食会が終わり、お開きとなるところで、終止無言だったサルバドールから「少し話をしないか」と告げられたのである。
そうして穣司はモルル達と別れてから、サルバドールの後を付いていき、塔の上に登ったのだった。
「話ってなんでしょうか。もしかしてお茶の味が口に合いませんでした? 入れ方に気に食わなかったとか」
呼び出される理由が穣司には思い付かなかった。
「いや、そうではない」
サルバドールは短く答える。一度目を瞑り、それから意を決したように、小さく息を吐いてから、言葉を続けた。
「茶の味も効能も見事なものだった。シュケルの最高品種なのだろうな。だが、俺が言いたいのは、お前さんの魔術だ。……見事だったよ。いや、異常だったというべきか。だからこそ、お前さんがどんな経験をしてきたのか、先程の話を踏まえたうえで把握した」
「えっ……異常?」
思いがけない言葉に、穣司はつい鸚鵡返しする。最高品種の茶葉ではなく、古くなった商品を安く買っただけの代物だが、それを口にすることすら失念していた。
「やはり自覚がないようだな。無詠唱による魔術は、俺からすると……まあ、珍しいが、それほど驚くことではない。だが、無言のまま魔術を発動させるのは、はっきりいって異常だ。無から有を生み出すような創造、そして複数の属性を同時に操るのは神業といえるだろう。それをお前さんは鼻歌を口ずさむような自然体でやってのけた」
「か、神業……」
「ああ、規模は小さいが、そう表現するのは過言ではないな」
「……あの、もしもですよ。そんなことは不可能ですけど、もしも百単位で水の塊を浮かべたら?」
「人の領域を超えているだろう。まさかできるとは言わないな?」
「あはは……も、もちろん、無理に決まっているじゃないですか」
誤魔化し笑いを貼り付けた穣司は、全身が薄氷に覆われる気配を覚えていた。体内を巡る血管が徐々に凍っていき、氷で身体が閉ざされるような感覚だ。しかし脳裡を去来する光景に、羞恥心が噴火する。引いていた血の気は、勢いを余して荒波のように押し寄せる。
ザフェル達に見せた水はともかく、リリアンヌに見せた水は数十を超えていた。なにしろ百に近い数の水の塊を動物達に与えていたのだ。それもただの水ではなく、浮かんだ水である。
サルバドールの忠告通りなら、異常な光景だろう。だが、それだけならまだ良かった。問題は穣司の態度だ。
(俺は常識外れの魔法を使っていたんだ。しかもそんな物凄い魔法を、これって普通でしょ?……みたいな態度を取っていた俺って、かなり嫌な奴だ)
自身の行いに、穣司は頭を抱えた。
超一流のスポーツ選手が子供向けの大会に参加し、圧倒的な差を見せつけながら、優勝をかっさらうような光景を想像してしまう。そしてこう言うのだ。「こんなの普通です」と。
自覚がなかったとはいえ、大人気ないどころの話ではない。自分は似たようなことをしてしまったのだと考えると、転げ回りながら悶絶してしまいそうになる。もしも人目がなければ、大気圏を飛び出して、自身の愚かさを喚いてただろう。
世界の端で恥を叫ぶ。穣司はそんな気分だった。
(うう、俺だったら、そんな嫌な奴がいたら仲良くなりたくないだろうなあ。……もしかしたら神のような存在だってバレていたかも。でも、ザフェル達から崇められるようなことはなかったし……いや、それでも――)
ザフェル達は穣司の魔法を目の当たりにして驚いていたものの、崇められるようなことはなかった。リリアンヌも同様だが、彼女の態度が変わった瞬間は、魔法を使ったタイミングではなかった筈だ。人型の魔物と称される種族でも「人」として扱うと穣司が発言した時である。そしてそれはリリアンヌが胸中に仕舞ってあったリックスブリックとの思い出を、呼び覚ましたからと推測できる。ただし、メデニシエズの森を覆うような癒しの風を吹かせたことで、彼女達からどう思われているのか知る由もない。
考えても嫌な予感がすることだけは確かだ。傷を癒したことに後悔はないが、神のような存在と思われるのは避けたい。
「すまんな、嫌なことを思い出させたか?」
サルバドールは穣司を案ずるように言った。いつまでも頭を抱えていれば、心配されるのも当然だろう。
