66話 萌ゆる芽
極度の興奮と多幸感を全身で表すハリルは、賜ったとされる言葉と、神への信仰を情熱的に語り続けていた。仕草一つに力が込められ、嬉色に満ちる表情からは、歓喜が氾濫している。
その話にリリアンヌは感慨深く何度も頷いた。
己がどれだけの幸福の上に立っているのか、改めて気付かされる。リックスブリックスとの再会は、まさに天から齎された贈り物。人型の魔物と呼ばれる者達と穏やかな時間を過ごせるのも、神という天上の存在がいなければ不可能だったであろう。
ハリルは信用するに足る人物だと確信しているからこそ、リリアンヌは自らの過去を語った。
時間など飛ぶように過ぎ、気が付けば太陽は地平線の彼方に姿を消している。
野営地となったのは、見晴らしの良い断崖の近くだった。
眼下に広がっているのは、月明かりに照らし出される黒い大地――だった平原。再生された地と呼ぶべきなのだろう。生命の息吹が感じられる緑は、新たな始まりの萌芽を予感する。
心地良い風が吹き、リリアンヌの頬を撫でる。
セネムという吟遊詩人の少女が奏でる音色が、風に乗って聞こえてくる。離れた場所で小さな音楽会が開かれ、他の者は耳を傾けていた。人間種、獣人種、ゴブリンとオーク。そして龍達が種族の壁を越えて、美しい旋律に身を委ねている。牙猫はその光景を嬉しそうに目を細めていた。時折、再生された黒い大地を、うっとりと見つめている姿は、人間臭さも感じられる。
ハリルの話を要約すると、この世界は女神ニナが創造したのだという。種族間に争いはなく、互いを尊重しあって暮らしていた。しかし女神の姿が見えなくなり、大いなる力を感じ取れなくなった民の心は、次第に歪んでいった。種族の差異から生まれた意識が蔓延し、互いに憎しみ合うようになる。袂を分かったのは必然といえるのだろう。
長い時を経て、この世は憎悪に蝕まれた。
世界の何処かで、血は流れていた。命の奪い合いを経験していない国など、何処にもなかった。それが本能だと謂わんばかりに、凄絶な争いは繰り広げられている。シュケル国とて例外ではなかった。
そして――争いは、黒き獣を呼び覚ます。
黒き獣は調停者の如く、戦地に出現した。より強大な破壊で、万象を灰塵に帰す姿は、世界に終わりをもたらす獣だった。掛け値なしの絶望を植え付けられ、いずれ世界は崩壊し、大地は黒く染められる、と残された者は予感を抱いた。
しかし、当世において、悠遠の世界に赴いていたとされる、大いなる父が降臨し、黒き獣の心を解きほぐした。心に巣食う闇を癒し、黒い大地までも再生したらしかった。
それが女神の対なる存在、男神である。
創世記に姿を見せていなかった男神は、存続の危機に瀕した世界に降り立ち、女神が姿を消した原因を探っている。ありのままの世界を、曇りなき眼で見定める必要があるらしかった。それ故に神という身分を隠しながら、人間種の旅人という立場で、この世界を調査しているとのことだ。
「ああ……ジョージさんは男神でありながら、人間を演じているのですね」
語られた言葉がストンと胸に落ちた。それは揺るがない真理だと思えてしまい、リリアンヌは声に熱が帯びる。
「ええ、そうですとも。ですから表立って敬うことは、逆に足枷になってしまうのですよ。それは不敬とも言えるでしょうな」
情熱が鎮まる気配のないハリルは、教え子に諭すように語る。その姿を一見するだけでは危険人物だが、信仰心が溢れているだけだ。獣人種では有り得ない魔力があるらしく、その影響で神の力を感じ取る能力も秀でているらしかった。
「ですが……ジョージさんは隠しきれない神聖さを持ち合わせていらっしゃいます。それにヒトとしての在り方も、今の人間種と乖離があるので、困惑する者がいるかもしれません」
浮世離れしている佇まい。そして多種多様の動物を引き連れる姿は、まるで吟遊詩人が詠う聖者のようだった。種族に貴賤をつけない考えに至っては、地に生きる者の思考ではない。天から俯瞰する者の考えと言えるだろう。
「貴女の言いたいことは理解できますよ。異端者……そう扱われるのを懸念しているのですね」
抱いている不安を見透かしたようにハリルは言った。
