68話 いつか訪れる世界
読書に没頭していた黒衣の青年は、汽笛の音で我に返った。
読んでいた伝記を閉じ、表紙を撫でながら余韻に浸る。それから客船内に備えられている本棚に戻し、彼女が生きていた時代に思いを馳せた。
青年は伝記に書き綴られている偉人のことを知っている。とはいえ、風の頼りに聞く程度で実際に会ったことはない。出来るなら生きているうちに会ってみたかった、と青年は考えていたが、種族としての寿命の差は、流石に越えられなかった。
偉人は長命種ではない。少年が青年期に差し掛かる頃には、天寿を全うしていた。最期は眠るように息を引き取り、国葬されたと聞いている。
青年が窓の外に目を向けると、異国の港町がすぐそこに見えた。
胸の高鳴りと締め付けられるような不安が入り混じる。なにしろ自らの意志で旅に出るのは初めてのことだった。加えるなら女性を連れての旅である。平和な時代になったとはいえ、不測の事態が起こらないとも限らない。
はじめは一人で旅に出るつもりだった。が、その女性から「貴方一人の方がよっぽど不安」と鼻であしわれてしまったのだ。何度が議論を交わし、周囲の意見を参考にしたが、結果的に二人旅になった。
「そろそろ港に着くみたいだね」
青年は同行者に声をかける。しかし返事はない。
同じ黒衣を着た幼馴染の少女で、青年よりいくらか年下だ。昔は柔和な性格で、間の抜けたところもあった。自分がしっかりしなければと庇護欲を掻き立てられていたが、いつの間にか立場が逆転している――ような気がしてならなかった。
その少女は青年の言葉が聞こえてなかったのか、顔を上げることもなく、視線を下に落としていた。青年が覗きこむと、神妙な面持ちで絵本を読んでいた。
「それって幼児向けの絵本だよね? そんなに面白いの話なの?」
「え? ああ、うん。この絵本はね、面白いというか凄いんだよ。子供向けなのに、大人も楽しめる……というか勉強になる。それに私達だからこそ、この絵本の本当の意味が分かるんだって、やっと気付いたんだもん」
「どういうこと?」
青年は首を傾げて、同行者が手にしている本を見やる。
表紙は「船乗りと大きな赤い龍」と、異国の言葉で書かれてある。船を抱えて飛んでいる巨大な赤龍の姿が、幼児向けの絵で描かれていた。
「この絵本はね、どれだけ自分が大変な目に遭っても、善い行いをすれば、善い結果が得られるって話なんだよ」
同行者のかいつまんだ説明によると、航行不能になり、漂流していた船乗り達が、別の漂流者を助ける物語らしかった。
水も食料も尽きた主人公は、動くこともままならぬ程に疲弊していた。それでも船乗りの掟に従い、板切れに乗って漂流する者を助けた。
助けられた遭難者は、船乗りの掟に感心した。自身が極限状態であるのにも拘わらず、他者のために動けるのは、そうそうできるものではない、と船乗り達の傷を癒し、水と食料を分け与えた。そして漂流者は大きな龍に変身して、船を抱えて大空を飛び、船乗り達の故郷まで連れて帰るという話だ。
大人には荒唐無稽な印象を受ける話だが、幼い子供に勧善の概念を学ばせるには最適なのだろう。しかし青年には別の意味が含まれていることを気が付いた。
「そっか、そういうことなんだね」
「ふふ、気が付いた?」
「火の神獣様から聞かされたことのある話だったからね。すぐに分かったよ。それにさ、この国は僕達と違う文化や宗派だからね。あの御方を表立って敬まわないようにしているみたい。だから意図的に隠しているのかも」
絵本は事実に基づいているが、一部だけ改変されている。しかしそれは悪意ではなく、最大限の敬意を払った結果なのだろう。
