7話 歓びの目覚め
暖かい。
朧気な意識の中で、少女が思い浮かべたのは、春の兆しだった。
春陽の穏やかで暖かい光が、白く閉ざされた大地に、再び命を吹き込んでいくかのように、自らの身体に生命の息吹きが流れ込んでくるのが感じられる。凍えて動かなくなった指先に、再び血がじんわりと通い始めるような感覚があった。
柔らかな綿毛に包まれているようで心地が良かった。このまま眠り続けていたくなるくらいに、心まで安らかになる暖かさだ。
だが、意識の外で誰かに呼ばれているような気がしていた。その言葉はうまく聞き取れない。それでも何か大切な事を命じられたような気がしてならない。
ああ、起きなければならない。
そうして少女が目を覚ますと、見知らぬ人に手を握られていた事に気付く。
ごつごつとした温かい手だ。幼い頃に父と手を繋いだ時のような安心感が感じられるのが不思議だった。
(……人間?)
ぼやけ気味に目に映った人物は、フード深く被っていた。そのせいか顔の造形までは分からない。人間の男のようにも見えるが、不思議と嫌悪感は湧き上がらなかった。むしろ心が弾むような感覚さえある。あの忌まわしき種族の容姿に似ているはずなのに。
『目が覚めた? 身体は大丈夫? 痛むところはない?』
目の前の男は、まるで親が子を心配しているかのような、慈愛に満ちた柔らかな口調で言った。
(……え)
その言葉に少女は時が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
この人間は、今なんと言ったのか? ダークエルフの言葉でも人間のそれでもなかった。でも、確かに声が聞こえた。誰よりも深く学んだ自分だからこそ、多少なりとも捉える事が出来たもの――
ふと、身体の痛みが消えていた事に気付いた少女は、自らの身体を確かめる。
(……え)
身体の傷は完全に癒えていた。
あれほどの傷を負っていたのに、以前より活力が溢れている気もする。
ありえない。あれは重傷なんて次元のものではなかった。命が抜け落ちてゆく感覚が、今でも色濃く身体に残っている。治癒魔法では治しきれないような傷だったはずだ。では、蘇生魔法か? いや、その方がありえない。お伽噺で語られるような大魔法が、現実にある訳がない。そんな事が可能は伝承に聞く神様だけだ。ならば男は一体何なのか―
混乱から抜け出せない少女に向けて、目の前の男は尚も続けて言った。
『どうしたの? 痛むところあったの? それとも声が出せなかったりする?』
その言葉に少女の心臓はどくりと大きな脈動を打つ。
先程は突然の事で、上手く聞き取れなかった。正確に言えば、自分の理解速度が、この男の話す速度についていけなかった。だが今度はどうにか聞き取れた。その言葉の意味を。それが神々の言葉である事に――
だから少女は理解する。この御方が神であると。
蘇生魔法とも思える魔法を操り、滑らかで淀みなく神々の言葉を話せる者など、神の他に誰がいるだろうか。
自然と涙が溢れた。
少女は見放されても仕方がないと思っていた。神を忘れ、驕慢に生きたダークエルフは、いずれ果てるのが運命なのだと、心の奥深くで感じていた。
だが、そうではなかった。
絶ち切れる運命を再び紡いでくれた。今もこうして優しい声色で『大丈夫だよ』と、子供をあやすように語り掛けてくれている。
肩を触れられる度に、神々しいまでの力が、伝わってくるのが分かる。
その力は神器に宿るものに似ていた。
幼い頃から、慣れ親しみ、触れていた力だ。
その事に気付いた少女は、ごちゃ混ぜにこみ上げる感情が抑えきれず、ひたすら涙を流した。
そして今になって神器の本来の使い方を理解する。
感謝の言葉を述べなければいけないはずなのに、言葉が上手くでてこない。
咄嗟に思い浮かぶのは、簡単な単語だけだった。それをどうやって言葉にして表情すればいいのか、高ぶった感情では難しい。