「幼かった私は危険な目に合いました。ジョージさんに傷を負わせられる者は存在しないでしょうが、それでも不快に思われるのではないでしょうか」
「不快というよりは、そのような概念ができてしまったことに、お嘆きになるでしょうね。私が呼び出された時は、眉間を押さえてゴブリン族が迫害されたことを、悲しんでいるようにお見受けしましたので。ですが、私達が口出しするものではないのでしょう。あの容疑者達は腹立たしいですが、相応の罰を受けているようでしたからな」
「奴らが? それはどのような」
リリアンヌは思わず身を乗り出した。
ゴブリン族を人間と同列に語るなら、冒険者の蛮行は極刑に価する。罪狩りの資格を持った冒険者に、その首を狙われるのも已む無しだ。生きている限り平穏は訪れない。が、現状ではゴブリン族やオーク族はヒトの扱いを受けていない。
「彼らはジョージ様の寵愛を賜れないかもしれません。それは死よりも恐ろしい罰でしょうな。世界から否定されるようなものです」
「奴らはジョージさんから愛されないと?」
想像しがたい恐怖に、喉の奥に唾が押し流される。
「今の段階では……ですがね。確かディランと言いましたか、彼は魔術に長けているようでしたから、ジョージ様の力を感じ取っていました。だからこそ愛されていないと感じたのでしょう。彼は自らの存在意義を全否定されているかのようでしたから、もはやこの世界に居場所はないと、考えながら生きるのでしょうな。もしかしたらジョージ様から罰せられることが、唯一の救いだと思っているかもしれません。ですが、それでもジョージ様は罰することなくシュケルの法に委ねた。……神から見捨てられたも同然と思っているでしょう」
言葉を失い、リリアンヌは蒼白する。
ジョージがゴブリンの親子を抱き締めた時、一瞬だったが負の感情が、微かに伝わってきたことを思い出す。
あの瞬間だけは、禁忌に触れたような恐怖感が身を貫いた。焦燥感を覚え、世界から否定されるような錯覚を起こしたのだ。それは水を持たず砂漠を彷徨うより恐ろしい。しかし直後には煌々とした清らかな光の粒を浴びて、恐怖や焦燥は霧散した。
次に込み上げたのは悔恨だった。
元凶である、あの三人が許せる筈もない。短い間だったとしても、仲間だったこともある自分こそが、決着をつけなければならないと拳を振り上げたのだ。
「それは……恐ろしいですね」
ようやく口にできたのは当たり前すぎる感想だった。
ハリルはふっと表情を緩め、和ませるように続ける。
「はは、少し言い過ぎましたな。ジョージ様は人間の立場であるからこそ、シュケルの法に委ねたのですよ。容疑者達が見捨てられたように感じているだけです。おそらく反省すれば、再び愛していただけるでしょう。ただし、我々は国として彼等を罰しますが……」
ハリルによるとシュケルはゴブリンやオークはヒトとして扱うらしい。しかし事件のあった時点では、リックスブリックス達はシュケル国民ではないし、他国では殺しても罪にならない魔物だ。それをどのように対処するのか、国として試されていると、意気込んでいる。
「奴らには同情はしませんが、ジョージさんから愛されていないと感じるのは、今となっては想像を絶する恐怖ですね」
「ええ、そうですね。だからこそ私達がジョージ様に進言する言葉は何一つもありませんし、余計な懸念も不要なのでしょう。……私達は清く正しく暮らすだけでいいのですよ。そう、大昔のようにね」
遥か昔、全ての種族は一つに結ばれていた。
そう語ったハリルを疑う余地は微塵もなかった。神の力を感じ取れるだけで、心が和ぐのだ。争いなど起こりようがない。
「それに……ふふふ。人間として振る舞うジョージ様から、友人でありたいと告げられた私は、昇天してしまいそうな勢いでした。不敬だと分かりながら、今すぐにでもジョージ様に身も心も捧げたいと、考えてしまった私は未熟なのでしょうな」
ハリルは自省の念を口にしているが、よほど嬉しかったのか口元は緩んだままだ。
敬称を止めないのは、職長という立場を隠れ蓑にして、敬っているのだろう。リリアンヌとて同じように呼びたいが、理由が見つからない。