「普通の人間として、この国を旅されたんだもんね。それに礼拝の作法も変わっているらしいよ。でも心の奥では、ちゃんと敬愛しているんだと思う。だからこの国には――」
少女の言葉の途中で、船内に響き渡る軽やかな音色が鳴った。船内放送が始まる合図だろう。青年と少女は会話を中断して、耳を傾ける。
――本船はまもなくフェアティア港に着岸いたします。大変長らくのご乗船お疲れ様でした。船が完全に停止しましたら案内いたしますので、手荷物と乗船証をお忘れにならぬよう、下船口にお越しくださいませ。
放送を聞き終えた黒衣の二人は、最低限の中身しか入っていない背囊を背負った。巡礼の旅に赴く際の正装でもある。
身支度はフェアティアで揃えるもの。それがダークエルフの巡礼者の習わしであった。
「じゃあニーニャ、行こうか」
「チコ、楽しみだね。フェアティアはジョージ様が愛した街だもの」
「旧市街の歴史地区にある安宿街で、ジョージ様はお過ごしになったらしいから、まずはそこを目指そう。この船で到着するって伝わっている筈だから、迎えにきてくれていると思う。あ、そうだ。ここからはジョージ様のことを『彼の者』って呼ばないとね」
「この国ではそう呼ばれているんだっけ。ついジョージ様って言っちゃいそうだから、気を付けないと……だね」
下船口には既に人が集まっていた。順番待ちの列にチコ達は加わり、大人しく待つ。割り込みなどはなく、誰もが規則的な流れに身を任せている。しかし何処と無く気持ちが急いているように見えるのは、漂ってくる香辛料の匂いに、食欲が刺激されているだけではないのだろう。
「ああ、懐かしいなあ。この淀みのない瑞々しい魔素は、彼の者の恩寵が街を包んでいるからだろうね。まるであの島みたいだ」
チコは思わず肺を空気で満たす。香辛料の匂いに鼻腔をくすぐられ、純度の高い魔素が、体内の老廃物を浄化していくのが手に取るように分かる。
男神の庇護を受けるフェアティアは、伝染性疾病の侵入を防ぎ、悪意を完全に寄せ付けないだけでなく、長い船旅で体調を崩した者には、癒しも受けられるのだ。それを証明するように、顔色を悪くした男の乗客が、港に降り立った瞬間に、晴れやかな表情になっていた。「彼の者よ、感謝します」と、陽光を全身に浴びるように、両手を下方に広げている。
「あの人は船酔いで辛かったのかな? 言ってくれれば、僕が治癒したのにね」
「ジョー……じゃなかった、彼の者の恩寵を実感したかったんだと思うよ」
それもそうか、とチコは頷く。
いかにダークエルフの魔力が高かろうと、ヒトの力を超越することはない。あの慈愛に溢れる御業を、より一層肌で感じたいのなら、多少のことは我慢してしまうのが、ヒトの性というものだろう。晩餐を楽しみにして空腹に耐えるようなものだ。
港に降りると、チコ達は人の多さに嘆息した。
下船した客を待ちかねていたかのように、様々な種族の客引きで混雑している。「宿は決まっているかい?」「俺が街の案内役を引き受けるよ」「オススメの宿があるんだが」などと、競い合うように、チコ達を避けながら、他の客に声をかけていた。
獣人の気質、あるいはこの地に住まう者の特性なのか、執拗な客引きはおらず、断られてしまえば、すぐに手を引いている。客の興味を引けなかった時点で、勝負は客引きの負けなのだろう。競い合いを好む一方で、潔さはあるようだ。
チコ達が声をかけられることがないのは、ダークエルフが忌避されているからではない。そんな時代はとうに過ぎているのである。チコ達が歩いていても、敵愾心が滲む視線を送られることはなく、逆に無言で微笑まれるくらいだった。
シュケルでは巡礼者の邪魔をするのは、徳が足りない行為と考えられているらしく、みだりに客引きをしてはならないと不文律があるらしかった。加えるならダークエルフの巡礼者が、泊まる宿も周知されている。はじめから勝負を仕掛ける理由もないのだろう。