だからなのか、少女の口から出た言葉は、稚拙なものだった。
「貴方様に助けていただき感謝申し上げます。神器の光がお届きになったのでしょうか?」そう言いたかったが、口から出た言葉は、幼子のそれと同じ程度のものだ。伝えたい言葉を、神々の言葉に変換して、喋る事は出来なかった。
少女は恐る恐る見上げる。
そこには困惑した表情な神がいた。
ああ、なんと言う事か。
少女は己の不甲斐なさに嫌悪感を抱く。感謝の言葉すらまともに伝えられなかった。いや、言葉そのものが通じているかも怪しい。
命を救われ、罪を赦された者が、拙い古語でしか感謝を述べられないとは、なんたる事か。
少女は赦しを乞うように神をじっと見つめた。
沈黙が息苦しい。神々の言葉を忘れてしまったダークエルフに、落胆されたのだろうか。不安に苛まれ、心が締め付けられる。
だが不安をよそに、神を微笑んでこう言った。
『あー、えっとね。俺が、君を、助けた。光も、空に、届いた。だから、降りて、こられた。でも、遅くなって、ごめんね』
身ぶり手振りを交え、聞き取りやすい単語を使い、ゆっくりと語りかけられる。
ああ、この御方はどれだけお優しいのだろうか。少女は再び流れ出る涙が止まらなかった。
言葉を忘れてしまった者にでも聞き取れるように、言葉の水準を下げてくださっている。その心遣いを感じるだけで少女は胸が熱くなる。それに遅くなったのも、謝るのもこちらの方だというのに、どこまでも慈悲深い。
神器の光は、空を越え、天の神の下へと届いていた。
やはりこれが神器の本来の使い方なのだと実感する。
はじめは古より伝わる兵器だと思っていた。神の御業の一端を借りる物だと思っていた。
だが違っていたのだろう。
本来は、魔力を捧げ、血を捧げ、己を捧げ、神の器を満たすのだ。そして心からの祈りが、光となって空へと駆け巡り、神へと献上されるのだ、と思い至る。
だから今まで降臨される事はなかった。ただの常套句として祈りなど届くはずがない。ましてや用途を誤り、兵器として使っていた事など問題外だ。
「ああ……。私はアンジェリカと申します。いま私は自らが存在する意味が分かりました。私は貴方様を愛し、敬い、仕えます。どうか我らをお導き下さい」
少女は自らの名前を名乗り、万感胸に迫る想いを伝える。
ダークエルフの言葉では伝わらないかも知れない。それでも自分の想いを余すことなく伝えたかった。
なぜ自分が生まれたのか。なぜダークエルフが苦境に立たされていたのか。なぜ、自分が信仰に目覚めたのか。なぜ自分が死の淵に立ち、そこから救われたのか――
その意味がようやく分かった。
自分はこの日の為に生まれてきたのだ。
ダークエルフが再び神の下へと至る神子として。神に巡り合う為に生まれてきたのだと。
アンジェリカは神の下へ跪き、靴の先に口付けをする。
身体が勝手に動いた。これこそが敬愛を示す表現なのだと本能が告げているようだった。
ダークエルフは愛を告げ、求婚する時に、相手の足の指先に口付けをする。
了承を得られれば、微笑みで返され、断られれば足で払い除けられる。
足の指先は汚れているものだ。だからこそ相手のどの部分でも愛せるという事になっている。
なぜこのような文化になったのかはアンジェリカには分からなかった。そのような相手もいなかったし、愛を告げてくる相手もいなかった。仮に相手がいても、払い除けていただろう。
でも今ならその文化が残った理由も分かった気がした。
本来は神に向けて敬愛を示していたものなのだ。
神のどの部分も汚いとは感じない程の気持ちを行動で示していた。いや、神に汚い部分などある筈がない。そう思える程に、神を崇拝していた表現だったのだと、今になって理解した。
おそらく、それが歪んで後世に伝わり、いつしか求婚の為の行為に変化したのだ。
口付けを終えたアンジェリカは神を見上げる。
――ああ、微笑んでいてくれている。