「あ、いえ、自分の落ち度なんで、大丈夫ですよ」
穣司は巡らせていた考えを一旦打ち消し、ひきつった笑みで答える。
「そうか、それならいいんだが。ところでお前さんに師はいるのか?」
その言葉に穣司は、はっとする。
アンジェリカ達が魔法を使う姿を見本にしたのは確かだった。師という表現は相応しくないが、間違いなくダークエルフ達を基準に考えていた。そしてようやく気付く。アンジェリカ達が魔物扱いされる理由を。
(アンジェリカ達の魔法が、この世界の平均と考えていたけど、そうじゃなかったんだ。最も魔法の扱いに長けた種族だからこそ、その力を恐れて孤立させようとしたのかもしれない)
薄々は気付いていたが、サルバドールから忠告されるまでは、確信はなかった。穣司の外見はこの世界でいうところの人間種。ダークエルフと同等の能力は持っていないのだろう。だが、そんなアンジェリカですら魔法を唱える時は、魔法名だけは口にしていた。
そんな魔法ですら穣司は口にすることなく、思い描くだけで行使できる。だからこそ規模の小さな魔法でも、サルバドールからすると異常に映ったのだ。それこそ神業と称されてもおかしくはない程度に。
もしもサルバドールの前で、数十の水の塊を浮かべていたら、どのように思われていたのか。考えただけで、薄寒くなる。
穣司が魔法名を言わないのは、単に恥ずかしかったからに過ぎない。三十路を過ぎて魔法を唱えるのには抵抗があったのだ。ただそれだけの安易な考えが、この結果である。もちろん実りもあったが。
「どうした? 答えたくないなら、無理することはないぞ。誰にでも秘密にしておきたいことがあるならな」
「いやあ、そういう訳じゃないんですよ」
実は半分だけ神様のような存在になっていることが秘密なんです。――なんて言えるはずがない。穣司は会話の途中で上の空になっていたことに自省し、サルバドールに言葉を続ける。
「実はダークエルフと一緒に暮らしていた時期がありましてね、魔法も彼女達から習ったというか、見本にしていたんですよ」
「ま、待て、闇妖精と暮らしていただとっ?」
眉を上げて驚愕するサルバドール。その姿からは純粋な驚きが感じられた。
「ええ、そうですよ。人型の魔物と揶揄する人もいますけど、とても良い人達でした」
「それを人間種のお前さんが言うとはな。いや、お前さんが辿ってきた人生を考えるなら、納得できるというものだ。……そうか、闇妖精と暮らしていたのか。なるほど、な……そういうこともあるのだな」
何に納得したのか穣司には不明だ。せいぜい旅の話を語っただけで、失敗談にしても自らの人生を明かすような重大な話をしていない。しかし問い尋ねることはしなかった。サルバドールからダークエルフへの嫌悪感や忌避感が窺えないことが、穣司には喜ばしかった。少なくとも全てのヒトが、アンジェリカ達やリックスブリック達を、人型の魔物と見做してるわけではない。
「サルバドールさんは、ダークエルフを悪く言わないんですね。それにゴブリンのことも驚かなかったですし」
「つまらぬ者達が、つまらぬ戯れ言を広めているだけだ。俺はそのような毒に冒されるつもりはない。むしろ奴らの心にこそが魔物が宿っていると思っているくらいだ」
サルバドールは嘲るように冷たく言い放つ。
奴らとはおそらく人間種なのだろう。ハーフエルフである彼にも、何かしらの因縁があるのだろうと察せられた。穣司と初めて出会った半日前のサルバドールからは、相容れぬつもりがないという、強い意志があったことを思い出す。
「サルバドールさんは人間種が嫌いなんですね」
「そうだ。もちろん全てとは言わんがな。こうしてお前さんの話を聞いているのも、信用に足ると分かったからだ」
「えっと……俺は大したことは言ってないですけど、信用に足りましたか?」
「ゴブリンに知人がいて、闇妖精と暮らしていたと、嬉しそうに公言するような人間はいない。たとえ嘘だとしても何の利益もないし、そのような言葉を口にする者はいないのでな。それにオルハンの友人というだけで信頼に足るものだ」
どこか懐かしむように頬を緩めるサルバドールは、目に見えぬ誰かを重ねているようだった。それがオルハン・カラバシュなのか、はたまた別の人物なのか、穣司には窺い知れない。