「これも彼の者のお陰だね。僕達がこうして堂々と歩けるんだからさ」
敬愛する男神の笑顔が脳裏を去来して、チコもまた自然と笑みが溢れた。他種族からの襲撃に脅えて、眠れぬ夜を過ごす日など遠い過去の話だ。今ではこうして見知らぬ人が、微笑んでくれる。それだけで心が温かくなり、つい微笑み返すと、女性の客引きが目を逸らした。
「あ……」
人間種との間に生じた不和は、完全に解消されていないのだろうか。そう考えてしまったチコは、寂寞とした念を追い出すように深く息を吐き、気持ちを切り替える。
(いや、目を逸らされるくらい、なんてことないさ。人間に扮したジョージ様は、このくらいで怒ったり悲しんだりしない筈。僕もあの御方のように笑おう)
己を鼓舞するようにチコは笑顔を作る。
「あはは……うん、まあ、目を逸らさることもあるよね。まだ僕達が嫌いなのかな。それでも少しずつ歩み寄らないとね」
「あのね……その逆だと思うよ。あの人間の女の子は照れているだけだよ。ほら、耳が赤くなっているでしょ。それに今でもチラチラとチコを見ているよ。きっと一目惚れされたんだよ」
ニーニャは溜め息を漏らしながら首を横に振る。そして残念なものを見るような、冷ややかな視線をチコに向けた。
「いや、それはないと思うよ」
チコはもう一度、客引きの女性を見る。が、やはりというべきか目を逸らされる。確かに耳は赤くなっているように見えたが、日に焼けている最中のようにも思えた。
「ほら、やっぱり目を逸らされた。きっとニーニャの勘違いだよ。シュケルでは男らしい人が好まれるって本で読んだからね。ほら、あの英雄ザフェルさんみたいな精悍な人だって。……僕は女の子みたいな顔立ちだって、からかわれることもあったし、細身で腕力もない軟弱者だから、好まれるとは思えないよ」
「平和だから好みも時代と共に変わったんだよ。私達が魔物だって言われなくなったくらいには時間は流れている。でもチコはそのまま鈍感な軟弱者でいてね」
冷笑するニーニャに反論しようとして、チコは言葉を飲み込んだ。「そうなのかなぁ」と返事をしながらも、内なる自分と議論する。
シュケル国の紙幣にも描かれているザフェルは、同性から見ても男らしさに溢れる半獣人である。初老に差し掛かった肖像画でも、端正な顔立ちが変わることがなく、より魅力が増していた。彼のような男が好まれるのはチコも納得できたが、時代が変わったからといって、自分のような貧弱な男が好まれるようなことはない。おそらくニーニャが傷つけぬように、優しい嘘を吐いたのだろう、と結論づけたところで男の声がした。
「宿の者ですが、チコさんとニーニャさんですか?」
張りのある声が聞こえた方を向くと、獣人の男が白い歯を見せて笑っていた。恰幅のよい狸の獣人である。声と体毛に若々しさが感じられるが、どのくらいの年齢なのか分からない。
「あ、はい。僕がチコで、こちらがニーニャです」
「お世話になります」
チコが二人分名乗ると、ニーニャも続いた。
「ようこそシュケルへ。私はスィナン・ラクンコペキです」
狸の獣人は言いながら腕を下方に広げた。男神が広めた抱擁の挨拶だろう。
それに倣い、チコは狸の獣人を軽く抱き締める。続いてニーニャも同様に抱擁で挨拶を交わした。周囲から「いいなぁ」と羨望の念が漏れていたのは、巡礼者と挨拶を交わすのがシュケル市民からすると、徳のある行為だからだろう。先程の女性の声も聞こえた気もしたが、きっと気のせいだ。
「他の巡礼者の方々は、まず広場の女神像に寄りますが、チコさんとニーニャさんはどうされますか?」
