70話 幻想と香り、少女の記憶
突如現れた世界に言葉を失った。
悠然と構える巨樹が、天まで聳えていた。
空を覆うように広がる枝葉の隙間から、遥か高みより降り注がれる光が差し込んでいる。
微風が頬を撫で、木漏れ日を揺らす。その斜光には、小さな輝きが舞踏していた。
芳醇な土の香りが世界を満たしている。
満開の笑みを見せるように、大地には花が咲き乱れていた。
凛とした空気に穢れはなく、神聖なる世界は純真そのものだった。それでいて息苦しさはなく、世界は一つの家族であるかのように、全ての者が巨樹の下に集う。
その光景をなんと表現すればいいのだろう。
天から贈られる生命の芽吹き。
胎動を祝福する光の讃歌。
万物を司る世界樹の恵み。
父を慕う子供達。
その全てが間違いではないのだろう。
神々しくも温かな光が、あまねく世界を包み込み、久遠の楽園に安寧をもたらせている。
望郷の念に駆られた。
巨樹こそが郷里なのではないかと錯覚を起こす。
見知らぬ小さな少女が破顔させて大きく手を振っていた。
その傍らには見知った顔もあった。
いつの日か見た、決意を秘めた面持ちではなく、幸せそうな表情を浮かべる二人に、つられて笑った。
凪ぐ心に身を任せ、巨樹に寄り添おうと手を伸ばす。
しかし触れようとしたところで、夢幻の世界は水沫に消えた。
◆
植物の少女は大きく背伸びして、表情を綻ばせた。
険しい山脈を越えても、体力を消耗した気配は感じられなかった。気力が底をつくこともなく、晴れやかな気持ちが続いている。
なにより素晴らしいのは大地の匂いだった。
風に運ばれてくる豊かな土の香りが、より一層濃くなっていた。生命の歓びが感じられ、ゆったりとした気分になる。眠気に誘われるのは、安穏とした雰囲気が伝わってくるからだろう。終の棲家に相応しい地があるに違いなく、人目を避けなくてもいい、と本能が呼び掛けてくる。
シュケルではヒトから危害を加えられることはない。そう思えるようになったのは、不思議な人間との出会いがあったからだろう。
「んー、いい気持ち。セフィはね……シュケルを目指して良かったって思う。ユグもそう思うでしょ?」
ジョージに出会い、そして名前を貰った。
自身に付けられた名はセフィ。相棒の球根はユグ。
以前、人間から呼ばれていたのは「ジッケンタイ」「マモノ」「マンドラゴラ」の何れかだ。名前とは言い難く、温もりはまるでない。
しかし新たに付けられた名前には温もりがある。ジョージが熟考の末に付けた名前には、何かしらの由来があるらしく、それが誇らしくも感じられた。
加えるなら彼が名付け親になった考えると妙に心が弾んだ。名付け親が別の者なら、こうまで嬉々とした気持ちにはならなかっただろう。
セフィにとって人間は恐ろしい生き物である。二度と関わりを持ちたくなかったが、そう思わせないのは、ジョージという人間の人柄が理由だろうか。身に纏う穏やかな雰囲気は、僅かに懐かしさを覚える匂いも漂わせていた。そして、なにより触れられた瞬間に見た夢が、あまりに心地良かった。
その反動というべきか、突然夢から覚めた時は、セフィは頓狂な声を上げてしまった。思わずジョージの足下を確認したが、巨樹ではないのは当然のことだ。が、腑に落ちない点はいくつもあった。
「ジョージって不思議なヒトだよね。鼻と耳を隠してないのに、催眠香も効かないし、叫び声を聞いても、へっちゃらだったもん。……本当に人間なのかなぁ。あっそうだ、ユグはアロマって何か分かる?」
ジョージの言葉を思い出して尋ねるも、ユグは茎を横に振った。「分からない」と言いたいのが伝わってくる。けれどジョージは心地良いと言っていたのだから、きっと悪い意味ではないのだろう。
「相手を良い香りで、心地良く思わせるのが『アロマ』って意味なのかな。うーん……どういうことなんだろう。攻撃だと思われないようすればいいのかな」
いきなり眠らせるのではなく、癒しを与えるように、僅かな香りを漂わせるのが、正しい使い方のように思えた。とはいえ今のセフィに試す手段はなく、思考を切り替える。
「それとね、あの時に綺麗な夢を見たんだけど、その夢にはセフィの恩人がいたんだよ。そう、前にセフィが言ってた人達。私を研究所って所から連れ出してくれた人達だよ。なんでジョージに触れられた時に、夢で現れたんだろうね」
思い起こすのは、苦く重たい記憶だ。
セフィに自我が芽生えた頃、同族と思われる少女達と共に人間達に捕まった。それから研究所なる建物に連れて行かれ、惨憺たる生活を余儀無くされていたのだ。