「私もジョージさんから仲間だと言われた時は、心が弾みましたので、その気持ちは分かります。ジョージさんから大きな愛を与えられた今の私なら、感極まって気を失ってしまいそうですね」
初めこそは失礼な態度をとってしまった。今となっては耐え難い醜態を晒したと、リリアンヌは猛省している。降り注ぐ光を浴びてからは、乾いた砂に水が染み込むように、心が満たされ、多くの言語まで授かった。そして何よりの恩恵は、神々しい力を明瞭に知覚できるようになったことだ。
森に降り注いだ癒しの光は神々しく、そして幻想的だった。
純然たる魔力の輝きは美しく、心を包み込んだ。
ジョージの心象に触れた気がした。
太陽が分け隔てなく大地を照らすように、ヒトを慈しむ想いが、伝わってくる。
愛を与えられた。それ以外に考えようがない温もりが感じられ、リリアンヌの胸の内は高揚で熱を帯びる。
ジョージはいつも愛を注いでいた。
武器を振り回しながら、狂乱するオークでさえ、慈しむように抱き締めていた。そして傷を癒し、迷い子に手を差し伸べるように、愛を注いでいたのだ。
動物達に与えていた水にも、愛が込められていた。それはヒトの身では作り出せない、生命の源といえる聖なる水だった。
この世界から争いが生まれる道理がない。かつて全ての種族が、神の下で一つだったという話に、この上ない説得力があった。
「挨拶も愛なのだと私はジョージ様から教わったのですよ! 受け手がこのように腕を広げると、挨拶で愛を注いで頂けるのです!」
鼻息を荒くするハリルは両手を広げながら言った。
リリアンヌは「こうですか?」確かめるように腕を広げる。
「ええ、その通りです! 初めて出会った時、もしくは数日ぶりに会う時に、そのように腕を広げると抱き締めてくださるのですよ」
「では、私がジョージさんと出会った時に、こうして腕を広げていれば抱き締めて、愛を注いで頂けたということだったのですね。……ああ、私はなんて勿体ないことを」
「間違いなく抱擁してくださるに違いありません。これは古くからあった挨拶の筈ですからな。ジョージ様はニナ様を特別な存在だと仰られていましたし、おそらく原初の世界では抱擁で愛を示していたのだと思います――」
饒舌に語るハリルは、はっとした表情になった。
「おっと失礼しました。これは私が信ずる教えなので、貴方の信ずる聖霊の教えを蔑ろにするつもりはありません。悪しからずご了承ください」
今更な言葉だったが、リリアンヌは聖霊の教えに従っていたわけではない。
「いえ、そんな……。それに私はリックのように聖霊の教えを重んじていませんでしたし、いつだって誰かの影響を受けていましたので。きっとハリルさんの信じる教えこそが源流なのでしょう」
弱者救済の理念はリックスブリックスから学んだもの。師のアデマールからは、その強さを真似るように研鑽を研いだ。冒険者になってからは罪を犯した同業者を屠ったこともある。他者のために剣を振るっていたが、どれだけ綺麗な言葉で飾ろうと、殺しであることに変わりない。殺しを否定する聖霊の教えを守っているとは言えないのだ。
「ふむ、源流ですか……」
ハリルは想いを馳せるかのような遠い目をして、何処ともしれぬ彼方を眺めた。その様子にリリアンヌは首を傾げて「どうかしましたか」と尋ねる。
「いえ、それについては相応しい場所で話すとしましょう。もう遅いですし、そろそろ休んだ方がいいですよ」
ますます分からなかった。相応しい場所は、この再生された大地が見渡せる丘の他にあるのか。
しかし、その考えは翌日になって見事に覆された。
◆
「これは……」
純白の神殿の中に入り、リリアンヌは息を呑む。
水と草木の調和。醸し出す雰囲気は神々しくも、穏やかだった。人の身では決して作り出せるものではない。一夜にして造られた神の建造物だったのだと、今なら分かる。
「これが天上の園……?」
リックスブリックスが呟いた。
「俺の知ってるニナは、この泉じゃなくて女神様だけどな。ま、それはともかく、この建物は凄ぇよな。リックもそう思うだろ、な?」
誇らしげに語るザフェルに、リックスブリックスは無言で頷いていた。ゴブリンの親子やオークも言葉を忘れて目を奪われている。
「何度見ても凄いよね」
「俺でもこの泉は素晴らしいものだって分かる」