「――ともかくだ、ジョージ程の素養があるなら、人前で魔術を使うのは控えた方がいい。それを悪用しようとする者が現れるのは、お前さんなら分かるだろう」
「ええ、まあ……そうなんでしょうね」
今のところはそのような気配はないが、今後そのようなことが起こっても不思議ではない。サルバドールは親切心で言っているのだと分かる。
「あとは、そうだな。アディルの授業を受けてみるのはどうだ。いかにジョージが異常な魔術を使っているのか分かる筈だ」
「それはいいですね。学校に行く機会はなかったので、ありがたいです」
もちろん学校に通ったことがないのは、この世界でのことである。言語のみならず文字まで書けるのは、授かった能力のお陰といえるだろう。とはいえ魔法の常識的な知識を学ぶのは、またとない機会である。なにより旅先で授業を受けるというのは初体験である。面白いことになりそうだと、僅かに心が弾んでいた。
就学前の外見をしたタルール族と机を並べ、中学生程度の容姿をしたアディル先生に教えを乞う。まるでごっこ遊びに、大人が混じるようにも思えたが、真面目に授業を受けるのだから、決して遊びではない。日常の中に非日常があるようで、面白そうだった。
ふと気配がして穣司は「ん?」と首を傾げる。
塔の下で何者かがゆっくりと歩く音がした。音は二人分。もしや不審者か。
そう思い立ち、塔から乗り出して観察しようとしたところで、声を潜めるサルバドールから咎められる。
「待ってくれ、彼らは怪しいものではない。すまないが静かに見守ってやってくれないか」
「もしかして不審者ではなく村人ですか」
声を潜めて返答した穣司は、正体不明の二人組から気付かれないように、腰を落とした。
「ああ、アディルとその妻のシィリリだからな。不審者とは無関係だ。訳あってシィリリは一人では歩けなくなってな、こうして夜な夜なアディルが歩行訓練をしているんだ」
「なんでまた真夜中に……。それに魔法で治さないんですか」
僅かに顔を覗かせると、アディルが月明かりに照らされていた。顔を覆うほどのフードを被る人物の両手を引いて、ゆるりとした足取りで歩いている。このフードの人物がシィリリという女性なのだろう。「ゆっくりでいいんだよ。怖いことも、痛いことも何もない」諭すような柔らかな口調が、微かに聞こえてくる。間違いなく愛情が込められていた。
「治せるなら既にやっているさ。だが、もう手遅れなんだ。いくらジョージでも無理だろう。それにシィリリは心が病んでいるようでな、人前で出ることを極端に恐れている。アディルの言葉を借りるなら、脳に異常があるとのことだが、専門的なことは俺には分からん」
「脳……ですか。それは随分と専門的ですね」
医学の知識など、穣司としても一般人程度しか持ち合わせていない。が、アディルには分かるということは、彼は治癒の専門家ということが窺える。
「アディルは妻のことを誰にも触れられたくないようでな。モルルにも一部のことしか告げていない。それに表面上は冷静に振る舞っているが、人間種を好んでいない。それでも教職者という矜持があるから、分け隔てなく接している。無論、ジョージが悪いというわけではないが、この件には触れないでやってくれないか。それがジョージをここに呼んだ理由の一つでもある」
申し訳なさそうに眉を下げるサルバドールに、穣司は静かに首肯で応える。たとえ短い期間だとしても、村で暮らすことになれば、夜の物音に気付くことはある。不審者がいたとの情報を知っていれば、その正体を掴もうと行動に移して、アディル達と遭遇することは容易に考えられるだろう。ゆえに先手を打って、この光景を密やかに見せたのだ。
アディルが介護する姿を密やかに眺めていると、ゆっくりとした足取りながらも、着実に前進していた。どうにか快復させようとする意気込みが、この瞬間でも痛い程に理解できる。
――授かった能力なら治せるのではないか。
そう考える一方で、それは無粋ではないかとも思えた。