土の匂いがなく、狭く冷たい鉄の檻に囲われた小さな世界は、陽光から隔たれていた。別の檻からは、毎日のように他種族と思しき怨嗟と、すすり泣きが聞こえた。同族の少女達の泣き叫けぶ声も聞こえてくる。セフィは別室に連れて行かれ、頭に咲いた花を摘まれることもあった。
セフィは痛みと恐怖で叫び声を上げる。
しかし人間はそれを望んでいる節があった。何らかの装備で顔を覆っている人間が、何も身に付けていない人間を連れてきては、セフィの叫換を聞かせて、気を失わせていたのだ。時には催眠香を無理矢理嗅がせることもあった。
その様子は何かを試しているようだったが、セフィには理解不能である。考えたところで何も始まらず、痛みからは逃れられない。意味も分からず無闇に痛みを与えられるセフィは、次第に心が磨り減っていき、いつしか思考は完全に停止していた。仲間の数も少なくなっていき、恐怖を共有する同族はいなくなった。希望もないまま、小さな世界は闇に覆われていた。
――そんな日々が長く続いた時だった。
突然物音がして、暗い部屋に光が差し込んだ。
暗闇の向こうに浮かび上がったのは、黒衣を身に纏った二人だった。頭巾を被っているが、人影で女性だと判断できる。一人は女性らしい豊満な体つきで、もう片方は背丈が低く、体つきを見るだけでは、人間の子供だとしか判別できない。だが、それに伴わない重圧が伝わってくる。空気が震えるような憤怒と嘆きが混在しているようだった。
二人が頭巾を脱ぐと、銀色の髪が光に照らされて輝いて見えた。豊満な少女の髪は、耳を覆う程度の長さでだ。背丈の低い人物は、髪を二つに結っている少女だった。セフィと同じ褐色の肌だが、その姿は人間と似ている。違うのは耳が長く尖っていることだろう。
背丈の低い少女が溜め息を吐き、手を翳した。すると黒い靄が部屋に充満し、鉄は腐食して崩れ落ちる。まるで寿命が尽き、鉄としての役目を終えたようだった。
『ここじゃなかった。でも……ここもひどい。こんなの、おとーさんに、見せられない』
『……はい』
何を言っているのかセフィには理解できなかった。人間の言葉はある程度だけ理解できるようになっていたが、二人の少女が用いた言語は聞いたことがなかった。だが、不思議と懐かしさも感じられる。
豊満な少女は手にしている銃を抱き締め、祈るように何かを呟やき、それから銃を構える。
銃口に煌々とした光が集まった。そして豊満な少女が引き金を引いた瞬間、目映い光がセフィを包んだ。
「……え?」
銃という存在をセフィは知っていた。大きな音と小さな光を出す、恐ろしい物だと認識している。だが豊満な少女が構えた銃は、巨大な光だけを放っていた。そしてそれは、セフィが今まで感じたことのない温もりでもあった。
痛みなどなく、逆に負った傷が完全に癒えていく。ひび割れた心が塞がっていき、輝きが灯った。
『もう大丈夫よ。ここから連れ出してあげるから、ついてくるといいわ』
癒しの光に包まれたセフィは、豊満な少女の言葉で我に返った。以前として何を言っているのか分からないが、声色には慈しみが感じられる。手招きをする様子を見ると、研究所から連れ出してくれようとしていることは理解できた。
二人の少女は頭巾を被り直して背中を向ける。セフィはその後を追った。
部屋を出ると人間達が倒れていた。死んでいるのか生きているのか分からない。しかし千載一遇の好機を逃すまいと、食らい付くように少女の後を付いていくセフィに、人間の生死を確かめる暇などなかった。もう関わりたくない。ただこの場所から去りたいと必死だった。
しばらく逃げていると、いつの間にか背丈の低い少女の姿が見えなくなっていた。だが、入れ替わりのように巨大な黒い狼が伴走していた。
口には衣類を加えている。それを豊満な少女に渡すと、狼はセフィを咥えて、走り出した。
「え? え?」
状況が掴めないセフィは、ただ呆然と咥えられていた。噛み殺されるような気配はなく、空気を切り裂くように疾走する黒い狼に身を任せるしかなかった。
人気のない地まで運ばれると、セフィは労るように下ろされる。
「……はれぇ? どういうこと」
黒い狼は答えることもなく、来た道を引き返し、また直ぐに戻ってくる。その背中には豊満な少女が跨がっていた。
『ここなら安心だと思うわ。本当は島に連れていきたいけど……ごめんなさい、私達は急いでいるの』
豊満な少女は詫びるように言った。