「じゃあ僕達もそれでお願いします」
港を後にしてチコ達は広場に向かう。
道中でも相変わらず人が多く、活気に満ち溢れていた。この人は観光客だろうか、それとも地元民か。種族の垣根の取り払われた街では、区別が難しい。そんな些細なことを考えながら、辺りを眺めているうちに広場に着いた。
中心には街の象徴である巨大な女神像が建てられていた。台座がやけに大きいのが、噂通りだった。
チコ達は女神の下に向かい、目を瞑り静に祈りを捧げようとした時、スィナンは観光案内をするような、滑らかな口調で言う。
「これはザフェルが彼の者から授かった女神像を見本にして作られたものなんですよ。授かった物のなかにはダークエルフの木彫り像もあったらしいです」
「そうなんですか!?」
「聞く話によると、我が子を自慢するようにダークエルフのことを語ったそうですよ」
「僕達を我が子のように……」
「かの英雄達が、龍の姿をした彼の者に抱えられて帰還した船が、今ではフェアティア海上博物館と名前を変えて、港に浮かんでいるんですよ。船はいつ沈んでもおかしくない損傷を負っているのに、決して沈むことはありません。まさに彼の者の恩寵ですね。そして博物館の中には女神様とダークエルフの像を展示しているんです。観光名所なんですよ。溶けない冷凍魚も人気なんです」
歓喜が胸の底から無尽蔵に湧き起こり、迸るように全身を駆け巡る。行き場を失った歓びが、瞳から氾濫した。言うべき言葉が見つからず、感謝の念が全身を震わせた。
(ああ、だから……なのか。フェティアは世界的にも知名度のある街だ。その街の観光名所に神様が創ったダークエルフの像があれば、否定的に見る人は少なくなる)
死の淵から救い上げられ、慈愛を与えられた。
それは自分達の知らない場所でも、与えられ続けていたのである。おそらくダークエルフだけではないのだろう。魔物の謗りを受ける者の全てに救済をもたらしていたのだ、
「あ、あの! 今すぐにでも、彼の者に祈りたいのですが!」
全身全霊をかけて祈りを捧げなければならない。
チコとニーニャは示し合わせたように声を揃えて、スィナンに尋ねる。
「では、こちらにどうぞ」
案内されたのは女神像の裏手だった。
一見すると何の変哲もない台座である。だが、模様にしか見えない窪みをスィナンが押すと、ゴリゴリと石が擦れる重い音がした。そして台座の一部が切り取られるように、鎖で繋がれたまま下へとゆっくり降りた。
「これが隠し礼拝堂です。今となっては観光名所になっていますが、当時はこのようにして、ひっそりと祈りを捧げていたようですね。」
スィナンが語ったことは、船内放送の合図で遮られなければ、ニーニャが伝えたかった言葉の筈である。
シュケルの民は表立って、男神に祈りを捧げない。男神は人に扮して、ただの人間種であるかのように振る舞っていたのだから、男神像を建てるのは逆に不敬だろうと考えているらしかった。だからこそ、こうして密かに祈りを捧げていたのだろう。
チコが中に入ると、人が数人しか入れないような空間に、小さな男神像が鎮座していた。陰ながら妻である女神を支える姿を表すかのように、女神像の台座の中で密やかに祀られている。
手を下方に広げる姿は、全ての者を包み込むようだった。まさに抱擁だ。男神像は磨き上げられており。手入れを欠かしていないのだろう。埃を被るようなことは絶対にないと確信する。
「私達は女神ニナ様を敬っていますが、同じように彼の者を密やかに敬っているんですよ。大抵のシュケルの民は、彼の者の像を自宅に隠し持っています。誰にも見られないように祈りを捧げるのが我々の習慣なんですよ。……なんでもその習慣を広めたのはアンネ達らしいですが」