アディルは己の力で治したいのではないか。もしもそうなら得体の知れない力で、瞬時にシィリリを脳を治癒するのは、彼の努力を踏みにじるようでもある。それに人間種に関わりも持たれたくないということは、その原因に人間が関わっているからとも推測できる。その憎むべき人間から治癒を受けるのでは屈辱だろう。
今はただ、見守ることしかできない。少なくともアディルの心情を本人から聞くまでは、静観するべきなのだろう。
「分かりました、この件については他言しません。でも、アディルさんが人間種を嫌っているなら、授業を受けて大丈夫なんですか?」
「それに関しては問題ない。それにアディルとジョージは似たような境遇だろうからな。ジョージが経験したことを俺の口から伝えておく」
「なるほど、そういうことですか」
アディルが流れ者とは聞いていたが、改めて考えるなら旅人と称してもいいだろう。客車に詰め込まれるような経験をしていても不思議ではない。それに共通の話題というものは、心の隔たりを少しでも埋めることにもなる。
一抹の不安を覚えながらも、穣司は夜空を眺めた。
◆
アディル達の歩行訓練が終わると、ジョージは集会所に戻っていった。その後ろ姿を見送ったサルバドールは昔のことを思い出す。
21年前、まだフォルティス大陸で奴隷制度が認められていた時代だ。
あの日の夜も、夜空は美しく輝いていた。地上で起こっていることに我関せず、全ての者を平等に照らしていた。非合法ともいえる誘拐、拉致……そして奴隷の身分に落とされる者達。それでも全ての者に平等に、煌めく星は照らしていた。
奴隷そのものは国家が合法としていた。
国境なき自警団を掲げるサルバドール達には、この現状に歯噛みするしかなかった。
サルバドールは腕には自信がある。師と仰ぐアデマールこそ最強の人物だと信じて疑わないが、師は腐りきった世界に辟易としていた。世捨て人のように、世界を彷徨っている。
それも冒険者組織が乗っ取られた結果だ。以前は少ない報酬で、人のために働いていた。道なき道を進み、どのような困難が待ち受けていようと、弱者を守るために突き進んだ。その姿が冒険者と言われる由縁だった。それが信念だった。
その姿に憧れる者も多かった。しかし人が増えれば一枚岩ではなくなっていく。狡い者が組織を乗っ取ろうし、分裂するのは明らかだった。
組合本部が設立する頃には、本来の目的から離れていた。規則が制定されてしまえば、それに従うしかない。次第に自由に行動することもできなくなり、表立ってはいないが国家に尻尾を振るような有り様だ。もはや国家なき自警団ではなく、冒険者と名前を変えた組織は、金に目が眩んだ者達ばかりだ。弱者救済の理念はとうに消えていた。
奴隷売買が合法である現状に目を瞑るしかないサルバドールは、苛立ちを募らせるしかなく、弱者が虐げられようと、止める権利を持ち合わせていなかった。それが法であり、反逆することは国家に刃を向けるのと同義なのだ。そういうように仕向けられたのである。
そうして自警団の設立者の一人であるアデマールは組織を離れていった。群衆心理で流言を真に受ける民衆にも失望していたのだろう。たとえ扇動する者がいようと、確固たる意思を持たぬ者に呆れていた。サルバドールですら、人間という種族に憎悪していた。
かつて多くの種族が平等に暮らしていた。星空に照らされるが如く、身分に差など存在していなかった。その差を作りあげたのが人間種である。己に流れる人間種の血が疎ましく感じるほどだった。
そんな時、ストルテ王国で騒乱が起こった。
たった一人の怒り狂った獣人が王国に乗り込んで暴れていたのだ。
――その獣人の名前はオルハン・カラバシュ。
隻眼になりながらも、拐われた獣人の子供の返還を求め、立ち塞がる者を全て屠っていたのだ。後にして聞いた話によると、ある夫婦の命が奪われたとのことだった。それはオルハンが密かに想いを寄せていた女性であり、そして夫は彼の親友でもあった。身を引いたオルハンが影ながら見守っていた家庭が、奴隷商人の手によって壊されたのだ。そして忘れ形見である少年を拐われて、オルハンは理性を失っていた。
「なんだ……これは」
オルハンが暴れて回る光景を目にしたサルバドールは戦慄した。彼を野蛮だと恐れる者もいたが、闘争本能を燃やす獣人に怯えてのことだった。国家が相手だろうと臆することはなく、傷を負おうと決して怯むことがない。爛々とする瞳を光らせながら、大勢の兵士に吠える姿は圧巻だった。