「癒されてしまうニャ」
ダニーとジェフ、吟遊詩人のセネムも見たことがある様子だ。
「……掛け湯推奨……飛込み厳禁?」
リリアンヌは刻まれた警告文――のようなものを読み上げる。
「掛け湯とは洗礼という意味なのでしょう。冷たい水でなく、温かなお湯で、穢れを落としなさいという、ジョージ様の心配りなのです。あ、いえ、ジョージ様は自ら作ったと公言していらっしゃらないので、女神ニナの奇跡によって、一夜にして建てられた神殿という体なのでしょう」
信仰心溢れるハリルは心苦しそうに、リリアンヌの問い答える。ジョージの意に添いたいのだろう。が、リリアンヌは同志と思われているのか、疑問には真摯に向き合ってくれている。
「えへへ、この中はもっと、もっと、綺麗なんです! 私のお母さんと、ウェ……猫ちゃんがいるんですよ!」
「ええ、あ、はい。その……コロちゃん」
天の使いとしか思えないコロに促される。
はじめて目にした時は、その愛らしさに絆されるのを自覚した。男神を「お父さん」と呼び、女神を「お母さん」と呼ぶ姿は、まさしく神子だ。「コロちゃん」と呼ばないと頬を膨らませるのは、父であるジョージが持て囃されることを好まない様子を真似ているのだろうか。
「ミャア」と鳴く牙猫に催促され、リリアンヌはハリルと共に中央にある小神殿に入り、再び言葉を失った。
源泉……いや源流と呼ぶべきなのだろう。人の心を暖めるべく、女神の手から湯が流れ落ちて泉になり、そして幾つもの水路を通って、海を思わせるような外掘りに繋がっている。
「私はこの泉を初めて目にした時、宗教とはこういうものだと教えられたように感じて、胸が打たれました。女神の手から注がれた小さな泉は、原初の世界を表しているのでしょう。まるで川の始まりのようだと思いませんか? 私は神の教えとは源流の滴なのだな、と考えさせられたのです」
昨日とは、うって変わって落ち着いた態度のハリルは、穏やかに微笑む。
「では、外の大きな泉は?」
「海……つまり今の世界でしょうな。女神の教えから、随分と遠く離れてしまっているでしょう? 泉から分かれた支流は、やがて大海に流れます。しかしどれだけ離れ、水の流れが変わろうと、元を辿れば繋がっているのですよ。……人も宗教もね」
ハリルが言わんとしていることが理解できた。どれだけ時が流れ、始まりから遠ざかろうと、何処かで繋がっている。聖霊教然り、女神ニナを思わせる文言が残されている。
「では、聖光教団も繋がっているのでしょうか。この清浄なる泉とはかけ離れているように思います」
「繋がっていますよ。ただ……意図的に教えを歪めているのでしょう。いかに清浄な水であろうと、無理に流れを塞き止めてしまえば水は変質し、淀んでしまうでしょうから」
「その方が都合が良いと考えている勢力が潜んでいる。……そういうことでしょうか」
「……おそらくは。ですが他者のためを想って、故意に教えを変えるのならば、その気持ちも分からなくないのです。例えば神の名を利用して、食べ物を制限している地域もあるそうですな。……毒魚の多い地では、魚は不浄なる食べ物だと教えて、毒にかからないように未然に防いでいるとか。そういった話なら理解できるのですが」
「人を救うための教え……ですね。もしかすると聖光教団も始まりは他者を想ってのことだったのでしょうか?」
「そうだと願いたいものです。しかし利益や欲が絡んでしまうと……難しいものなのでしょうな」
ハリルは思いを巡らせているのか沈黙する。リリアンヌも同様に思案した。
魔物という概念を作り、明確な敵を作ることの意味は何か。敬虔な聖光教団の信徒は選民思想を持ってる。人間種こそが最も優れている種族だと信じて憚らないのだ。
「思想の統制のため……でしょうか」
考えていたことが口を衝いて出る。
かつてリリアンヌも知らぬ間に無味無臭の毒に侵されていたのだ。ゴブリンは魔物ではないと分かっていたが、それ以外の種族は気に留めていなかった。
「ふむ、それも考えられますな。いや、その可能性が高いでしょう。……ともかく、歪んでしまったのなら、正したいものですな。種族としての特性や、文化は違っていても、どこかで繋がっている、と今の私は考えているのでね。私達は神の子なのですから」