スィナンの言葉の中に、会いたかったけれど会えなかった偉人の名前が出て、チコは胸が温かくなる。
男神の教えを模倣し、全ての者に愛を捧げた女性の通称がアンネ。この国の言葉で母を表す意味だ。
(ニナ様、ジョージ様ありがとうございます。僕は貴方様から与えられた慈愛のお陰で生きています。……いつの日か、本当はまだ少し怖いけれど、裁きの地に赴きます。それが僕達に与えられた語り部の役目ですから)
感謝の念と決意を胸にチコは祈りを捧げる。
長命種だからできること。それが語り部だ。
自らの体験した奇跡を語り継ぎ、旅をしながら男神の軌跡を追う。そしてそれを次世代に繋げるのが、自らに課した役割である。
温和な男神が怒りを露にし、理が乱れた地に赴くのは、恐ろしくもある。
ヒトが禁忌を侵した、裁きの地。
この目で確めなければならない。
チコ達が台座から出ると、スィナンに案内されて、宿に向かう。
かつて人に扮した男神が利用した安宿が、今では巡礼者御用達の宿になっている。料金は無料も同然だが、通される部屋は物置である。一般客であれば、普通の部屋が割り当てられるだろうが、巡礼者はそうではなかった。
――足を伸ばして寝られるなら、広い寝台は必要ない。
男神が残した清貧の教えだ。その身で経験したいがために、物置に泊まりたいと、どの巡礼者も望むのである。例に漏れずチコ達も望んでいた。埃が舞うことがなく、穢れのない物置は、瞑想にも相応しい空間だろう。聖地に向かう前のなら、尚のことである。
敬愛する神が基礎を作った町、そしてチコが尊敬する人間種が作り上げた街。それがフェアティアの次に訪れる予定の都市であり、ハリル派のニナ教が暮らす聖都アクシムである。
宿に向かう途中で、目を逸らされた客引きの姿が目に入った。
既に客を案内した後なのか、宿の多い区域から歩いてくる。
チコは今になって、自分の思い違いだったのではないかと、考え直した。
(ジョージ様がダークエルフの像を作ったんだから、僕は嫌われていなかったのかも。僕が好かれる理由は思い浮かばないけど、お礼の一言くらいは言わないと)
依然として自らの自己評価が低いいままだ。異性から恋愛的な感情を寄せられるとは思っていない。惚れられたなんて考えるのは烏滸がましいというものである。
だが、どのような感情を持たれているのであれ、一言感謝を述べたかった。それは男神たるジョージから与えられた、大いなる愛への感謝と同じものなのだから。
チコは客引きの女性に向かって走り出す。ニーニャの「あっ」という言葉を背中に受けながら女性の下へ着くと、彼女は目を見開いていた。目を逸らすことすら忘れて、酸素を求めるように口をパクパクと開き、赤面している。
「あの、初めまして。僕はチコと言います。えっとそれで……その」
言葉に詰まる。だが何を伝えるべきか考えれば、相応しい言葉が直ぐに見つかった。それを渾身の微笑みと合わせてチコは告げる。
「僕は貴女に会えて嬉しく思います」
「ひゃ、ひゃい……。しょ、しょの……私もれす」
顔が赤く、呂律が回っていないのは酒を飲んでいたのだろうか。だとしたら水を差したかな、と考えたチコは「すみません、お邪魔しました」と告げて、ニーニャの下に戻ると、眉を下げて残念なモノを見るような目が待ち構えていた。
「ほらね。だから一人旅をさせたくなかったんだよ」
心底呆れたと言わんばかりのニーニャの言葉に「なにが?」と首を傾げながらも、安宿にチコは向かった。いつも以上に心は晴れやかで、足取りも軽い。
宿に着くとチコ達は部屋と言う名の物置に案内される。
中に一歩踏み込むと、静謐な空気が漂っていた。始まりの島の、神々の間のようでもある。新築のように輝いているが、それでいて郷愁を感じさせる。この部屋こそが、世界で最も尊い物置だろう。