「聞けい、糞共っ! 我が同胞を返さぬのなら殺す! 戦う意思がなかろうと、武器を持つ者は殺す! たとえこの身が滅びようと、貴様らを喰い殺してやる!」
飼い慣らされた犬が、本物の闘犬に立ち向かえる筈がない。
冷静に考えれば、いかに精強な獣人であろうと、討つことは可能だろう。しかしそれは安全圏で、つまり机上で策を講じている時にのみ通じる意見だ。オルハンの握っている槍が、その身を貫かないと分かっているからこその考えであり、雷撃に焦がされることがないと信じているからだ。しかし彼の怒声を聞いた者のは、その迫力に呑まれていた。
獣人種特有の優れた身体能力。そして膂力。どれも雑兵では太刀打ちできるものではなく、銃弾すら回避されてしまえば、手の打ちようがない。消耗戦持ち込むような気概を持つ者はおらず、オルハンの言葉に武器を捨てて、逃げ惑う兵士も多かった。
貿易が本格的なり、国交が開かれてからは、想像していた獣人種が思いの外、知的だったことでストルテ王国は油断していたのだろう。これなら獣人種の子供を誘拐しても与し易いと勘違いしたに違いない。それがたった一人の獣人によって、壊滅的な士気の低下を呼び込んだのだから、サルバドールは戦慄するしかなかった。
だが、まだサルバドールも油断していた。密かにオルハンを応援していたが、たった一人で国をどうにかできるほど容易くはない。どうにか国外に逃がせないかと画策していたくらいだ。これほどの男を死なせるのは勿体ないし、拐われた獣人種の子供は騒乱に紛れて、救い出そうと仲間内で話していた。
だが、オルハンは決して背中を見せなかった。どれ程の相手が現れるようと、前しか見ていなかった。
その姿は勇敢であり、蛮勇ともいえた。だかしかし、多くの者の目に焼きついて、離れることはなかった。
そしてオルハンの仲間達が、ストルテの王都を取り囲んだ。
たった一人であの戦力である。それが数十万を超える獣人が押し寄せれば、恐怖でしかないだろう。海は封鎖され、逃げ道はどこにもない。小国とはいえど、たかが一日で国が陥落していた。
そして何より痛快だったのは、シュケル国の宣言だった。
――我が国民に理由なき危害を加える者は宣戦布告とみなす。
その宣言が、周辺国家にも影響を及ぼした。
どの国も後ろめたいことはしている。奴隷制度は合法だが、誘拐や拉致の類いは非合法である。それを黙認している貴族も多かったが、それがいつ飛び火して、シュケル国の怒りを買うのか分からない。ただ、獣人と争うのは得策ではないと、貴族達も理解したのだろう。いくら金を稼ごうと、自身の命までは買えないのだ。ストルテ王国の一夜陥落の情報は、驚くべき速度で伝播していった。
かくしてフォルティス大陸では奴隷制度は廃止された。サルバドールが望んでいたことが、間接的に叶ったのだ。堂々と残党狩りもできるようにもなった。罪を犯す冒険者を狩れるようになったのだ。一方的だがシュケル国に恩義を感じるのは必然である。アディルと出会ったのも、あの騒乱の最中だ。
「まさかジョージがあの英雄と友人だったとはな。これも何かの縁か。だがアディルと同様にジョージも奴隷だったとは思わなかった。……いや、奴隷になる前に逃げ出したんだったか」
ジョージの話を総括すると、奴隷の身に落ちかけたのだと理解できる。
あの優れた素養では、目を付けられても不思議ではない。加えるなら、見たことのない顔立ちだ。狭い客車に押し込まれたというのは、拐われたのだとモルル達ですら理解していた様子だ。
しかしジョージ程の能力があれば、容易に逃げ出せるだろう。まだ力を隠しているのは気配で分かる。驕慢なのが欠点の闇妖精と親交を深められるのだから、その能力を認められてたというのも理解できる。
ただしジョージ自身が、己の力を自覚していなさそうなのが危うい。忠告すればすぐに聞き入れる柔軟さがあるのだから、頑なではない筈だが、どうにも不安だった。
「ジョージは別の意味で監視しなければならんな。奴は善人だが放っておけば悪人に利用されてしまいそうだ」