「神の子……ですか。やはりジョージさんの言葉はそういう意味だったのですね」
「ほう! ジョージ様から、何を教わったのですか!?」
少年のように目を輝かせるハリルに、リリアンヌは頬が緩む。
「どれだけ外見に違いがあって、どんな種族であろうと、尊重すべき人だと言っていましたよ。『俺かそれ以外』で見ているそうです。つまり父と子。私達は愛すべき子供達という意味だったのでしょう」
傍らにいるだけで安心感があった。
幼少の頃に酷い目に遇いかけていたせいもあり、欲情する男の視線には不快感しかなかったが、ジョージからは下卑た視線を全く感じなかった。当たり前の話だ。子に欲情する父がどこにいるのか。
「そうでしたかっ! ああ……私も似たようなことをお聞きしました! ジョージ様は『天は人の上に人を作らず』と女神ニナ様を懐かしむように呟いていました。個々の能力に差はあっても、身分としての差は、種族間にはないということでしょう。神の子という意味では、全て同じ身分なのですからな」
「良い言葉ですね。私達の上には神様がいるだけで、他は等しく神の子供なのでしょう。……いつか手を取り合って暮らしたいものです」
感慨深くリリアンヌは呟いた。
それこそが理想の地。
いつか見た儚い夢物語。名前を偽ったまま、家の復興など有り得るものではない。しかし叶わぬと知っていても、手を伸ばさずにはいられなかった。冒険者になってランクを上げることに躍起になったのも、それが理由だった。
「いつかではありませんよ。今から作るのです、他ならぬ貴女の手で国を、ね」
ハリルは満面の笑みで応える。
「それはどういう……意味なのでしょう。シュケル国はリック達を受け入れるのでしょうが、私が入り込む余地など――」
声が震えていた。国を作るのなど簡単なことではないし、多くの犠牲を払うものだろう。だが、微かな希望に心が揺れ動く。
「ありますよ。私は良い場所を知っているんです。この泉なんてどうでしょうか。まずは小さな村を作り、いずれ世界最小の国を建国……というのも良いと思います」
「え……? いや、それは」
あまりにも現実離れした提案に、リリアンヌは上手く言葉を紡げなかった。
「これは貴女だからこそ提案しているのです。ジョージ様から大きな愛を与えられたからこそ、貴女は他者に愛を与えられる存在になれるでしょう。まずは心を落ち着けて、検討してみてはどうでしょうか」
そう言い残し、ハリルは小神殿を後にした。
静謐な部屋の中で牙猫とリリアンヌだけがいる。高鳴る鼓動が、身体の中で反響していた。
即答できなかったのは、自分が相応しいとは思えなかったからだ。
人型の魔物と呼ばれる者の命を奪ったこともある。
言葉が通じなかった。躊躇をすれば死ぬのは自分。殺られる前に殺るしかない。――そんな言い訳はいくらでもできる。しかしザッグダレッグの件を知ってしまえば、復讐の連鎖だったのではないかと考えてしまい、過去の行いを悔やんでしまう。
今にして思えば、縄張りを侵したからこそ、動物達は牙を向いたのだろう。だが、危険な魔物だと決めつけ、大勢の仲間と討伐に赴いたこともある。それが世のためになると信じて疑わなかった。兵士が見向きもしない寒村を守るために剣を握った。それが力を持つべき者の義務だと考え、魔物を一方的に屠っていたのだ。悪名高き魔物は、長く生きて巨大に育った動物でしかない。それだけ年季を重ね、知恵を身につけているからこそ、計り知れぬ恐ろしさがあっただけ。それを人間側の身勝手な理由で狩っていたのだから、あの三人組と同類だ、とリリアンヌは自らを責める。
相手を思いやる気持ちがなく、無味無臭の毒に犯されていた。そんな冒険者が、他者に愛を与える存在になれる筈がない。
「迷っているのね。でも、今の貴女だからこそ、迷いが生まれたのだと思うわ。お父様の愛を知り、己の過ちに気付いたからこそ、前に進めるのよ。過去は変えられないけれど、未来は作ることができる。……私はそう思うの」
諭すような声がした。
気が付くと牙猫の姿はなく、同性でも見惚れるような美しい半獣人の女性が、全裸で微笑んでいた。