そして背中を向けて、足早に立ち去った。セフィが礼を言う間もなく、名前を尋ねる機会も失われた。引き留める暇はなかった。もはや豊満な少女と黒い狼の姿は見当たらない。
「……ありがとうって言えなかった。あの二人と狼は何て名前なんだろう」
名前が分かれば手掛かりにもなる。もう一度会って感謝を伝えることもできるだろう。なにより二人の名前を心に刻んでおきたかった。叶うなら自分の名前を覚えてもらいたかった。しかし、この時点でのセフィには名前がなく、無い物ねだりだ。
「……これからどうしよう」
ふと気がつくと芳醇な土の香りが、風に運ばれてくるのを知覚した。
「美味しそうな匂いがする。そっちに行ってみよう」
発生源はおそらく二つ。より強い香りがする方へとセフィは足を進めた。しかし辿り着いた先には海が見えるだけだった。海の向こうから漂ってくるのでは、その地に向かう手段がない。仕方がなくセフィは、もう一つの香りを目指して旅路を進んだ。
その道中では打ち捨てられるように転がっていた球根と出会い、セフィは共に肥沃の地を目指した。言葉を発しないが、言いたいことは伝わってくる。安息の地と美味しそうな土の匂いを求める同行者だ。
やがてセフィは壁のような山脈に歩みを止められる。しかし良い土の香り放っている発生源に、着実に近付いていることは確かだった。この山を越えれば肥沃の地が待っている。そう考えれば山越えも苦にならない。断崖絶壁は登れそうにないが、回り道を探せばどうにかなるだろう。
静かな岩場は人気もなく、休息を取るのに最適だった。吹き下ろされる微風は心地良く、微睡みに揺られるセフィ達は、岩影に身を潜めて眠りについたのだった。
「そういえばね、ジョージって良い匂いがしたよね。美味しそうな土の香りなんだけど、ちょっとだけ匂いが薄いの。でもね、一瞬だけだったけど、とっても温かくて心地良かったし、土の匂いも凄かったけど、あれは気のせいだったのかな」
セフィが首をひねると、ユグは飛びはねながら意思を伝えてくる。
「え、だから頭に上に乗ったの? そっかー、やっぱりジョージは不思議な人間だね。セフィのことをヒト扱いしていたし、まるであの二人みたい。もしかして知り合いだったりするのかな」
黒衣を纏った二人の少女とジョージ。
繋がりがあるように思えて仕方がなかったが、どう見ても別種族だ。繋がりが見出だせない。
「ま、いっかー。そろそろイェル村に向かおう。獣人ってどんなヒト達なんだろうね」
考えるのが面倒になったセフィは山を下っていく。
ジョージから聞いた話によると、湖畔の村は穏やかな獣人が住んでいるとのことだった。言葉が通じなくても、攻撃されるようなことはない。そう聞いていたセフィはすっかり安心していた。
「こんにちはー!」
身体の小さな少女が、宙に浮かんだまま、接近してくる。
笑顔の花を咲かせ、大きく手を振る姿には見覚えがあった。
まさしく夢幻の世界に居た少女だ。
言葉が通じ、敵意は全く感じられない。それどころか、そこはかとなくジョージと似た雰囲気を漂わせている。
「はれぇ?」
良い意味で予想を裏切られたセフィは、間の抜けた声を漏らし、唖然としながら身体の小さな少女を眺めた。
「私はコロちゃんです!」
「あっ、そうだ。私はね、セフィって言うの」
快活に名乗るコロにつられてセフィも名乗った。名前があるというのは、それだけで嬉しさが込み上げた。
「あの人がウェンテちゃんで、山羊の獣人さんがハリルさんですよ」
コロは振り返り、近付いてくる二人を指した。
「……はりる? あっ!」
セフィはジョージから聞かされた名前にハッとした。
「あのね、ジョージっていうヒトからね、この手紙を預かったんだけど……」
「お父さんからの手紙ですか?」
「うん。私は読めないんだけどね」
ジョージをお父さんと呼ぶコロに、セフィはまたしても首をひねる。どう見ても身体の小さな少女とは別種族だ。しかし理解が追いつかないので、取り敢えず聞き流した。
「ふむ、私に手紙ですか。拝読してもよろしいですかな?」
「なんて書いてあるのかしら」
いつの間にか近付いていたハリルなる人物に、あたふたしながら「これです」と手紙を渡す。
しかしセフィは、傍らにいるウェンテなる女性に、目を奪われていた。同性から見ても美しいのは確かだったが、醸し出している雰囲気が、かつての恩人に似ていた。
姉妹がいるのだろうか。そう尋ねようとした時、ハリルが涙を流しながら呟いた。
「そういうこと……なのですね。全ては御心のままに」