「素晴らしい部屋だね。彼の者の慈しみで溢れているよ」
「まるで小さな世界があるみたい。物置って名前は相応しくないかなって気がするけど、きっと仰々しい名前をつけるのは、逆に不敬になると考えられているんだろうね」
「……なんだか、勿体ないなあ。でも仕方がないよね。」
チコは背囊を下ろし、ふぅと一息つく。そして腰を下ろすと、今後の予定をニーニャと打ち合わせする。宿に着くまでは、呆れているような面持ちだったニーニャは、いつもの表情に戻っていた。
まずは街の散策。フェアティア海上博物館や市場の見学は外せないだろう。空腹を覚える頃合いになれば、男神が食した物を味わう楽しみもある。名物の焼き菓子の話題になると、ニーニャは期待に瞳を輝かせていた。
無論、神々への敬服の念は忘れていない。人に扮した男神がシュケルで労働に勤しみ、その合間には楽しんで観光していたとされているのだから、男神の軌跡をなぞる旅に、愉楽を求めるのは間違いではないのだろう。
しかし本質は見失うことはない。
旅をしながら、神の教えを後世に語り継ぐのは当然のことであるが、傷付いた者に手を差し伸べ、街の雑用すら好んで引き受けるのが、チコ達の望みである。
冒険者組合が解体された今では、男神と同じように冒険者として旅をすることはできない。しかしチコ達の属する組織は様々な支援活動を行っているため、働きながら旅をすることは可能なのだ。
組織の名は国際博愛支援機構。
通称コロちゃんの会。
元冒険者であったアンネが発端となった活動だ。
戦争孤児。自然災害の被災者。様々な理由で寄る辺を失った者達に、アンネは分け隔てなく無償の愛を注いだのである。魔物の謗りを受ける者にも衣食住を与え、教育を施す姿には、世界最高峰の教育機関卒業者だけでなく、最強と名高い老剣士からの賛同も得ていた。その者達も男神の教えを直接、賜った者だと聞く。
その活動はやがて国境を越え、ダークエルフ達に届いのだった。
「聖都に行くのが楽しみだなあ」
チコはまだ見ぬアクシムに、思いを募らせるように呟く。
「世界で一番小さな国なんだってね。それとね、好きな人に首飾りを贈るようになった風習って、リックスブリックスさんの装飾店が発祥らしいよ。……いつか私も誰かさんから贈られたりするのかなあ」
ニーニャから意味ありげな視線を送られる。が、それにチコが気付くことはなく、自らの知っている人物の名前が出たことに心を弾ませる。
「あ、それも本で読んだことがある。アンネもリックスブリックスさんも僕達より短命だけど、あの人達が残したモノは、僕達よりも長生きするのかもね。そう考えると二人も語り部なのかもしれないね」
「……本当にチコって残念な人だよね。長いことティアおばさんと一緒に子供の世話をしていたせいなのかな」
「え、何か残念だった?」
「ううん、こっちの話。それよりアクシムに行くなら、お花も買っていこうね。今年は建国の祝いの年なんだから」
「もちろん買うよ」
かつて魔物の謗りを受けた者が集う街。
ゴブリン、オーク、オーガ、トロール。種族名を挙げればキリがない者達が、八大種族と仲睦まじく暮らし、不死者すら神の子として共に過ごしている。心に聳えていた壁など取り払われ、互いを尊重して生きるは当然のことなのだろう。
その者達を束ねていたのは、建国の母であるアンネだ。
私財を売り払い、生涯をかけて傷付いた者を癒し続けた女性である。波乱に満ちた幼少期を過ごした彼女は、男神と出会ったことで、それまでの不幸が帳消しになるほどの慈愛を賜ったのだろう。
彼女の名はリリアンヌ・ド・モンフォール。
男神からはマザー・リリアンヌとも呼ばれていた。




